星の娘E


五条は床から立ち上がって夏油を睨み付けた。

「アイツは関係ねぇ。しょーもないミス蒸し返して楽しいかよ?あ゛?」

五条は顎を突き出して左右不均一に目を歪め、犬歯を剥き出しにした。夏油は自分の手のひらを見た。掴んでもらえなかった手、当たり前に掴んでくれると思っていた。手を取って、自由を受け入れて笑ってくれると。

「そうじゃない。…いいかい悟、私達はミズキの選択を尊重するって決めたんだ。その通りにしたんだって思うしかないだろう」

五条の言う通り、星漿体というのは聞こえがいいだけで生贄のようなものに違いない。結界を守るため、その受益者は非術師ということになる。そのことについては夏油だって納得などしていないし正しかったと胸を張ることも出来ない。

「マジであれがアイツの本心だと思ってんの?結界が崩れた呪術が露見した非術師の不安で呪霊が増える、だから何だってんだ。俺やお前がその分祓えば済む話だろうが!」
「悟」
「ンだよ文句あんなら構えろ」

五条が指の招く仕草で夏油を挑発した。
暴れたところで事を取り戻せはしないことは五条も重々承知の上で、それでも、怒りに任せて発散せずにはいられなかった。
夏油だって呪術師としての建前を捨てれば、五条と同じように理不尽に対して噛み付きたい。それで、夏油も五条の挑発に乗ったのだった。


術式抜きの殴り合いは15分続いた後、お互いに潮時を見てぷつりと途切れるように終わった。2人ともが床に座り込んだ。

「…悟、悪かった。ミズキを見送ったこと…『正しかった』は違うし『仕方なかった』は狡い。それでも、もう認めなくちゃいけない…私達はフラれたんだよ」

ミズキは自らの運命と2人の差し出す自由を天秤にかけて、選んだのだ。不可逆的に。
五条は背中側に手を突いて天井を仰いだ。

「マジで馬鹿じゃねーのアイツ、こんなイケメン袖にしやがって」
「自分で言うなよ」
「うるせぇ正論前髪」
「殴るぞ」
「今し方ボコスカ殴っただろが」

そろそろ教室に戻らなければまずい。夜蛾から追加の拳骨を食うこと請け合いである。
それでも2人は動く気になれなかった。
夏油がまた「悟」と呼んだ。

「…サングラス、予備を持ってるだろ」

五条は時折苦々しく瞬きをして目が痛むような仕草をするくせに、あれ以来サングラスをしていない。

「気分じゃねぇの。お前だって似たようなピアスいくらでも持ってんだろ」
「…気分じゃないだけさ」

夏油も左耳の大きなピアスホールを空白のままにさせている。
その不足だけが彼女の名残である。

「あ゛ークッソ目ぇ疲れる」

五条は上を向いたまま、天井の向こうの空を睨むように焦点を遠くに結んだ。あの子が旅立った隣の星というのはどこにあるだろう。
夏油が「そろそろ戻ろう」と言いかけて途中で黙ってしまって目を丸くしたことに、五条は気付かない。
五条の視界にふと影が差して真っ黒なレンズが眼前に現れ、細いテンプルがこめかみから耳の上にするりと差し込まれた。

「………は?」

五条はすぐさま身体を反転してそれを確認した。
ミズキが、いる。
彼は掛けられたばかりのサングラスを外して見直して、やはりミズキの存在を確認した。彼女が不器用にはにかんだ。

「えっと、…帰ってきちゃった」

五条の目で何度確認しても紛れもなくミズキそのものである。
幽霊でも見たような顔の五条と夏油に彼女が一生懸命に説明したことによると、天元は星漿体と同化することなく結界の外圧によって自我を保つことを試みており、薨星宮に降りたミズキに改めて同化の意思を問うたのだという。ミズキが薨星宮を出たのは、彼女を見送ってからしばらくその場を動かなかった五条と夏油がやっと立ち去ってから僅かに数分後だったということになる。

五条の大きな手がミズキの腕をしっかり捕まえた。

「お………っっっせぇんだよ本音出すのがお前はいつもいつも俺の気遣い返せボケ!!!」

あの日薨星宮に響いたのと同じ声量の怒号である。
ミズキは腕を掴まれて耳を塞ぐことも出来ずに、暴力的な声量に殴られて頭をくらくらとさせた。

「ご、ごめん、なさい」
「悟、まずは再会を喜びなよ」
「夏油…」

夏油はミズキの腕を捕まえている五条の手を諌め、それから彼女に穏やかな笑顔を向けた。

「ミズキ、私には?」
「あっもちろん、ピアス」
「ん」
「ん?」
「着けて」

圧が強めの要求である。ミズキは戸惑いながら、装着の仕方を指導されつつ、身を屈めた夏油の耳にピアスを着けてやった。久しぶりに左右揃ったピアスの重みを感じて夏油は嬉しげに目を細めた。それから「あぁでも、」と少々わざとらしい声を出した。

「ピアスを返されたらミズキがまたフラッとどこかに行ってしまいそうで不安だな。ミズキには安心するまで私の部屋で寝起きしてほしい」
「え、でも」
「薨星宮で私の手を取ってくれなかったのには傷付いたなぁ」
「俺の部屋でもいーよ」

何とも圧の強い要求である。ミズキが戸惑っていると、唐突に夏油の手首に鋭い打撃が振り下ろされた。夏油が直前で避けて見るとそれは箒の柄で、振り下ろしたのは黒井だった。彼女の鋭い吊り目が夏油と五条をぎろりと睨んだ。

「お嬢様に邪な目を向けるな殺すぞ」
「黒井さん待って俺ら命の恩人枠」
「その件はもう終わりました」
「光速で手のひら返すじゃん…」

五条は両方の手のひらを肩の高さに掲げて降参のポーズを取った。夏油も、あわやご臨終だった手首の無事を撫で確かめて降参のポーズに従う。
黒井が「お嬢様こちらへ」と呼ぶとミズキは素直に背中に隠れてしまった。

「つーかお前、高専服?どうなってんの」

五条が手を下ろしながら、黒井の背中を覗き込んで首を傾けた。彼の言う通り、ミズキは真っ黒な高専服を身に纏っている。

「高専に編入すんの。今日はその挨拶だって」

答えたのは硝子だった。彼女は体育館の入り口から歩いてきて、黒井の背中にいるミズキの頭に手を置いた。

「ハァ?何俺らより先に硝子に挨拶行ってんだよ、普通逆だろ」
「この中に教室待機をブッチして喧嘩してた馬鹿がいるな…名乗り出ろ」
「「ハイ」」

夜蛾の声真似をした硝子に向かって綺麗な挙手が2本である。それから誰からともなくクツクツと笑い出し、最後には全員が大笑した。

「あ゛ー口ん中切れてんじゃん痛ぇ」
「私だって脇腹が痛いよ」

傷は気が抜けると途端に痛みだすもので、五条と夏油が座ったままだらりと姿勢を崩し、それぞれ痛む箇所を手で庇った。するとミズキが黒井の背中から出て2人に駆け寄り、彼らの手の上から優しく触れた。

「ふたりとも何でケンカしたの?痛そう」
「何でもないよ、些細なことさ」
「ササイ…」

ミズキは鼻先にレモンを突き付けられた猫のように訝しげに目を細めた。こういう時の夏油の笑顔は詐欺師の爽やかさである。
ミズキは2人の傷を睨むようにむーっと観察していて、不意に硝子を振り返った。縋るような目が愛らしくて無下に出来ず、硝子は気が進まないながらも2人に反転術式を施してやった。綺麗に治癒されたのを見るとミズキは嬉しそうにぴかぴかと笑った。

「硝子ありがとう!ふたりとももうケンカしちゃだめだよ」
「ちょい待てお前何それ」
「うん?何が?」
「何で俺らが五条夏油なのに硝子呼びしてんのって。悟って呼べよ」
「それは駄目ですね」
「だから黒井さん何で?」
「五条様と夏油様はお嬢様を見る目が邪なのでなるべく2m以内に近寄るな」
「『様』で呼ばれてこんな邪険にされることある??」

五条は、ミズキに掛けてもらって自ら外したサングラスを、また掛け直した。目に馴染んだ暗い視界の中で、ミズキが嬉しそうに硝子に手を引かれていく。硝子が振り向いた。

「おーい護衛@と護衛A、学外実習行くぞ」

夏油が「学外?」と聞き返した。
隔離生活の長かったミズキに外界を見せる実習、夜蛾の許可も下りているのだという。五条が笑った。

「なぁ黒井さん」
「はい」
「アイツ、元はあんななの?」

彼が薨星宮で最初に見たミズキは静かに閉じていこうとしていた。水底で誰にも知られずに錆びていく刃物みたいに。
今、硝子に手を引かれるミズキはサングラスを通しても彼の目には眩しかった。「えぇ」と黒井。

「人懐っこくて、寂しがりやで、優しくて、よく笑います」
「そ」

目を細めて彼は笑った。夏油も頬を緩めている。
体育館の出口に着いたミズキが振り返った。

「悟と傑も、いこ」

眩しくて温かい。生きている。

五条と夏油は競うように駆け出した。光の差す方へ。



***

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