第四話 楽園

開いた扉、その分厚い白い壁にあいた穴から識の目に飛び込んできたのは、一面の緑だ。

足が沈み込むような腐葉土をところどころに花の咲いたみずみずしい緑の草が覆い、
見上げれば、色とりどりの果実や花弁を抱えた木々が茂っている。
光は、人工の照明であることが疑わしくなるほどに暖かさを持っていて、
空気は地下らしい埃っぽさとは無縁で、芳醇な香りと潤いとを持っている。
肌に触れるそれは暑くもなければ寒くもない。
どこからか風が吹いてきて、識の髪をふわりと弄んだ。

そう、この光景は、かつて地球上に存在し、今は失われてしまったという、"楽園"そのものだった。

森の地面には、草を掻き分けるようにして石畳が敷かれており、レールのように何処かへ続いている。
その上を識は淀みなく進んだ。

森の中には、時折、開けた場所があり、そこには洒落たカフェテリアにありそうなパラソルとテーブル、チェアとが設置されている。

安楽椅子のように背もたれが倒れるようになっているそれのいくつかには、人々が横臥し、しゃべるでもなく、食べ物を口にするのでもなく、
ただただ、見えない誰かと会話でもしているかのように中空に視線を彷徨わせていた。

識はそのような人々には目も向けず、黙々と森を進む。

やがて、森が終わり、ガラス張りの建造物が姿を現した。
ガラスの向こうはひどく無機質な空間で、素粒子一つさえも通さなそうな、どっしりとしたスライドドアが並んでいる。
この建造物はかなり長大な代物だが、全体を見渡せばもちろん曲がり角というものはある。
そして、その曲がり角は、この森の末端を表していた。
つまり、なにが言いたいのかというと、この森が"楽園"の施設を取り囲んでいるわけではなく、この森は、あくまで、"楽園"の中庭の一つに過ぎないということだ。

識はガラスのある部分に手を触れ、一般家庭にある窓ガラスのようにスライドさせて中に入った。
そして、最寄りのドアへ近づく。

ドアのネームプレートには、"Mikaduki Hojo(宝条 三日月)"の文字。

識はドアの横に付属されたインターホンの呼び鈴を鳴らした。
すると、それほど間を空かずにドアが開く。

『これはどうも』

識が足を踏み入れると、その背後でドアが排気音を響かせながら閉まった。

識が踏み込んだそこは、通路以上に無機質さを感じさせた。
そして、ひとつまみの混沌と狂気も。

寒々しさを湛えたリノリウムの床と白くつるりとしたタイルであしらわれた室内。
壁に作り付けられた漆黒の作業台には、無数のガラス器具とコンピュータのディスプレイが多数、蛍光灯に輝いている。
床からは、得体の知れない溶液で満たされたチューブやカプセルが乱杭のように生えており、なんとなく外の森を彷彿とさせた。

そんなガラスと溶液、そして機械で構成された科学の熱帯雨林を抜けて、識はようやく人の姿を認めた。

半ば機械と同化するようにしてせわしなく手を動かす後姿に声をかける。

『三日月』

その人物が振り返った。
その手の動きからは考えられないほど悠長な動きだ。

頭の上で二つに結われた豊かな黒い髪が揺れる。
長い前髪の奥、茫洋とした、あどけない顔で榛色の瞳を瞬かせ、少女の薄桃色の唇から言葉が零れた。

「やぁ、待ってたよ。
 "焦げた注射器(バーントサリンジ)"」

ほとんど電子音のような声で、宝条 三日月はそう言った。
何気ない挨拶だが、それは識の怒りを誘うのに十分過ぎるワードを含んでいた。

『あぁ、久しぶりだな、"狂乱少女(ルナティックアリス)"。
 元気そうで安心したよ』

一滴分の毒を込め、敢えて彼女をコードネームで呼んでそう返す。

だが、彼女自身、その呼び方には慣れているのだろう、特に目立つリアクションも示さず茫洋とした視線を彼女に向けるばかりであった。

いつもながらに意図を感じさせないその視線は、識が苦手とするものの一つだ。

しかし、視線を逸らすことは識のプライドが許さず、しばらく二人は無言で見つめ合っていたのだが……。

「スポットライトでも当ててやろうか?
 お二人さん」

不意に割り込んできた声に二人は振り返った。

見れば、床から生えているカプセルの一つが開封されており、蒸気を吹き出している。

識がそれを注視していると、四角く開いた開封口の淵に小さな手がかかった。
人と似たような形でありながら、四本しかない指。
細長い指と指の間には、よく発達した水かきがついている。

ついで、よいしょ、と言う声とともにそれが全貌を現した。

小さく、まろい形をした頭。
つるりとした薄青い皮膚に、星屑のように散った藍色の斑点。
華奢な印象を与える、細くて長い脚。

それは、一匹の青い蛙だった。

南米の種らしい、鮮烈な青をまとったその蛙は、確か、アイイロヤドクガエルと言ったか……。

だが、その蛙の目には深い知性が宿っていることが見てとれる。

『なんだ、そこにいたのか、ケン』

識は半ば笑い声でそう声をかけた。

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