赤い糸と嘘D
高専は新一年生を迎えた。それから数ヶ月経つと、京都姉妹校交流戦の時期である。
ミズキは報告書の提出のために高専を訪れて、教務室がもぬけの殻であったためにひとまず報告書は夜蛾のデスクに置き、ペーパーウェイトを乗せ、学内をあれこれ探し回った。
教員たちの姿はグラウンドにあった。それも、体術の演習に使う陸上競技場ではなく、スコアボードやバックネットを備えた野球場に。高専の広い敷地内には、必要性が定かでないものも含めて実は色々な設備がある。
「夏油さん」
ミズキが馴染みの後ろ姿に声を掛けると大きな背中が機敏に振り向いた。「ミズキ」と呼ぶその声には、もう彼女に対して無愛想だった頃の面影はない。
「すみません教務室が空っぽだったので…夜蛾学長のデスクに報告書を置いてきました」
「手間かけさせたね、私から伝えておくよ。今京都の楽巌寺学長と話しているから」
「楽巌寺学長がいらしてるんですか?あ、交流戦の時期…でも野球?ですか?」
「手短に言うと悟の悪ふざけだよ」
「あー理解です。いいなぁ、生徒たち可愛いですね」
ユニフォーム姿で打ち解けた表情の学生たちに、ミズキは温かな眼差しを向けた。
丁度ゲームを終えたところらしく、屈託のない笑顔と雑談が飛び交っている。その中からアッシュピンクの頭がミズキの姿を見付けて「あっ」と声を上げた。虎杖悠仁である。
「夏油先生のす「馬鹿!!」
虎杖の脳天に野薔薇の拳骨が容赦なく振り下ろされた。その後野薔薇が虎杖の胸倉を掴んで強めの小声で何やら説教を始め、夏油は苦笑してミズキを自販機に誘った。
「はい」と差し出された缶はミズキが好んで飲むものだった。夏油は抜け目なく人のことをよく見ている。
自販機の立ち並ぶホールから少し歩いて、生徒達から見付からない木陰のベンチに並んで座った。
「懐かしいですね。私達の時も2日目野球だったら良かったのになぁ」
「個人戦は嫌いかい?」
「学生の頃は術式を隠すのに必死でしたからね。六眼の人に見られたら詰みだと思って」
「悟もさすがに言い触らしたりは……、あー、どうかな」
「でしょ?死活問題ですよこっちは」
カシュッと軽い音を立ててプルタブを起こし、折り、愛飲のカフェオレ。
ミズキは懐かしさに目を細めた。
最近では飲み物を求める時には自販機よりももっぱらコンビニで、コンビニだと缶よりもペットボトルに手が伸びる。そのせいか、缶を開ける音はノスタルジーを連れてくるのだ。
ミズキは自分が参加したかつての交流戦のことを思い出した。2年生の時は怪我で不参加だったから、3年生の1回だけだった。その時に怪我を治してくれた硝子と仲良くなって、あとは交流戦後の宿泊施設で同級生と後輩から大いに問い詰められたことがいい思い出である。「五条と夏油どっち派?」と。要するに恋話だった。
「私は夏油くんですかねぇ」とそれなりに答えた覚えがある。
ずっと、軽蔑されていると思っていた。
夏油の目が苦手だった。
浅はかな恋を見透かされているような気がして。
こんな風に夏油と並んで談笑できる日がくるとは、少し前までミズキは思ってもみなかった。さっきだって野球場には他にもたくさん教員がいて、話し掛けるのは誰でも良かったのだ。その中から自然に夏油を選んで、何の抵抗もなく並んで飲み物に口を付けている。
虎杖はさっき何を言いかけたのだろう。夏油先生の『す』、その続きは。
ミズキがふと夏油を見ると彼の方もミズキを見ていて、カチリと音がしそうなほどしっかり視線が合った。
「…何て言うかな、信じられない、嘘みたいな気分だ」
「何がです?」
「君と並んで座って、自然に談笑出来るようになるなんて」
ミズキはきゅうっと心臓が縮んだような気がした。
夏油はミズキに向かって眩しそうに目を細めた。
「交流戦で君を見て…一目惚れだったんだ。話し掛けられなくて、後から硝子にあの子の連絡先教えてくれって頼み込んだ。まぁ断られたんだけど」
はは、と夏油が眉尻を下げて情けなさそうに笑った。ミズキは10代の硝子がいかにも迷惑そうな顔で夏油の頼みを断る様を想像し、あまりにも自然に想像出来てしまって少し笑った。
「卒業までは数えるほどしか会えなかったけどずっと…うん、だからね、君が東京校を拠点に選んだって聞いた時は、嬉しかったんだ」
「本当に」と付け加えて、夏油はミズキの手に触れた。恐る恐るという触れ方で、壊さないようにそっと持ち上げて、小さな動物を温めるように両手で包んだ。
「それなのにいざ顔を見たら憎まれ口しか出てこなくて、本当にすまなかった。君が許してくれるなら…その、」
ミズキの目が夏油を真っ直ぐに見ている。彼が学生の頃から憧れた目、ずっと欲しかったのだ。
「好きなんだ…ずっと、私と付き合ってほしい」
その時、手を握られていたミズキが身を乗り出して夏油にそっとキスをした。唇のすぐ横、口端同士を合わせるようにして。少し濡れた柔らかな感触、甘い匂い、体温、それらすべて幻覚だと夏油は察した。つまり自分は完膚なきまでに振られたのだ。本物のミズキはきっともう立ち去っている。
幻覚の彼女は本物と違わぬ美しい目で夏油を見上げている。その目に自分の顔が映り込んでいるのを見て夏油は解像度の高さに感心した。
「私も夏油さん好きですよ」
「…ありがとう、嬉しいよ」
最後の夢としては随分幸せで残酷である。覚めてしまうまで見ていようと夏油は思った。
「人に幻覚を見せようと思ったらね、強く強くイメージしなきゃいけないんですよ。本当に匂いがするくらい、本当に触った感覚がするくらい」
「努力してるんだね」
「だから嫌いな人にキスなんて、嘘でもできません」
「そっか」
「私硝子ちゃんに用事があるので先に行きますね。幻覚じゃないのが飲み込めたら追い付いてきてほしいな」
「それじゃあ後で」と微笑みを残してミズキはするりと夏油の手からすり抜けていった。彼女の後ろ姿には以前夏油の贈った髪留めがあった。赤い糸が繊細に編み込まれた美しい細工、彼女に似合うと思ったのだ。
さわさわと風に木の葉の揺れる音がしている。
たっぷり10秒ほど微風に吹かれた後で夏油は声を上げて動揺した。「………はぁぁっ?!」と腹の底から出た声が響き渡ると、ミズキの曲がっていった建物の向こうからけらけらと楽しげに笑う声がした。
夏油は、もしかしたら今『掴んでもいいよ』と差し出されているのかもしれない赤い糸の端を捕まえんとして、転がるように駆け出したのだった。