赤い糸と嘘B
ミズキが起き抜けの覚めきらない頭のまま白い天井を眺めている間に、すぐ近くから夏油の声が「目が覚めたかい」と言った。
その声もミズキは薄い壁を隔てた隣の部屋から聞こえるように聞き流していたものだから、数秒遅れで自分に向けられた言葉だと気付いて飛び起きようとした。止められてベッドに戻った。
声を発しようとするも一度目は喉がひゅうと鳴っただけだった。
「…っ、申し訳、ありません」
ほぼ反射的に謝罪しながら正直なところ、ミズキはまだ自分の状況が掴めていなかった。ここがどこで、何故寝ていたのか、寝る前には何があったか、濃霧の中を手探りするようにして手繰り寄せていく。
そうだ確か術式の反動の発熱で、とだけ思ったところで、彼女を覗き込んでいた夏油の姿が視界から消えた。何だろうと思っているとベッドの下から「本当にすまなかった」と聞こえてきた。どうやら夏油が跪いて謝罪をしているらしいことに驚いて、結局ミズキは飛び起きた。
「な…っ辞めてください、どうされたんですか」
「『どう』も何も、今までのことを全部謝ってるんだよ。本当にすまなかった」
「その『全部』が何のことか分かりません。とにかく頭を上げてください」
「君のことが好きなのに何を言えばいいか分からなくて冷たく接してきたこと全部だって言ってる」
「………………はぁっ?!」
部屋中に響き渡る声量の驚きだった。
思ったよりも大声を出してしまって周囲に人がいるか気になって、それでミズキは頭の隅で『無人、医務室、じゃあ硝子ちゃんの解熱剤か』とどこか冷静に状況をひとつ掴んだ。そういえば左腕の内側に小さな四角いテープ貼られている。
いやそれはそうとして、夏油は今何と言ったか。
「君のことが好きだ。学生の頃からずっとだよ」
念押しされてしまった。これではもう『好きって術師として評価してるって意味ですよね』みたいなはぐらかし方も通らない。
ミズキは解熱しているというのにまた頭が痛む思いがした。
「…とにかく頭を上げて、座ってください。話が出来ません」
「でも」
「座れ」
「ハイ」
夏油は決定的に尻尾を巻いた大型犬のようになって、すごすごとミズキのベッドの端に浅く腰掛けた。
「…えっと。徐々に倒れる前のことを思い出してきました。術式に抵抗されて発熱した…守り方、私の術式を、どうして」
「今日、任務の前に初めて私に術式を使ったね。見せられた後ろ姿に違和感があった。髪留めの編み目が違った。だからあれは君が見せた幻覚で、昨日受け取ったばかりのモノの詳細が曖昧だったんだろうと思った」
「一度見ただけの他人の髪留めをそんなに詳細に覚えるものですか?」
「私が選んだから」
「え」と声を漏らしてミズキは夏油の横顔を見た。彼は俯いて、膝の間辺りで組んだ自分の手を見ている。
「冥さんに頼んで渡してもらった。…気持ち悪いだろう、ごめんね」
「いえ…何て言えばいいか…迂遠とは、思いますけど」
「硝子にも言われたよ」
当然、ミズキの知る家入硝子ならそう言うだろう。それでどうやら嘘でないらしいことがミズキの中で腑に落ちた。
「…乙骨には術式を開示したってことが、どうしようもなく腹立たしかった。それで結果的には君に負担をかけることになって、すまない」
「謝る…のは、話が一通り終わるまで封印してください。今意外と怒ってもないですし」
「分かった」
「乙骨くん、話したんですか?賢い子だから言い触らすことはしないと思ったんですけど…」
「すれ違った時、手に君の残穢を付けてたから私が問い詰めた。乙骨はちゃんと君の術式については黙秘していたよ」
夏油はずっと自分の手を眺めていて、その指に力を入れたり抜いたりしている。落ち着かない様子の彼の指先で、爪から血の色が失せては戻るその明滅をミズキもまた眺めていた。
目の前の夏油傑という男、どうやら本当に緊張しているらしい。
「…夏油術師、その…お気持ちはありがたいですけど、正直今混乱の方が大きくて、」
「…呼び方を」
「はい?」
「自業自得は承知してる、けど、その呼び方は辞めてくれないか。言われる度にメンタルを5割やられる」
「2撃必殺ですね」
「日に2回言われると正直泣く」
「泣くんですか、夏油じゅ…さん、が」
「ありがとう。硝子を自棄酒に付き合わせたことがあるから聞いてみるといいよ」
夏油は組んでいた手を開くと、頭を抱えるようにしてこめかみを強く揉んだ。
今まで気持ちとは裏腹なことしか言えずにきたとの暴露が信じられないほど明け透けによく喋る。何があったのだろうと不思議に思って考える内、ミズキは倒れる前の出来事のことを思い出した。彼女が泣いて京都に帰る可能性を口にした時、夏油がぎくりと身体を強張らせたこと、その焦りの表情を。
「私が泣いたから…?」
夏油が動きを止めた。
「泣いて京都に帰るみたいなことを言ったから、今こんなに本心を話してくださるんですか」
夏油はのっそりと上体を起こしたけれど、背中は丸まって顔は俯いたまま。彼は自棄気味にハハと笑った。
「…そう、だね。あれは焦った。本気で嫌われてこのままだと謝らせてももらえないって。本当は好きな女性を泣かせる前に、人として立ち止まるべきだったんだけど」
それから、しばらく沈黙した。医務室に備え付けの冷蔵庫の微細な作動音が聞こえるほどの沈黙で、お互いに衣擦れの音をさせることも憚られた。
その沈黙の中、夏油は自分の長きに渡る恋が断頭台でいよいよ切断されるのを想像していた。今更でしかないけれども、どうにも拗らせ過ぎた。意中の相手を泣かせた後悔と焦りでようやく本心を告げたものの、ストーカーまがいの行いだとか学生相手の嫉妬だとか、とにかく好かれる要素が無い。
「夏油さん」とミズキが切り出した。最後に呼び方だけでも変えてもらえて良かったじゃないか、と夏油は髪を上げてギロチンの下に首を差し出す。
「…パンケーキ屋さん、行きます?」
既知の単語しか含まれていないのに彼はその一言を咄嗟に理解出来なかった。パンケーキ屋さんって何だ、もしかして『死ねクズ』の隠語か。
無駄にあらゆる可能性を考え、その一言を咀嚼し続け、極めて基本的な意味に辿り着いた時、夏油は先程のミズキよりも大きな声で「はぁっ?!」と腹から声を出した。
「な、なん…っえ、なに、なん、な、」
「何段活用するんですか。…だって私が冥さんと行ったお店、夏油さんが選んだんですよね?」
「それは、そう、だけど」
「そんなに甘いもの好きでもなさそうなのに私の好きそうなお店を探してきてお金払って自分は行かないって…何て言うか、報いがないじゃないですか」
実にあっけらかんと彼女は言った。夏油の方が困惑してしまうほどに。
ミズキの頬に髪が掛かっている。治療でベッドに寝かせるために髪を解いたからだ。その時に外した髪留めはサイドテーブルに置かれていて、彼女はそれを眺めていた。
「…君は、私に嫌悪感は無いの?」
ミズキが髪留めから目を離して夏油を見、ふっと笑った。
「意外と」
それから、ミズキと夏油が本当にパンケーキを食べに行ったという報告を、硝子は当事者の両方から受けることになる。
夏油の存在を警戒する必要が無くなって、ミズキは気兼ねなく医務室を訪れるようになった。硝子が聞くに、夏油は長らく拗らせていたのが嘘のように優しくなっているらしい。
「だってね、言われなきゃ気付かないような段差でも手を貸してくれるし自動ドア以外全部開けて通らせてくれるし『疲れてないかい?』とか『今の店気にしてたね、入る?』とか言ってくれるし私がお財布出した時には何故か清算済みになってるし…ギャップありすぎてもしかして夏油さんって2人いる?ってちょっと思ってる」
「いいんじゃないか、今までの迷惑料だと思えば。あと夏油っていうクズは私の知る限り1人しかいない」
ミズキは医務室で硝子と一緒にコーヒーを傾けていた。長きに渡る憂鬱の種が解消されたのは喜ばしいけれども、変化が大きすぎて戸惑いを禁じ得ない。
硝子はブラックコーヒーで喉を洗い、マグカップを置いた手で頬杖をついた。
「それでまだ付き合ってないんだろ。正直なところどうなんだ、夏油と付き合えるの?」
「硝子、その話は私のいないところでしてくれないか」
実は一緒にコーヒーを囲んでいた夏油である。
彼はミズキの反応を横目に気にしながら、親指を額に立てて溜息を吐いた。
「仕方ないだろ、最近いつもお前がミズキに張り付いてるんだから」
「…人を害虫みたいに言うんじゃないよ」
「ミズキ、こいつお前の前だと猫被って私にも強く言えなくなっててウケるぞ」
「硝子っ!」
夏油が硝子の軽い戯れにも本気で焦っている様が可笑しくて、ミズキはくすくすと笑った。夏油の無愛想に怯えていた頃は、こんな風に彼のことを微笑ましく見る日がくるとは思っていなかった。
夏油が両手を挙げて降参のポーズを取った。
「分かった謝る、謝るよ、そもそも私が悪い。だから揶揄うのは辞めてくれ、これでも真剣なんだ」
「…だそうだぞ本命。キスのひとつでもしてやったら?」
この話こそ私のいないところでしてくれないだろうか、というのがミズキの本音である。夏油はまた硝子を窘める声を上げながらも、ミズキの反応を気にするような、ほんの少し期待のこもったような表情が隠せていない。
その時ミズキのスマホから受信音が鳴った。
ディスプレイを上にして置いてあったそれに夏油は思わず視線を滑らせ、通知画面に乙骨の名前を見て眉を寄せた。
「あ、乙骨くんだ」
「乙骨?何かあった?」
「この後任務同行するから『よろしくお願いします』ってわざわざ。律儀な子だよね」
「私が行く」
夏油がすぐさま目つきを鋭く、声を低くした。その目と声は無愛想だった頃の彼に近いものがあったけれども、今ではミズキの受け取り方が随分違っている。彼女は困り顔で笑った。
「夏油さんも任務があるでしょ?それに特級2人が任務同行って有り得ないですからね」
「他なら見送ってたけど乙骨は駄目だ、君を見る目がいやらしい」
「お前が言うな」と硝子が笑った。
医務室から乗降場までの移動を考えるとあまり時間に余裕はない。ミズキは仕草で夏油に手を出すよう促すと、自分から手のひらを重ねた。
見る間に夏油が狼狽え始め、顔が赤く染まった。
「…何見せたんだ?」
「ほっぺにキス。硝子ちゃんコーヒーご馳走さま」
ミズキはカラカラと笑って医務室を後にした。扉の向こうからは夏油の声がしている。「待って」だとか「ちょっ」とか、嬉しいのか困るのか決めきらないような声が。
彼は生まれ変わったように優しくなったし頻繁に好意を伝えてくれるけれど、恋人になろうとはまだ言ってこない。ミズキはもう頷く用意をして待っていて、ただ、ちゃんと言葉にするまでは捕まえさせてなどやるものかと、少し楽しんでいるのだった。
夏油は自分の現状が幻覚によるものだとは分かっていながら、抵抗すればミズキに反動を回してしまうし、この幸せな幻覚を中断することも嫌だった。それで、半端に顔を隠して、自分に甘えてくれる幻覚のミズキを指の隙間からしっかり見つつ、術式が解けたらすぐに後を追って乙骨に釘を刺してやると固く決意した。
ただの幻覚とはいえ術師本人にその気がなければ、こんな風に解像度を上げて甘えた顔を見せられはしないのだと彼が気付いたのは、数ヶ月後、決死の告白にミズキが頷いてくれた後のことだった。