星の娘B
木漏れ日の差すマングローブの林の中を、インストラクターの漕ぐカヌーが滑っていく。ミズキがオールから手を離して水面に触れ、箒星のように線を引いていった。
後ろを行く五条と夏油からはその時に一瞬彼女の横顔が見えただけで、後は分からない。ミズキが楽しかったのかすらも。
それから移動して紫陽花園に行ったところで、それまでの晴天が嘘のような急な雨に見舞われた。しっかり視認出来るほどの雨量があるのに空は明るく、斜面を鮮やかに彩る紫陽花が艶々と光っている。
夏油が手近な売店に傘を求めようとしている間にミズキが屋根の下からすたすたと出て行こうとするものだから、五条は咄嗟に彼女の腕を掴んで引き留めた。
「馬鹿お前待てっつーの!…ったく」
五条が差し出した手と彼の顔をミズキはきょとんとして見比べていて、その内に五条が焦れて彼女の手を掴み屋根の下から歩み出た。
降り注ぐ雨粒が自分の直前で何かに当たって、伝い、合流して流れていくのを、ミズキはしばらく不思議そうに見つめていた。五条がまた彼女の手を引いて歩みを促す。
「おい花、見んだろ。行くぞ」
「…うん」
「贅沢な雨除けしやがって、感謝しろよ」
「…うん」
紫陽花の花で埋まった坂道を下りながら、ミズキの澄んだ目に花の色彩が映るのを五条は振り返って何度も見た。
繋いだ手は、彼にはとても小さかった。小さくて柔くて温かくて、生きている。
歩く内に通り雨は過ぎ去ったけれど、五条はそのままミズキの手を引いて歩いた。そして順路に沿って進み園内を一周して、最初の屋根の下で待っていた夏油と合流する時になってやっとミズキと手を繋いだままなのを意識するようになって、パッと離したのだった。少し汗ばんだ手のひらはひゅぅと寒くなった。
「五条」
その音がミズキから発せられた時、五条は自分の名前が呼ばれたことに一瞬気が付かなかった。何しろ彼女が五条の名前を呼んだのは、知り合って以来初めてである。
「ありがとう」
ミズキが笑った。
それは彼女のことを知らない人間が見ればまず笑顔とは思わない、目元と口端の細かな誤差という程度の、かすかな表情だった。
そこから移動して昼食を挟み、平日とあって人のまばらな水族館へ足を踏み入れた。青く暗い順路に、水を送るポンプの音や気泡の登っていくコポコポという音が遠く響いている。廊下の左右に配された水槽に、小さな魚がちらちらと輝いたり隠れたりする。その中を、ミズキはゆっくりと、淡々と歩いていく。
ミズキの後ろ姿が左右に振れ始めたことに先に気付いたのは夏油だった。夏油は彼女がどうにかジンベエザメの巨大な水槽まで辿り着いたところで一度ソファに座るように手を引いて誘導した。
「疲れただろう、少し休もうね」
五条はミズキの姿勢のブレに気付いてはいたものの、彼の感覚から言うと軽く歩いただけで体力はほぼ万全、休息が必要という発想は無かった。それで、夏油に手を取られてソファに腰を下ろしたミズキの顔に本当に疲れの色があるのを見て驚いたのだった。
数年に渡ってひとつの部屋の中だけで生活してきた彼女が、長時間強い日差しの下を歩いたり冷房の効いた館内との温度差を行き来するというのは、そもそも無理があった。
五条がミズキに歩み寄って、彼女の背中と膝裏に手を差し入れた。
「眠けりゃ寝てろ」
正直なところ五条から見て、10分やそこらソファで休憩したからといってミズキが続きを楽しめるまでに回復するとは思えなかった。案の定彼女は五条が順路の続きを歩き出してすぐに、こめかみを彼の肩口に預けて眠ってしまった。
五条はなるべく静かに歩きながら、内心ではミズキの不安になるほどの軽さに驚いていた。筋肉が足りていないのは言わずもがな、『内臓もいくつか落っことしてんじゃねぇの』とすら思った。背中だって、自分が手を広げれば粗方覆い隠すことが出来てしまう。
3人が暗い水族館を出た時にはまだ日が高く、眩しさにミズキが目を覚ますかと五条と夏油は彼女を覗き込んだけれど、ミズキの目は貝のようにぴったりと閉じたままだった。
そこからホテルに戻って、ミズキの部屋のドアノブに夏油が手を掛けた瞬間だった。ピーと弱い電子音そして爆音、煙が廊下にまで雪崩れ込んだ。
「傑生きてるー?」
「私よりミズキだろう」
「無傷トーゼン」
呪霊の丸い防護壁が展開して無傷の夏油が顔を出した。室内には未だ煙が立ち込めていて、その合間から軍帽が覗いた。Q。
夏油が煙を跨ぐように声を出した。
「大切な女の子がくたびれて眠ってるんだ、騒ぎは勘弁してくれ」
「おきた…」
「あーあ」
五条は挑発的に口端を吊り上げ、起き抜けの頭を混乱させているミズキをそっと下ろした。
「窓の外にも3人、俺そっちやるわ。ミズキは傑から離れんなよ」
くしゃっとミズキの髪を乱してから五条は煙の引ききらない室内を駆け、ヒビの入っていた窓を蹴破って飛び出していった。ミズキがそれを目で追っている間に夏油は呪霊を出して彼女を乗せる。古い遊園地にある、コインを入れるとゆっくり動く動物の乗り物のようだった。
「そこから降りないでね。すぐに終わる」
にこやかに告げる彼の背後からQの男の声がした。星漿体を寄越せと。
「聞こえないな、もっと近くで話してくれ」
実にあっさりと手際良く、夏油はQの構成員をのしてしまった。部屋に備え付けの電気ケトルで紅茶を淹れてミズキに差し出し、並んでソファに座る。
ミズキは口を付けるにはまだ少し熱すぎる紅茶を膝の上に持って、Qの男を見た。男は夏油の使役する呪霊に熱烈にキスを迫られて、必死の抵抗を続けている。機械音声のような、あるいは得体の知れない生物の鳴き声のような声で繰り返される「チューしよ、チュー」に応じた場合どうなるのかは、あまり考えたくない。
「Qを辞める!呪詛師もだッ!そうだ田舎に帰って米を作ろう!!」
だからこの呪霊を引っ込めてくれ、という懇願なのだけれども、夏油は耳元に手を添えて首を傾げた。
「聞こえてんだろッ!!」
「呪詛師に農家が務まるかよ」
「聞こえてんじゃん!!」
ミズキは、自分に対する時とは随分違う夏油の態度を、意外な思いで眺めていた。
「クソッ!いきがっていられるのも今の内だクソガキ!!ここにはバイエルさんが来ている!Qの最高戦力だ!!」
キスを迫る紫色の歪な顔を必死に押し退けながら、男は叫んだ。
その時、最初の爆破で歪み開きっ放しになっていたドアから、五条が呑気な足取りで合流した。男の絶叫は廊下にまで響いていたらしく、五条はさっさと男に歩み寄ると携帯の写真を見せた。
「そのバイエルってこの人?」
フルボッコである。
「…その人、ですね」
最高戦力バイエル離脱により、Q、崩壊。
***
時系列ぐちゃぐちゃですが、アニメを観ながら読んでいただきたい。