星の娘A
沖縄の空は東京よりも青く見えた。
五条の白い髪と赤いパーカーが濃い青の空によく映え、ミズキに何年も前に教科書で見たどこかの国旗を思い起こさせた。
「めんそーれー!」の掛け声と共に五条が意気揚々海にダイブするのを、ミズキは鳥の羽ばたきを見るような気分で眺めていた。その隣で夏油はミズキの様子に注意を払いながら、五条について『お前がはしゃいでどうするんだ』と苦笑いである。
何がどうなって沖縄なのか。それは3人が高専を出た直後にまで遡る。
高専の敷地を出た五条と夏油は早速、ミズキを夏油の手持ち呪霊の背中に乗せた。
「とりあえず何か食う?甘いの?」
「それは悟の希望だろ。ミズキ、何がいい?」
大きなエイのような呪霊の、五条は頭の上、ミズキを背中の中央に、夏油はそれを支えて彼女のすぐ隣に乗っている。
ミズキはつい先程切り揃えてもらって軽くなった髪がはためくのを手で押さえながら、命綱も柵もない乗り物がぐんぐん高度を上げていくことに身を竦ませていた。それに気付いた夏油は「大丈夫、落ちないよ」と言い添えてやってから、改めて何が食べたいか尋ねた。
しばらく考えた後に、ミズキがぽつりと「ソーキそば」と言った。
「沖縄の?いいよ、じゃあ沖縄料理の店を…」
「すーぐーる、行き先変更。羽田」
「は?まさか…」
「どーせなら本場だろ。補助監督にチケット取ってもらお」
五条はその場で本当に補助監督に電話をして航空便を押さえさせ、「あっち着くまでにホテルもな」と投げて通話を終えた。
そうして瞬く間に出発間際の航空便に滑り込んで、ミズキの実感が追い付く前に3人は沖縄の地を踏むことになったのである。
ミズキは現実味のない状況を飲み込めないまま、ラッシュガードに覆われていない部分の肌にジリジリと強い日差しを感じていた。痛みというほどではないけれど、焦げるのに近い感覚がする。
夏油の手が、ミズキに日焼け止めのボトルを差し出した。
「ほら、塗っておきな。後で痛むよ」
「…いい、いらない」
「同化に支障はないからなんて言うんだろう?ほら塗るよ」
ミズキの返事は想定内とばかりに、夏油はさっさと彼女の手を取って甲に日焼け止めを出した。
彼の大きな手がジェルを塗り広げていくのを、ミズキは釈然としない顔でただ眺めていた。反対側の手も同様に塗られ、「顔やお腹も私に塗ってほしいのかな?」と意地悪く尋ねられればただ眺めているわけにもいかず、彼女は夏油からボトルを受け取ってちまちまと日焼け止めを塗り始めたのだった。その様子が無理矢理ブラッシングされて不機嫌な猫のようで、夏油は頬を緩めた。
その時突然ミズキの眼前に暗褐色でぬらぬらとしたグロテスクな何かが突き付けられ、彼女は小さく悲鳴を上げて飛び退いた。何事かと思えば五条がナマコを手に海から上がってきていたのだった。
「見てキモくね?紫の汁吐くんだっけ?」
「悟それはアメフラシだよ…と言うかわざわざ持って来たのか」
悪戯のレベルが小学生である。
夏油がミズキを気遣って見ると、彼女は激しく脈打つ心臓を手で押さえてやっと枠の中に押し込めている、という様子だった。彼女は、夏油の声が少しも動揺していないのでそれでようやく危険な事態ではないと気付いたようで、ふぅと息を抜いた。
数年に渡りひとりきりで淡々と日々を送ってきたミズキには、大変な刺激だったに違いない。
「ミズキ、日焼け止めはもういいかい?良ければ海に入っておいで」
ミズキが夏油の顔を見上げた。幼い子どもが善悪の判断を母親の表情から読もうとするようにして。彼は笑って肯定してやった。
「大丈夫だよ。呪いも呪詛師も気配が無いのを悟が確認してるし、私の手駒に辺りを見張らせてる」
「そーそー俺ら最強だか…らっ!」
最後の「ら」の所で五条は大きく振りかぶって豪快な投擲をかました。望んでもいないのに連れてこられたナマコは綺麗な放物線を描いて遥か遠い海面で水飛沫を上げた。
ミズキが砂を踏んで白い足を波打ち際に運んでいくのを、夏油は黙って見ていた。日に焼けたことのないような白く柔い足、これが、2日後には国を支える結界の糧になる。いわば贄だ。
五条がミズキを追って砂浜を駆けた。
ミズキは(ナマコに驚いた時を除いて)表情を変えなかった。淡々と波打ち際に至って、澄んだ海水に足先を浸した。どこか風景写真でも観るように水平線を眺め、足を波に洗われるままにさせている。
五条はミズキに水でも散らしてやろうかと一瞬考えたけれども、彼女があまりに楽しそうでも退屈そうでもない上、どことなく不可侵の雰囲気を感じて悪戯は取りやめた。彼女はただ立って、波打ち際という場所が充分に自分に染み込むのを待っているように見えた。
本当に急に、五条の言葉ひとつでここまで来た、平日の昼下がりである。周囲に人影は無く、ただ静かな波の音だけがそこにあった。
夕方になるとミズキの所望したソーキそばを食べて、補助監督の手配してくれたホテルに入った。夏油が3人分のチェックインを済ませたところで彼に着信があり、通話を終えるとロビーのソファでミズキと一緒に観光マップを覗き込んでいる五条を呼んだ。夏油は彼の手駒の中から比較的無害そうな見た目をしたものをミズキの護衛に付けて、五条に対して声を潜めて伝達をする。
「ミズキに懸賞金が掛けられた。期限は明後日の11時」
「Q?盤星教?」
「調査中。…ただ今はそれよりも明日の予定だろう」
ホテルは2泊取っている。五条と夏油がミズキを挟む並びで3室のシングル。安全性を優先するならば、今日は無理にしても明日の朝イチで高専に戻るべきなのは間違いない。
「ってもさぁ、アイツまだお人形ちゃんだろ。このまま戻ってどうすんの」
「分かってる。…でも、」
「さっき観光マップ見せて行きたいとこ決めろってったら、元から考えてたみてぇにサクサク指差してんの。『人間性を戻させる』って現状好きに観光させるぐらいしかやり方が分かんねーし、そもそもそれを護衛するって任務だろ」
夏油はぐっと奥歯を噛み締めて、ソファにひとり待つミズキを見た。護衛に付いた夏油の手持ち呪霊を撫でてやっている。慈しむ様子も、恐る恐るという態度もなく、ただ静脈認証でもするかのように呪霊の頭に手を置いている。
「それに」と五条が続けた。
「沖縄の方が呪詛んちゅが少ない」
「悟もう少し真面目に話して」
懸賞金についてはミズキに伏せたまま、3人は揃って彼女の部屋に入った。
ミズキをバスルームに送り、シャワーの音がし始めると夏油は先程ロビーで五条の広げていた観光マップを開いた。五条がニヤッと笑う。
「なに、帰んのやっぱナシ?」
「…仕方ないだろ、護衛に徹するだけさ。それよりミズキが行きたがってるのって?」
「あーえっと…」
五条が指差す地図上の観光地を、夏油は頭の中で具体的な行程に組んでいく。マングローブのカヌーツアー、紫陽花の庭、水族館。無理なく1日で回れる距離だった。
そうしている内にシャワーの音が止み、チェックインの前に手早く買い漁った着替えが次々開封される音、そこからあまり間を置かずにミズキは出てきた。ホテルに備え付けのパジャマを着ているけれども、水分の多く残る髪が肩を濡らしている。彼女にそれを気にする様子はなく、夏油は観光マップを畳むと化粧台のドライヤーを手に取った。
「ミズキおいで」
「?」
「乾かすよ。そのままじゃ風邪を引く」
ミズキは目を丸くして夏油とドライヤーを交互に見、戸惑ってどうするか決めかねているようだった。夏油がスツールを引き座面を叩いて促すと、おずおずと浅く腰掛けた。
後頭部に温風を受け始めるとミズキは背中を丸めた。彼女の目が落ち着かなげに泳ぐのを鏡越しに五条は見ている。夏油の大きな手が髪を持ち上げて満遍なく風を送り、指が梳かし流れを整えていく。
「ん、いいよ」
夏油がドライヤーを切るとミズキは温かく乾いた髪に触れた。
「…ありがとう」
今度は夏油の方がその切長の目を見開いて、それから緩やかに細めた。
彼はもう一度「いいよ」と言った。