白痴の創造主によせて

俺が養父に連れられてそこへ行ったのは彼の下で働き始めてしばらく経ってからのことだった。

人の身ではたどり着くことは叶わないであろう、幾百も幾千も広がる宇宙の、数万にも数億にも及ぶ時空のその中心。

限られたモノしか足を踏み入れることのできない “混沌”という窮極の虚空が形作る宮殿の、暗澹たる螺旋状の渦動の中心にある玉座。

そこに“王”は存在した。

もがき悶えるように蠢く無数の手足とも蔓とも似つかない有機物の質感を持つ肉の塊。
ちょうど天辺にあたるだろう部分には、エメラルドグリーンの瞳が重い瞼に半分隠れるようにして煌めいている。
体のところどころに口と思しき裂け目が開いており、ときどき何かを呟くようにはくはくと動くのが見えた。

その肌はぬめるような生々しい光を放つようで、ともすれば官能的だと錯覚してしまいそうだ。
だが、涙とも涎ともつかない粘液質がてろてろと身体を流れ落ちて、玉座を汚すさまには思わず閉口した。

“王”の有り様はまるで赤ん坊のようなと言えば可愛く感じられもするが、目の前に存在するこれは、むしろ、純真さも理知の欠片もない、幼児退行した大人のようでもあった。

俺はそっと視線を外し、誉れ高くも、御前に控えるモノたちに目を向ける。

宮殿の中には楽士トルネンブラや踊り子トゥールスチャを始めとした藩神たちが“王”の無聊を慰めるために控えており、下劣でデタラメな拍を刻む太鼓とか細く不安を煽るようなフルートを奏で、火のように触手をくねらせて踊っていた。

そんな音楽なんてものは、地球で長らく暮らしてきた俺にとっては耳慣れないもので、この大伽藍に大してあまりに頼りなく思える音色に、この“王”が退屈するのも当たり前だろうな、と少しだけ同情した。

せっかくの宮殿なのだ。
オーケストラくらいは入れたっていいんじゃなかろうか。

そんなことを心中でごちて、もう一度、玉座へと視線を向ける。

すると、養父は……ニャルラトホテプは人の姿のまま玉座へと歩み寄り、おろしたてのスーツが汚れるのを厭うこともなく、“王”へと歩みより、その体に触れていた。

「お久しゅうございます、我が父よ」

普段の態度からは想像もつかないような優しい声に俺は驚いた。

“這い寄る混沌”とも呼ばれるこの神は、 常に嘲笑的で皮肉屋だ。
そのスタンスは人間をはじめとした下等種族はもちろん、神格を相手にしたときにすら崩すことはなかった。
それなのに、この“王”を前にしたときのこの声音は、態度は、何なんだろう。

単純に媚を売っているだけなのだろうか。
だが、それならもっと表面的で儀礼的なほどに白々しいやり方をするはずだ。

それに“王”は既に知性もその権能も失い白痴となってこの宮殿に閉じ込められている。
そんな者に敬意を払う必要なんてものは正直に言うと、ない。
その証拠に、“王”を信仰する種族というのはかなり少ないのだ。

それなのに、ニャルラトホテプは優しい声音で語りかけ続けている。
わざわざ身体から飛び出した手のようなものに触れてまで……。
その姿はさながら、病床の父を励ます
息子のようでもあったし、目覚めぬ姫を盲信的に待つ貴公子のようでもあった。

俺にもそんな顔、見せたことないのに。

半ば嫉妬心のようなものを抱いて彼らを見守る。

相も変わらず藩神たちは物寂しげな鼓笛を奏で、緑の火柱が舞を披露している。

なのに、玉座にて睦み合う二人はまるで時が止まったようで……そう、釣り合いがとれないようでいて、とても絵になるのだ。

ぼんやりとそのさまを眺めていた俺に、不意に声がかかる。

見れば、ニャルラトホテプがこちらを振り向いて手招きしていた。

「エルフト、“王”に御挨拶を」

はいはい、と返事をして玉座に歩み寄る

“王”の前に立って初めてわかるのは、やはりその存在感だろうか。
むわっと迫るような神気を持っているにも関わらず無知の霧がそれを覆い隠しているような……。

“王”に謁見することは、すなわち存在の根底を覆されることとは聞いていたが、このプレッシャーなら、並みの存在は押し潰されても仕方がないだろう。

無意識に竦む体に鞭打って、俺は“王”の傍に膝をついて、飛び出した手のうちのひとつを握った。
すると、今までずっと中空に視線を放散させていた瞳がじろりとこちらを向いた

「おや“王”はお前に興味があるようだな どうやら名前を知りたがっている。
エルフト……いや、ズーニー、名乗りなさい」

わざわざいつもの呼び方から変えるということは、そちらを名乗れと言うことだろう。

ニャルラトホテプに催促されるに従って俺は“王”の目を覗き込んだ。

『初にお目にかかります。我が“王”よ。
 私はズナースディズヴァ……あなた様 の嫡子であるニャルラトホテプの下にお仕えさせていただいております』

新しい顔触れが珍しいのか“王”は手足を伸ばしてぺたぺたと俺に触れ、しきりにその姿を捉えようとしていた。

口のそれぞれも、むにゃむにゃと囁くような声で、

「ズナースディズヴァ」
「運命を知る者」
「世界線の観測者」
「十一番目の伝令」
「後日談の語り手」

と、俺の情報を咀嚼している。

そう、教えたはずもないことまで、この方は知っているのだ。
てっきり、耄碌しきった老人のように戯言しか口にしないと想像していただけに驚く。

それと同時に、背筋を冷たいものが走り抜けた気がした。

やはり、俺もニャルラトホテプも含めて全ての存在は“王”の夢にすぎないのではないかと。
ゆえに、“王”は本来は存在しないはずの俺のことを知っていて、ここに来ることだって予見していたのではないかと。

そして、その目がしかと開かれ、“王”がその夢から覚めてしまえば、泡沫の如く俺たちは消えてしまうのでは ……と。

それがわかってかわからないでか、俺が握ったその手をしっかりと握り返してくれるのだ。
まるで俺が何処にも行かないよう、引き留めるかのように。

ああ、この方は寂しいのだ。

俺は恐怖の中で静かに理解した。

本当は、目を覚まして我が子と触れあいたいだろうに……でも、目を覚ませば、眠りから覚めてしまえば、自分の存在が抑えることの出来ない力が、全ての宇宙ごと彼らを押し潰してしまう。
だから“王”は眠ることを選んだ。
無為に力を振るわないように、眠ることで自らを封印し、子供たちに頼んでこの宮殿を造り、そこに閉じ籠っているのだ。

「ズナースディズヴァ」

ざわざわと複数の口が呟くように俺の真名を口にする。

「かわいい」
「いとおしい」
「我が……」

そこまで言ったところでつと“王”の目が閉じられる。

先程まで蠢いていた手足もだらりと垂れ下がり、もがき悶えていた身体が嘘のように穏やかなリズムで上下する。
だらしなく半開きになった口からはすーすーと寝息が聞こえるようで、どうやら“王”は深い眠りについたようであった。

「どうやらお疲れになったようだな。
 その様子ではお前を気に入ったらしい。
 “王”の覚えがめでたいとはよかったで はないか」

やはり皮肉げにニャルラトホテプが言う
別格の対応をするほどに大切な存在なのだ。
静かに見守っていたわりには、彼が忌み嫌いそして同時に愛して止まない人間と同じように、嫉妬に身を焦がされていたのだろう。

力の抜けた手を名残惜しくも離して、俺はニャルラトホテプの方へ振り向いた。

『なんかさ』

「うん?」

『俺、わかった気がするよ。
 アンタがここまで“王”を気にかける理由』

するとニャルラトホテプはふっとやけに人間臭く鼻で笑う。

「会って間もないというのに、既に“見通した”とでも言いたいか、エルフト」

その無表情の裏にあるのが苛立ちなのか悔しさなのか、俺には見えなかった。
でも、彼の感情が揺らいでいるのは確からしい。

『たぶん、寂しいんだ。手を伸ばす先が何処にも無くて』

もがき、悶え、とても苦しくて、とても寂しくて、何処かに手を伸ばそうとするような、あの数多の手足を思い出す。

『いつか、あの方が目覚める日が来ればいいのに』

「あの方が目覚めれば世界か滅ぶことになるぞ」

俺の呟きを聞いて、ニャルラトホテプはせせら笑う。
けれど、俺はただ静かに、いいんだ、と答えた。

『あの方ならね、“王”ならね、きっと目を覚ましても、世界を滅ぼしなんてしないと思うんだ』

たとえ世界が滅びたとしても、滅ぼすのが“王”であるのなら、俺は幸せな気持ちのままでいられるだろう。

俺は星の綺羅綺羅しい宇宙へと足を踏み出しながらそう思った。

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