親指姫C
※気持ちの悪いモブおじさんがいます。
ミズキは夜半にふと目を覚ました。
起き抜けのハッキリしない目で壁の時計を見ると午前1時過ぎ、立派な深夜だった。
どうして目が覚めてしまったものか思い当たらないでいると、窓をコンと軽く打つ音がした。気のせいかと思っている内にもう一度。
ミズキは迷った。
五条から『日が暮れて一度カーテンを閉めたら朝まで開けちゃダメだよ』と念押しされているのである。
窓の音は続いている。
ミズキは布団を引き上げて頭まで被った。それから、自分の息遣いに満ちた布団の中で五条の顔を思い浮かべた。白い髪、黒い服、赤いケーキ箱、ツバメさん、本当に連れて飛んでくれた。
目を瞑って五条のことを考えていて、その内にミズキはある考えに至って布団から顔を出した。
窓を叩いているのは五条ではないかと。
「…さとるくん?」
コン。
ミズキは閉ざされたカーテンを見、壁の時計を見た。午前1時過ぎ、数日前五条に初めて会ったのと同じ時間帯だった。彼は小さな苦しみを抱えて公園にいた。
今カーテンの向こう側に痛みや苦しみは感じないけれど、自分の感覚が絶対ではないかもしれないとミズキは不安になった。
もしも五条が怪我をして、あるいは初めて会った公園や昨日の夕暮れのような苦しみを再発させて、窓越しに助けを求めてきているのだとしたら。
『カーテンを開けちゃダメだよ』と言った時の五条の表情も声の調子も、鮮明に思い出せる。その記憶の五条が頭の中で同じ忠告を繰り返した。
しかし窓の音も続いている。
迷った末にまだ迷いながら、ミズキはそっとカーテンに触れた。2枚のカーテンの合わせ目ではなく窓の端の側をほんの少しずらして、隙間を覗き込んだ。
その瞬間彼女は悲鳴を上げた。窓の外から覗き返したのが五条ではなく、脂ぎって贅肉に埋もれた目だったから。親しみやすさを装った粘着質な笑い、夜の中で異質だった。
ミズキは弾かれたようにカーテンから後ずさってベッドから落ちた。浅く鋭い呼吸と激しい動悸が耳の中に響く。
数秒後、窓の外から、けたたましい金属の音と穀物の詰まった麻袋が地面に落ちたような鈍い音がした。しかしミズキにはカーテンを開けてそれを確かめる勇気がない。その内にまた窓の外から声がした。「ミズキ」、今度は五条の声だった。
五条の声が続く。
「怖かったね、カーテンは開けなくていいよ。前に絆創膏をもらいにきたおじさん、いたでしょ?あの人が梯子から落ちた。お婆ちゃんを起こして救急車と警察を呼んで。出来るね?」
「さとるくん、さとるくんなの…?」
「そうだよ。でも確かめようとしなくていい、僕はもう行くから…救急車と警察だよ」
「待って!」
ミズキがベッドによじ登ってカーテンを開け放つと本当に五条がいて、月明かりの中で夜に溶けるようにして浮かんでいた。開けた窓から弱い風が部屋に流れ込んで、五条は困ったような顔で笑った。
「あーあ、開けちゃった。ま、もういっか」
「悟くん」
「僕は行かなくちゃ。ほら近所が起き始めてる」
「待って、いかないでっ」
ミズキは窓から身を乗り出して必死に手を伸ばすとその手を五条は取って、そっと室内へ戻してやった。
周囲では梯子の音を聞きつけていくつかの窓に明かりが灯っている。
「分かったよ、玄関から来るから。一旦離すよ?」
小さな手の震えは五条に当然伝わっていた。まんまるで澄んだ目が不安そうに揺れて五条を求めている。
彼はミズキの柔らかな頬に手を添えて、反対側の目尻に小さくキスをした。
「大丈夫、いなくならないよ」
ミズキはキスをされた目尻に指先で触れて目を瞬かせていて、それからこくんと頷いた。
家屋の外には既にちらほら人が集まりつつあって、五条がその輪の外からそっと加わるのは容易だった。パジャマ姿の住人が「茂倉さんじゃないか」とか「まさかあの人」と囁き合うのを横目に五条が呼び鈴をすると、寝間着姿の祖母とミズキが迎えた。集まった中の誰かが呼んだ警察と救急に説明と引き渡しを済ませるその間、ミズキはずっと五条の脚にしがみついていて、途中から彼が抱き上げて背中を撫でてやった。
怪我人(兼被疑者)は早々に運ばれていった。酷く呻いていたから、骨の何本か折れていたのかもしれない。警察の対応まで全て終わったのが午前3時、ミズキは五条の腕の中で眠っていた。
「ってわけで、今日から呪術高専に住むことになりましたミズキちゃんでーす」
「だから『必要十分に説明しました』みたいな顔やめなって言ってるだろ」
デジャヴである。
しかし今回は五条の膝の上にミズキがいた。
夏油は『とうとうやったか』という心境で額に手を当てた。3人の中で五条だけがニコニコと嬉しそうに顔を輝かせて一人勝ちの様相である。
「ちゃんとお婆ちゃんの許可なら取ったよ?むしろお願いされたぐらいだし。ミズキにはこれから通信制で単位取りつつ、術式の制御を覚えてもらうからね!」
「術式ってなに?悟くんの魔法みたいなやつ?」
「そ。ミズキも無意識にやってるよ」
ミズキは自分の周りに何か色のついたモヤでも漂っていないか確かめるみたいに、自分の二の腕の背中側やふくらはぎの辺りを覗き込んで『術式』なるものを探した。当然何も無くて首を傾げることになる。
五条はサングラスの下で目を細めて彼女の柔い髪を撫でた。
ミズキの手前五条は口にしなかったけれど、彼女の祖母が五条に託した理由は夏油にも理解出来る。恐らくミズキの術式の恩恵を1番強く受けていたのは祖母であって、呪術界とのパイプも知識も無く年老いた祖母にとって五条の存在は孫娘を解放してくれる希望の糸に見えたことだろう。
「ねぇ悟くん」
「ん、なぁに?」
「お婆ちゃんはちゃんと、温かい家に住めるのよね」
「そうだよ」
夏油が後に五条から聞いたところによると、祖母は施設に入る予定なのだという。
「私…ここにいてもいい?」
「勿論。僕がずーっと傍にいるよ」
聞いた瞬間ミズキの頬にふわっと赤みが差し、目が輝いて口元が姫林檎のように丸く弧を描いた。
夏油はミズキに聞こえないようにそっと溜息を吐いた。これでは五条の行いに抵抗を示している自分の方が悪者ではないか、という降参の溜息だった。
例えば夏油にとって、事件の現場に五条が都合良く居合わせた理由を問い詰めるだとか、そもそもミズキに害を為しかねない危険因子を五条が理由もなく放置するわけがないという確信をミズキの前で暴露してやることは10秒足らずで可能である。ただそれをやると五条から一生モノの恨みを買うことになりかねないし、居場所を得て喜んでいる女の子に対して正しいとはいえ酷である。夏油は半ば強制的に共犯にされたのだった。
五条の膝の上から、ミズキが不安そうな目を夏油に向けた。それから彼女はひょいと膝から降りて夏油に歩み寄った。
「…あのね、これをあげる」
「うん?」
「おっ傑気に入られたね」
ミズキが差し出した小さな手には絆創膏があった。丸っこくて無害な黒猫の顔が描いてある、子ども用の可愛らしい絆創膏。
五条が楽しげに笑った。
受け取った絆創膏の黒猫と見つめ合った後、夏油はいよいよ降参してふっと笑った。
「ありがとう、君を心から歓迎するよ」
ミズキは術式の自覚と把握に始まり制御を覚えていくと、それまで絶え間ない術式展開に割かれていた労力を身体の成長に充てられるようになったと見え、どんどん身長が伸びて1年もしない内に年齢相応の身長に追い付いた。
急激な変化のために夜になると成長痛に苦しむことが多くあり、ミズキが五条の部屋をノックする度、彼はミズキが寝付くまで何時間でも痛む関節を撫で温めてやる…という具合に、数年間を共に過ごした。
夏油が彼女と初めて顔を合わせた時、幼いながらに美しい顔立ちから『これは将来美人になるぞ』と予感していたのは日々順調に実現している。
15歳になったミズキがある日夏油を呼び止めて、「傑くんあのね、悟くんは、…好きな人とか、いないのかしら」と恥ずかしそうに尋ねたとき、夏油は彼の親友の長い恋がとうとう実りつつあることを知ったのである。
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ネタポストより『親指姫パロ』でした。
ネタ提供ありがとうございました!