ハッピーエンドの定義について


「夏油くん、今までありがとう」

終わりのタイミングとしては今が最適で最後だと思った。そして終わりの言葉は『ごめんね』でも『さよなら』でもなく、『ありがとう』以外に無い。
つまりこれはあるべき姿をした文句の付けようのないハッピーエンドなのだ。誰が何と言おうと。


私は何とも間の悪い時に骨折した。硝子が北海道のアイヌ呪術連に研修で2週間、高専を離れたその初日に任務で脚の骨をポッキリやってしまった。
しかもその任務というのが夏油くんと一緒のものだったから、彼はありもしない責任を感じて何度も謝ってくれた。

「本当に済まない、私が反転術式を使えればいいのに…」
「それが稀有なことだから硝子がすごいんでしょ。私だって出来ないしね」

硝子に骨折のことを伝えないでほしいとお願いしたのは私だった。死ぬような怪我じゃないし、友達の貴重な機会に水を差したくない。

一応、夏油くんと私の関係には恋人という名前が付いているのだけれど、片想いとそれに対する同情というのが、一番相応しい表現だと思う。あるいは夏油くんが暇だったか。

高専提携の病院で手当を受けた私は、左脚の膝から下を長靴のようなギプスに覆われて、松葉杖と一緒に補助監督の車で高専に帰ってきたのだった。
山深い場所にある高専の敷地は段差が多くて、任務終わりの疲れた身体に優しくないと常々思っていたけど、今日は一段と絶望的な気分になる。松葉杖でこの道を行くのかぁ…と思っていると、いきなり身体が浮いた。夏油くんが私を抱き上げていた。

「ちょっ悪いよ、私歩けるっ」
「いいから」
「いや良くないから?!」

夏油くんは軽々と私を横抱きにし、器用に松葉杖と私の左のローファーも持った。補助監督の男の人が「松葉杖を持ちましょうか」と申し出てくれたのをピシャリと断って、さっさと階段を登ってしまう。
これだからこの人はモテるのだ。

「ごめん、暑いよね。すぐ医務室に行くから」

日が暮れているとはいえまだ夏、暑いのは夏油くんだって同じなのに。
ただ、触れたところがジワジワと熱いのは私だけだろう。
降り注ぐように蝉が鳴いている。ジワジワと鳴いている。

夏油くんの黒髪は鴉みたいだ。艶々と黒いけれど黒一色ではなくて、光の具合で虹色に光って、見る度に違う色を発見する。私はそれが大好きだった。
翌日から、任務に出られなくなった私の分まで夏油くんは早朝から任務に駆り出されるようになった。忙しいだろうに寮の私の部屋(のベランダ)まで来て、その大きくて優しい手で私の髪を撫でて「じゃあ行ってくるから」と言うのが、それからの習慣になった。黒いばかりの私の髪を、何が面白いのか夏油くんはよく撫でてくれる。
夏油くんの綺麗な髪なら触り甲斐もあるだろうけど…と思って、ある朝私からも頭を撫でてみた。

「夏油くんは綺麗だね」

夏油くんは切長の目を丸くして固まってしまった。背の高い人は頭を撫でられるのに慣れていないと聞いたことがあったのを、後から思い出した。良くなかったかもしれない。

「行ってらっしゃい。気を付けてね」

彼が今から向かうのは私に振られる予定だった任務で、『気を付けて』なんてどの口が言うのか。それに気付いたのも言ってしまってからだった。私はいつも、遅い。

そんな調子で夏油くんの忙しい日々と私の暇な日々が続いた。夏油くんは任務の帰りにアイスを買ってきてくれたり買い出しを代わってくれたり掃除を手伝ってくれたり、実に甲斐甲斐しく私の世話を焼いてくれた。

ある夕方、任務からもどってきた夏油くんが少し照れ臭そうに向日葵の束を私に差し出した。「向日葵…」と名札を読み上げるみたいに私が呟くと、夏油くんは居心地悪そうに後ろ首を掻いた。

「今日、任務で行った近くに向日葵畑があったんだ。補助監督を待ってる間に持ち主の人が、ね」
「大きいねぇ」
「ごめんね、花瓶…っていうかバケツかな。借りてくるよ」

夏油くんは私の膝に向日葵の束を置いてからハッとして「ごめん、迷惑じゃないかな」と言った。

「ぜんぜん。ありがとう」
「良かったよ」

彼は私の好きな虹色の髪を揺らして、またベランダから出ていった。
静かになった部屋で私は向日葵と見つめ合ってみる。
ねぇ、夏油くんはどうしてこんなに優しいんだろうね?もしかして私のこと好きだったりするのかな。
『んなわけないでしょ』と言ったのは、私のなけなしの冷静か、向日葵か。
夏油くんの出ていった窓から蝉の声と生ぬるい風が部屋に流れ込んでくる。ジワジワと鳴く蝉はいつだって私を責めている。まだ縋り付くつもりかい?現実をご覧よと。
うるさい。
分かってるよ。
うるさい、うるさい。




私のせいでミズキが負傷した。しかも2週間続く硝子の不在の初日に。特級だ何だと肩書きばかりが立派になって、この体たらく。
情けない思いで硝子に連絡を取ろうとした私をミズキが止めた。「硝子に悪いよ、死ぬような怪我じゃないし」とミズキは言う。

私とミズキの関係には一応恋人という名前が付いているけど、実情は私の片想いと彼女の優しさでしかない。ミズキは優しい。
「夏油くんのせいじゃないよ」と笑う彼女の左脚は、膝から下が長靴を履いたようにギプスで覆われていた。
高専の敷地に段差が多いのを言い訳にしてミズキを抱き上げて階段を登る。私の腕にはミズキと、松葉杖、小さな左のローファー。それでも重さは大したことはない。ミズキは最初嫌がったけど私が押し通すと抱き上げて運ぶことを許してくれた。
日が暮れたとはいえまだ夏、空気が蒸し暑くて、私はいつミズキに『暑いから離せ』と言われるか恐ろしくて先を急いだ。

「ごめん、暑いよね。すぐ医務室に行くから」

暑い。
ただ、触れたところがジワジワと熱いのは私だけだろう。
降り注ぐように蝉が鳴いている。ジワジワと鳴いている。

ミズキは黒い猫みたいだ。艶々としてしなやかで、一見黒いのによく見ると虹のように色んな色を含んでいる。私はその髪を撫でるのが、今日も撫でさせてもらえると確認するのが、とてもとても好きだった。

我ながら図太いと思うけれども、翌朝から見舞いにかこつけて毎日ミズキの部屋を訪れるようになった。ベランダに降りて窓をノックするとレースのカーテンが揺れてミズキが顔を出す。鍵の音がして窓を開けてくれて、まだ少し眠そうな「おはよう」をもらう。寝癖というほどでもない髪の乱れを直す度、柔らかい髪が私の指に触れる度、不謹慎な喜びに浸っていた。
いつも通りミズキの髪を撫でていると、彼女がじぃっと私の顔を見ていることに気付いた。撫でる手が迷惑だったかと思っている間にミズキの白い手が伸びてきて、何と私の頭に乗った。

「夏油くんは綺麗だね」

キスがしたいと思った。私の頭に乗った手を引いてミズキを受け止めて。
私は、綺麗なんかじゃない。私にとって『綺麗』の部類にはミズキしか入っていない。
本当は華奢な身体を思い切り抱き締めて小さな唇にキスをしたい。だけど私のせいで怪我をしたミズキに、どの面下げて無遠慮に触れるものか。…髪は、触らせてもらっているけど。
ミズキはその優しい手で、黒いばかりのつまらない私の髪を撫でてくれた。

「行ってらっしゃい。気を付けてね」

何でもする、何でもするから、傍に寄ることを許し続けてほしい。それだけだ。

ある時、任務を片付けて補助監督のピックアップを待ちながら日陰を求めて歩いていると、広大な向日葵畑に行き当たった。方角の関係でどの花も私の方を向いていて、眩しいほど黄色かった。
別に向日葵の花は好きでも嫌いでもない。
ただその黄色は黒い毛並みの中に光る猫の目を思い起こさせた。ミズキの目は黄色くなんてないのに、彼女の穏やかな目はどちらかと言うと大輪の向日葵とはそぐわないのに、その時私には向日葵がミズキの目に見えて離れられなくなってしまった。

「良ければ差し上げましょうか」

気付けば随分熱心に、長い時間、私は向日葵を見ていたらしかった。日陰を探すことも忘れて。
それで、畑の持ち主と思しき老婆が手際良く向日葵の茎を切って(花を摘むというよりは伐採という感じだった)新聞紙でくるむのを、止められもせずただ眺めていた。私を迎えにきた補助監督はギョッとしていた。
ミズキの細い腕に向日葵を渡してしまってから、この大ぶりな花は邪魔や迷惑になりかねないというのに気付いた。慌てて迷惑じゃないかと尋ねるとミズキは笑って否定してくれて、私は向日葵を立てておくのにバケツを求めてミズキのベランダから飛び降りた。

日が落ちても風はまだ生ぬるく、今日もジワジワと蝉が鳴いている。7日間の鳴き声はまだ続いている。
いずれミズキの優しい気まぐれが終わって『お前なんか要らない』と言われてしまったら、抗いようもなく、私の幸福はそこで終わりだ。私の好きな虹色の髪に触れる喜びも、抱き上げて階段を登る特権もなくなってしまう。
ジワジワと蝉の鳴く間はまだ、私は許されている気がする。
あと少しだけ。
分かってる。『いつまでも』じゃない。
あと少しだけ、どうか。


週末の朝、いつものようにミズキを訪ねると彼女はとても微妙な顔で私を出迎えた。途端、嫌な予感が走って肋骨の内側で心臓が居心地の悪い脈打ち方をする。

「硝子、今日帰ってくるって」

予定よりも少し早い。
それは吉報に違いないのに、私の動悸は治まらない。ミズキは少し迷ってから口を開いて、やはり閉じ、また開いて、ぽつりと言った。

「夏油くん、今までありがとう」
「…いや、当然だよ」
「違うの…それもだけど、今までありがとう。たくさん優しくしてくれて」

やめてくれ、言わないで。
清算するような、終わりみたいなことを。

「もう、いいよ。これ以上は」
「どういう…いや、どうして、」
「ずっと言わなきゃいけなかったのに、甘えててごめんね」

ミズキが離れていく。その実感は想像よりずっと恐ろしくてとても冷静でなんていられなかった。
部屋の隅で向日葵が俯いている。
蝉はどうだ、私は外から来たはずなのに鳴いていたか思い出せない。
嫌だ。
ミズキが「え?」と首を傾げて、それで自分が「嫌だ」を声に出していたらしいと気付いた。

「別れたくない。鬱陶しかったら会いにくるのを減らすよ…何でもする、だから」

聞き分けのない子供みたいだ。この期に及んでミズキの優しさに縋ろうとする自分に嫌気が差す。こんなことだから、ミズキは私を好きにならなかったんじゃないか。
タガの外れた口は止まらずベラベラと情けない本音を垂れ流した。ミズキが困ってる。

「夏油くん、」
「ミズキの恋人でいたい、別れる以外なら何でもする。付き合うずっと前から好きだったんだよ」

ミズキはひどく困惑したような顔をしていて、随分と間を置いてから「え、ぇ?」と半端な声を出した。





「完全に夏油が悪いに決まってるだろ」

硝子に言わせると10:0で非は私にあるらしい。酌量の余地は無いのだろうか。

「そもそもお前がミズキに『いま好きな相手がいないなら私と付き合ってみる?』とかクソでしかない告白したせい」

それを言われると返す言葉も無い。

硝子は帰ってきてミズキのギプスを見るなり私を睨み付けて「説明」と短く要求した。瞬く間に骨折は修復され、そこからはただひたすら事の次第を陳述する時間になって、その流れで一度拗れたミズキと私の関係についても報告することになった。一連の報告を聞いた硝子の判決が10:0で私の敗訴だったというわけだ。
確かに告白する時に土壇場で保身に走ってしまったことは、我ながら悔いているところだけど。

「ミズキも私のことを好いてくれてるなんて思わないじゃないか。振られて気まずくなるのは避けたかったし…」
「そのおかげでミズキは『夏油くんは同情で優しくしてくれてるだけだよ』って私にずっと言ってたわけだが」

だからごめんって。
脚の治療を終えて、治療台の上でクマのぬいぐるみみたいに座っているミズキがくすくすと笑った。可愛い。

「硝子には情けないところ見せちゃった。イライラだったでしょ、ごめんね」
「基本的に夏油と付き合うのは反対だったから、早くミズキが愛想尽かせばいいのにと思ってた」
「恐ろしいことを言わないでくれ…」
「誠心誠意謝罪したまま頭を上げるな、ミズキが負傷したなら2秒以内に私を呼べ、どこかで理不尽に痛い目見ろ」

硝子が結構本気で怒っている。
それでも、今日初めてミズキから「好き」と言ってもらった私の浮かれた気分に水を差すには足りなかった。「ずっと私ばっかり夏油くんのこと好きなんだと思ってた」と、ミズキが言ってくれた。勿論すぐに否定したけど、それは別として気を抜くとニヤけてしまう嬉しい言葉だったのは間違いない。

「さて」と言って硝子が何やら厳つい工具を取り出した。ピザカッターを電動にして殺傷能力を高めたような見た目のそれ。

「ギプス切断するぞ。夏油、台の上に腕捲って出せ」
「いや理不尽に痛い目見せようとしてるよね?」
「大丈夫、後で『ごめん間違えた』って言うから」

何ひとつ大丈夫じゃないな。

丁度そこへ、長期の出張に出ていた悟も帰校した。帰って硝子の顔を見るなり目を輝かせて「なぁなぁどうだった?」と聞くから何の話だと思っていたら、どうやら硝子と悟は2人が不在の間に私達の仲がどう転ぶか賭けていたらしい。
事のあらましを聞いた悟は不満そうに口元を曲げた。

「つまんねーの、絶対傑が素直になれずに破綻すると思ったのにな」
「私もソレに1カートン賭けてた」

繰り返すけど恐ろしいことを言うな。
あと賭けが、一切、成立してないんだよ。


悟、硝子の2人と別れて、ミズキがリハビリがてら散歩をしてから寮に戻ると言うので私もついて出た。治ったばかりの足首をくるくると回して、ミズキは久しぶりに感じる足裏の感覚を確かめるように何度か踏む。動かさなかった期間は1週間と少しの間だけだったというのに、ギプスから現れた脚は少し頼りなくなってしまっていた。

「痛みはない?無理しないで」

咄嗟に差し出した手をミズキが握ってくれた。彼女の方でも手を掴んだのは咄嗟のことだったようで、遅れて照れ臭そうに笑った。

「…夏油くんは優しいね」
「ミズキにだけさ」

以前ならきっと『そんなことないよ』と私は言っていた。ミズキは更に照れたようだった。
窓からの明かりでミズキの髪が綺麗に光る。たくさんの色を含んで光る。

「…抱き締めてもいいかい?」
「い…っいよ、…はい」

繋いだ手が緊張して薄い肩がぴくりと跳ねて、ミズキの目がふわふわと泳いだ。何て、何て心地良いんだろう。私の好きなこの子は私のことが好きで、私の言葉と振る舞いに照れて緊張して、その上で触れてもいいと言ってくれたのだ。
繋いだ方の手は指を交わらせて、反対の手でミズキを抱き込んで髪を撫でた。猫みたいに柔らかい髪を。
「…やっぱり、」と私の胸の前でミズキが不満そうな声を上げた。

「私ばっかり緊張してる」
「それは違うよ」
「違わないよ」
「ほら」

ミズキの耳を心臓に押し当てた。情けないほど速い心音を公開するのは少し照れ臭かったけど。
ミズキの頭は小さくて丸くて、柔らかい髪が手のひらに心地良い。
ミズキの手が私の背中に回ってTシャツを握った。
今までにも一応恋人同士として抱き締めたことはあったけど、ミズキが抱き返してくれたことは無かった。その度に片想いを実感して虚しくなっていたけど、今思えばミズキの方も同じように虚しかったんだろう。
私がくつくつ笑うとミズキが私の胸から顔を上げた。

「夏油くんどうしたの?」
「いや…ずっと私の片想いだと思ってたから、どうにかして別れるのを先送りして、恋人の形に長く収まっておくのが精一杯のハッピーエンドだと思ってたんだよ。でも全然違った」

ミズキが抱き返してくれる。髪を撫でてもいいと私に許して、私の目を見て笑ってくれる。私の幸福はここにある。
ミズキは少し驚いたような顔をしていて、それからふっと目を細めて笑った。

「夏油くんが言うならそうなんだね」




***

ネタポストより『ハッピーエンド/SHISHAMOをテーマにした夏油さん夢』
歌詞と結末は違いますが(すみません!)心にグサグサくる曲でした。
MVからもいくつかモチーフを拝借しています。

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