第一話 謎の男とシャーレ

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それはただの気まぐれだった。
いつもやるように、自分の作り出した玩具を人間に与えるだけ。
あとは、それをめぐって人間がどう行動するか見るだけの、ただそれだけの遊び……そのはずだった。


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20XX年。

社会の情報化が極限まで進み、飽和し、もはやアップデートすら停滞し始めた頃、従来の電子回路型のコンピュータに代わるものとして粘菌型コンピュータが研究され始めていた。

生物的なコンピュータ、脳の再現……そのようにもてはやされてはいたが、実際のところ研究は思ったように進んではいない。
長期間運用するには粘菌の寿命はあまりにも短く、また、情報伝達速度は電子回路型に比べ、驚くほど遅いためだ。

そんな、今の技術ではどうにも改善されないデータを眺めながら、リックはため息をついた。
画面から照射されるブルーライトが大幅にカットされるタイプのディスプレイを使っているとはいえ、何時間も画面を眺め続けた視界はすっかり霞んでしまっている。

「もう何やったってどうにもならないもんな」

半ばぼやくように呟いて、粘菌の入ったシャーレを叩く。

隣のテーブルにコーヒーを運んできたウェイターが、シャーレを見て変な顔をしていたが、知ったことじゃない、とばかりに薄いコーヒーを啜った。

こんなシャーレを持っていることからも分かる通り、リックもまた粘菌型コンピュータの開発チームに参加する科学者の一人だ。
しかし、そう頭が切れるわけでもなく、風采の上がらない彼は、研究室でも、そう発言権があるわけではなく、チーフの雑用として実験データの整理整頓をすることが職務となりつつあった。

「もっと活動性の高い粘菌さえいればな。そんだけで全然ちがうのに……」

例えば南米なんかにはいそうなもんだけどな……そうぼやいたリックの視界が不意に陰った。
誰か来たのか?そう思って顔を上げると、テーブルの向かいで一人の男がたたずんでいた。

「すみません、相席してもよろしいですか?」

困ったように笑う男に、リックは周囲を見渡す。
なるほど、ちょうど混み合う時間らしく、不運にも空席は見つからなかったようだ。

「かまわないが……」

そうリックが返せば、ありがとうございます、と律儀に礼を言って席につく。

特に集中してやるような案件もないので、タブレットを操作しつつ、男がウェイターを呼んでコーヒーを頼む様子をぼんやりと観察した。

まあ顔の整った男だ。黒髪に褐色の肌のおかげか白い歯がよく映えて見える。
だが、不思議なことに、これ以上形容しようとすると、たちまち言葉は消え失せてしまうように感じた。

ウェイターが去り際に冷たい視線を寄越してくるのを背中で感じつつ、なおも観察を続けていると、男がシャーレに目を向けているのが目に入った。

流石に片づけた方がいいか……そう思ってシャーレに手を伸ばすと、急に男に話しかけられた。

「粘菌の研究をしていらっしゃるのですか?」

いきなり話しかけられたことに驚いたせいでまともに声も出せず、ただこくこくと頷いていると、男が持参した鞄から何かを取り出す。

丸い円柱状のガラス容器……そう、シャーレだ。

中にはリックが持ってきたものと同じく、粘菌が入っているようだが、彼も研究者なのだろうか。

不思議そうにシャーレを見つめるリックに、男は一つの話をしてくれた。

曰く、南米で生物を研究している友人が新種の粘菌を発見したという。
従来の粘菌よりも繁殖力が強く、また、活動性も高いのだとか。
そこで、この粘菌がコンピュータのシステムに使えるのではないかと思い、その方面に少しだけ関わりのある者に託したいというのだ。

「しかし実際はそう開発に関わっていないので、このままでは宝の持ち腐れになってしまうんですよね……」

そう苦笑交じりに言った彼に、リックは思わず、こう口にしていた。

「だったら、その粘菌、自分に譲ってもらえないか?」

その瞬間、男は実に奇妙な表情をしていたように思う。
突然、思いもよらないであろう申し出をされたことによる驚きと、まるで、悪戯を成功させた子供のような……しかし、恐ろしいほどに底意地の悪い感じの何かを見せる表情だ。

だが、すぐに好青年の顔に戻って、いいんですか?とリックに問うた。
むしろそう訊ねたいのは自分だ……そんな言葉を飲み込み、リックは頷く。

「使えるかどうか、培養しながら実験はしてみる。結果が出次第、君にも報告しよう。
 えーと……」

ここでようやく、お互いに名乗っていないことを思い出した。
そのことに男も気づいたらしく、自分から名乗り始める。

「すみません、名前も名乗らず……私はハウル=ザナタックです。
 是非、ハウル、とお呼びください、リチャード=ミッジリーさん」

フルネームを当てられ、リックは動揺する。
どうして……?と訊ねたリックに、ハウルは笑ってリックのネームプレートを指さした。
どうやら、このネームプレートを見て名前を確認したらしい。

うっかりしてらっしゃるんですねぇ……などとのたまう男、ハウルの言葉に苦笑してリックはシャーレを受け取った。

それからはコーヒーをはさんで他愛の無い話をしていたと思う。
だが、リックが気が付いた時には、ハウルの姿は消えており、テーブルの上には二つのシャーレと、どうやらハウルのものらしい連絡先の書かれたメモだけが残されていた。


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