星の娘D


「この中に『帳は自分で降ろすから』と補助監督を置き去りにした奴がいるな。そして帳を忘れた…名乗り出ろ」

夜蛾が仁王立ちをする足元で、床に並んで正座した左右から夏油と硝子が同時に五条を指差して、中央の五条が垂直に挙手をした。

「先生!犯人探しはやめませんか!」
「悟だな」

五条の脳天に教育的指導が振り下ろされた。



五条と夏油はふらりと体育館に赴いた。倉庫から適当に拝借したバスケットボールを床に弾ませながら。
本当は夜蛾から教室での待機・自習を言い渡されているのだけれど、有体に言うとフケたという状態である。

星漿体の護衛が終わった。
その後で最初に舞い込んだのは、別任務で連絡が途絶えた冥冥と歌姫の救助だった。それで、夜蛾の言ったように五条は補助監督を置き去りにして、帳を忘れた。五条の術式による建物損壊はガス爆発としてニュースになった。

五条が無造作に放ったボールは向かいの壁でゴールリングをするりと通り抜けて落ちた。五条は跳ねるボールを回収して頬杖をつく代わりに抱き込んだ。

「そもそもさぁ帳ってそこまで必要?別にパンピーに見られたって良くねー?」

どうせ呪霊も術式も見えねぇんだし。
不満げに頬の輪郭をボールで歪めながら、五条は苛々と身体を揺らした。
この流れになると真面目な夏油が持ち出す話はいつも同じで、呪霊や呪術といった未知の脅威を帳で秘匿することによって非術師の心の平穏を保ち…と続く。ただ今回は、その講義が半ばで途切れて夏油はしばし沈黙した。
高窓からは欠け始めた淡い月が見えている。

「…悟、帳は本当に忘れたのか」

五条の頭がかすかに揺れた。「何が言いてぇの」という声には苛立ちが混じっていた。

「私や君が帳を拒んだってミズキは「その名前出すんじゃねぇ!」

五条は抱えていたボールを力任せに投げ、それは夏油の目尻に垂れた前髪を掠めて空気を裂いていった。壁にぶち当たると鈍い音がした。





「それか、引き返して黒井さんと家に帰ろう」

黒井と別れて昇降機で最下階まで降りたところで、ミズキを中央にして3人は並んで立った。眼下には大木が何本も束に絡み合ったような巨大な樹と、それを囲む同心円の白壁や瓦屋根が層を重ねている。薨星宮である。
この先は天元に招かれた人間しか入れない、だから自分達はここまでだと夏油は穏やかに言った。それから、あの木の根本まで行くようにと。その言葉に続く形で、同じ穏やかな声色で、彼は「家に帰ろう」と言ったのだった。
ミズキがパッと顔を上げて夏油を見た。

「最初に君に会いに行く前に悟と話は済んでる」
「お前が嫌なら同化はナシ。俺らがどうにかしてやる」
「ミズキがどんな選択をしても、君の将来は私達が保証する。勿論黒井さんもね」

ミズキは五条と夏油の顔を交互に見て、それから薨星宮の巨木に目を向けた。しばらくの沈黙の後、「…小さい頃から」とミズキが切り出した。

「普通じゃないのが私の普通だった。危ないことは極力避けて、狭くて決まった範囲だけで生きて、……今日の同化のために」

そのために彼女は人との関わりを絶って親を忘れ、友人を忘れてきたのだ。

「本当は、………怖い、よ。黒井のことずっと覚えてるって約束したけど、覚えてられるのか…私の自我って残るのか分からないし、二度と会えないって、死ぬのと何が違うの…っ」

黒井が拭いてやった目元を新しい涙が流れていく。ミズキに向かって夏油が手を差し出した。

「帰ろう、ミズキ」

優しい優しい声に、ミズキは目元を震わせながらも笑った。それから、薨星宮へ続く参道に一歩踏み込んで、予想外の行動に目を丸くしている五条と夏油を彼女は振り返った。手の甲で涙を拭いて笑った。

「…だけど行くよ。ありがとう、選ばせてくれて」
「、…お前自分で何言ってるか分かってんのかよ」
「分かってるし、納得してる。…本当はね、五条、初めて会った時、私死のうとしてたんだよ。絶対死んでやるって決意してたんじゃないけど…このまま潜ってたら死ぬかなぁって。そうなったら同化の直前に代わりを用意出来なくて困るだろざまあみろって思ってた」

ミズキが上を見た。遥かに高い天井、その更に上、彼女が暮らした部屋だとか、その向こうの月を。

「でも、満足した。部屋から連れ出してもらって黒井にお別れが言えた」
「………」
「旅行…みたいなものだよ。隣の星まで2泊3日、きっと楽しい」
「綺麗事抜かすな!」

五条の怒声が薨星宮に響いた。ミズキは微笑んでいる。

「水族館で寝落ちした後がもう見られないとか二度と海に行けないとか、もう黒井さんに会えないとか!お前がやろうとしてんのはそういうことなんだよ!」
「五条」
「星漿体とか同化は死じゃないとかどんだけ言い繕っても体のいい生贄だろうが!」
「五条」
「胸糞悪ぃんだよ嫌なら嫌で何が悪い、文句垂れるクソは俺が全部ブッ殺して「五条」

ミズキが五条の手に触れた。温かくて柔くて小さな手で。それから穏やかに笑って、「ありがとう」とまた言った。

「五条と夏油のことも、私ずっと思い出すよ。その度寂しくなってもきっと」

ミズキは五条と夏油に順番に微笑みかけて、ふっと五条の手を離した。彼女が一歩後ずさると、そこはもう不可侵の薨星宮である。
夏油は口を開いて何か声を発しようとして、結局何を言えばいいのか思い浮かばないまま閉じるしかなかった。掴んでもらえなかった手も、再び差し出すことが出来なかった。
「待て」と五条は言って、サングラスを外した。

「…貸してやる。返しに来い」

ミズキはキョトンと目を丸くしてから嬉しそうに笑って、境界線から手を出してそれを受け取った。

「じゃあ私も」

夏油は左耳のピアスを外してミズキの手のひらに乗せた。彼女はそれらを大切に胸に抱いた。

「ありがとう、大事にするね」
「貸しただけだよ。旅行が終わったら返しに来て」
「うん、500年くらいしたら」
「実質借りパクじゃねーかよ馬鹿」

ミズキは屈託なく笑って、手を振って、駆けていった。
2人はその足音が聞こえなくなってもしばらくその場所に立っていた。

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