赤い糸と嘘A


「まぁ乙骨くんならいっか」とミズキが言うと、乙骨は子犬のように目を輝かせた。

非常にサックリ任務を終えて補助監督のピックアップを待つ間、ミズキは乙骨をコンビニに連れ込んで飲み物を買い与えた。2人は補助監督の車が路駐する予想地点を視界に入れつつ、買ったばかりの飲み物に口を付けたところである。

ミズキは歳下男子の純朴さにホワホワと温かい気持ちになりながら、乙骨に手のひらを見せるように指示をした。彼は素直に、待ち合わせの相手が横断歩道の向こうに見えた時のように小さく挙手をし、その手に、ミズキが触れた。

その瞬間、2人は水中に立っていた。背後のコンビニも目の前の車も街路樹も歩行者もすべて青黒い水底に沈んでいる。乙骨は驚きのあまり口の中の空気を吐き出してしまい、大小の銀色の泡が不定形にゆらめきながらゴポッと登っていった。肌に感じる水の抵抗、耳が詰まった感覚、海藻のように髪が泳ぐ。
混乱の最中彼が周囲を見回すと、視線が往復する間にすべては地上に戻ってきていた。コンビニ、車、街路樹、歩行者すべて、溺れることなく当たり前にそこに在る。乙骨は激しく咽せた。

「わ、ごめんね例が良くなかったね!?大丈夫だよ、何も起こってないから」
「い、いま…っけほ、全部、水の中に…」
「そういう風に見えただけ。服も髪も濡れてないでしょ?」
「…あ……本当だ、これが…」
「うん、私の術式」

幻視である。彼女の術式下では五感のすべてを操られる。

「すごいですね、本当に息出来なかった」
「本当はちゃんと呼吸出来てるんだけどね。脳に働きかけてるから、呪力で脳を守られたら効かないの」
「狗巻くんの呪言みたいだ」
「そうそう、対呪霊特化型仲間。私の場合は持続時間が短いから、コンタクトの瞬間だけ幻覚させて隙を突いて仕留めるのが勝ち筋かな」

ミズキは歯を見せて悪戯っぽく笑った。

「それでさっき、夏油先生が急に明後日の方向に行ったんですね」

乙骨があっけらかんと言った内容はミズキにとっては具合が悪く、彼女は目を泳がせて歯切れの悪い声を出した。

高専を出発する前、任務資料の読み合わせをしていた乙骨とミズキの元に夏油が現れたのである。場所が正門のすぐ外、任務に向かう術師が補助監督の車に乗り込む乗降場だったために、ミズキは夏油に場所を譲ろうとした。しかし彼は珍しくミズキに話があると言って手首を掴み、その瞬間気の動転したミズキは術式を使って自分が逃げていく後ろ姿を夏油に幻視させたというわけである。
「待って」と急に駆け出した夏油を、乙骨はポカンと見送ったのだ。

「…狗巻くんと一緒でね、対処法がバレたら使えなくなっちゃうし…格上の相手から抵抗されたら反動がくるんだよ。さっきだって乙骨くんが本気の抵抗したら私すぐ発熱して倒れてた」
「そんなに!?すみませんそんなリスクのあること…あ、いや、そうじゃなくて」

乙骨は襟足の辺りを軽く掻いた。それに対してミズキは軽く首を傾げて見せる。

「…夏油先生と、なんて言うか、複雑そうだなぁって」

乙骨は一度ミズキから逸らした視線を戻して、彼女の反応から機微を汲もうとした。ミズキは困ったように眉尻を下げて「複雑っていうか」と言った。

「ただ私が、夏油術師から嫌われてるだけだよ」
「呼び方も」
「あぁこれ…前にね、同期だからと思って五条くんって呼んでるのを夏油術師に咎められたから。馴れ馴れしいの無理なタイプかと思ってビジネスライクに」
「あー……はい。同情と自業自得が混ざってます」
「うん?」

乙骨は色々察した。
夏油がミズキに惚れているというのは、学内では有名な話である。色恋に興味の薄い真希ですら「さっさと告れよ面倒くせぇ」と愚痴を零したことがある。
夏油は本命以外にはモテるのでライバルになり得るといえば五条くらい、それであまり五条と親しくするなとの意図で呼び方を指摘したのだろう。結果的にミズキは五条から1歩遠去かるのと同時に夏油からは2・3歩遠去かったわけだけれども。

「僕は、どんな呼び方でもミズキさんからだったら嬉しいですよ」
「んんん乙骨くん可愛いねぇ、肉まん買ってあげよう!」

乙骨はへにゃっと笑って「また今度」と言った。肉まん欲しさに口説いたのではない。

その時丁度、補助監督の車が路肩に滑り込んできて、2人はコンビニを離れたのだった。


高専に戻ったら今度こそ硝子のところへ行こうとミズキは思っていたけれど、医務室への道中、夏油の声に呼び止められてギクリと身を竦ませた。振り向くと夏油は相変わらずの仏頂面でミズキを睨んでいて、彼女は自分の星座が今日の最下位に違いないと何かを呪った。
「どうされましたか」と絞り出してから、任務へ赴く前に夏油から呼び止められていた(そして術式を使って回避した)ことを思い出す。
夏油は腕を組んで言い知れない威圧感を醸している。

「…乙骨には自分から教えたようだね」
「え?」
「術式を開示しただろう」
「………はぁ、まぁ」

だから何だという話である。ミズキは一応礼儀は失うまいと心掛けていたものが、少々綻び始めたのを感じた。

「学生相手に軽率な手本になりかねない行いは感心しないね。同期にすら話さないんだから開示がリスクになる術式なんだろうと思っていたけど」

開示のリスクが大きいことは承知している、しかしそれを夏油に説教される筋合いはないはずだ。それに乙骨は賢い子だし、開示と秘匿のバランスは自分で取れるだろうとミズキは考えていた。

彼女は段々と、腹の底にふつふつと怒りが湧いてくるのを感じ始めた。嫌う相手にわざわざ説教を垂れるために呼び止めたのか。お忙しいはずの特級術師が。
それから、徐々に悲しくなってきた。基本的に人当たりのいい(らしい)夏油が自分にだけあからさまに冷たい態度を取る理由について、本当に心当たりが無いのだ。
学生の頃に初めて顔を合わせた時には碌に会話も出来なかったけれど(何しろ夏油はその頃から寡黙だった)、ミズキは彼に半分一目惚れをしていた。つまり、彼女が五条に言った「顔はタイプですよ」というのは嘘偽りない彼女の本心なのである。
学生当時、五条と夏油に接した京都校の女子の大半はどちらかに或いは両方に好意を持っていて、ミズキは積極的に恋を成就させようとは思わず淡い片想いをしたまま卒業した。
それが実際に顔を合わせてみれば、憧れの相手は自分にだけ無言の睨みを投げてくる上やたらに絡むのだ。泣きたくもなる。夏油が他の女性とにこやかに会話をしていたところへ自分が通りすがった途端に夏油の顔からスゥッと表情が失せた、というのは、一度や二度ではない。

ミズキの目から一粒涙が零れると、夏油がぎくりと身体を強張らせた。

「…私がさっさと京都校に帰ればご満足ですか。私のことが心底嫌いでも一応…、仲間として接してほしかった…っ」

ミズキが医務室行きを諦めて踵を返すとすぐさま夏油が追って手を掴み、その瞬間彼女はまた術式を発動した。が、今度は夏油が手を離さない。ミズキの背中を悪寒が駆け上がって見る間に発熱し、彼女は脚から力が抜けてその場に崩れ落ちた。床に着く前に夏油が彼女を支え、壊れ物のように丁重に抱きかかえた。

「本当にすまない、違うんだよ…何でもする、償うから…京都に帰るなんて言わないで」

嘘のように優しい声も腕も体温も、ミズキは夢だと思った。

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