チョコレイトリリイA
「…ミズキさん、もしかして本当に体調悪いんですか?」
恵の怜悧な眼差しがミズキの不調を見逃すまいとしている。彼女は笑って取り繕ったけれど、恵がそれまでに何度も呼び掛けていたことには気付いていなかった。
五条が出掛けていった後、恵はカマド以外を軽く掃除して、最後に灰を捨てるからとミズキに声を掛けたのだった。
「ごめん、本当何でもないの。ぼーっとしてた」
「…ならいいですけど」
「灰だよね、うん。恵くんちりとり構えててくれるかな?」
ミズキは殊更に明るく笑って、恵の構えたちりとりに灰を落とした。恵はそれをゴミ袋に空けて袋の口を縛りながら、改めてミズキを観察した。
「何か…無いんですか」と恵が言って、ミズキはそれに首を傾げた。
恵は無意識に後ろ首に手を遣ってぽつりと言った。
「…欲しいものとか、見たいものとか」
恵の言葉にミズキは眉尻を下げた。恵は、ミズキが五条との契約によってこの動く城から出られないことを知っている。
幼い子に気を遣わせてしまっていることがミズキには情けなかった。
「何もないよ。恵くんの優しさが嬉しい、ありがとね」
「…アンタ本当に、悪魔らしくないですよね」
「そっかな?恵くんの目を取っちゃうかもよ?」
「じゃ取りましょうか」
「え嘘だめだめだめやめて!!」
「本気でやるわけないでしょ」
恵がコップに浮かぶピンポン玉を掬うように指先を目元に添えるので、ミズキは輪郭を揺らがせて大いに取り乱した。揶揄われたと気付いたのは数秒後である。
へなへなとカマドの上で姿勢を崩したミズキに、恵は小さく笑った。彼はそれから角窓ランタンを手に取るとガラスグローブの一面を開いてミズキに向けた。
「この家から出なきゃいいんだろ。ずっとこの部屋ばっかりじゃ気も滅入る」
ランタンの中はまるっきり空っぽで、本来あるべき蝋燭を立てすら取り払われている。ミズキは彼女のためのガラスの小部屋に、するりと身体を縮めて大人しく収まった。
ベランダに出るとミズキは林檎よりも小さく丸めた身体が風に煽られて揺らぐのを感じた。ランタンの中とはいえ、空気の循環が強い。
恵は手を翳してランタンの空気窓を庇った。
「ミズキさん大丈夫ですか」
「ん、平気だよ」
「まぁ…ベランダ出たから何だって話ですけど」
「そんなことないよ、気持ちいいねぇ」
恵はベランダに胡座をかいて座り、傍らにミズキのランタンを置いた。眼下には森と湖、遥か遠くに冠雪した山々が見える。
吹き抜けていく風が心地良かった。
「恵くんありがとう」
「ベランダに出ただけでしょ」
「誰にでもできる優しさじゃないよ。恵くんがいてくれたら悟も安心だね」
「…何だよそれ」
恵は、膝の上で無意識に拳をギュッと握り込んだ。恵には彼女が近々ここを去るつもりでいるように聞こえ、にわかに不安に駆られたのだ。
隣のミズキは恵の表情に気付かず、遠い山々の更に向こうを見ている。
「…ミズキさん」
「うん?」
「ミズキさんは、…」
幼い頭の中で恵はぐるぐると思考して、結局何も言えず終いになった。もしも彼女がここを出たいと思っていたとしたら、ここにいてほしいと伝えるのは呪いになってしまう。そもそも自分が呪うまでもなく…とまで思ったところで、恵は考えるのを辞めた。
「…ミズキさんは、五条先生と長いんでしょ。何年になるんですか」
「何年?んー…何年だろ、年齢の意識が薄くって。あ、でも初めて会った時は悟が恵くんくらいの背丈だったよ」
「じゃ9か10辺りとして…15年かかってんのかよ…」
「うん?まぁ、それくらいになるのかな?」
恵は呆れたような声を上げて、ミズキは首を傾げながら曖昧に頷いた。
今でも鮮明に思い出せる。ミズキが初めて五条と会った日は雨が降っていて、彼女はクロユリの葉の下で雨宿りをしていた。真っ青で綺麗な、でも少し寂しそうな目をした男の子がミズキに話し掛けて、「お前、濡れちゃまずいんだろ」と手の下に囲ってくれた。男の子の身体の周りには不思議と雨粒も風もなく、彼が呪力というのを分けてくれてミズキはどうにか飢えをしのぐことが出来たのだ。
その時、恵の肩を温かく照らしていた陽がふと翳り、ベランダの床板にぽつりと雨粒が落ちた。
恵は身を乗り出して、本降りになりそうな空を見上げた。
「…降り始めましたね」
「そうね、戻ろうか」
恵がランタンのベイルに手を置いた時、階下で不穏なほど大きな物音が響いた。続いてほとんど叫ぶような五条の声がミズキを呼んだ。物音と呼ぶ声が続く。五条が酷く動揺して、手当たり次第に扉や引き出しを開けてミズキの姿を求めているようだった。
「…何かヤバそうですね」
「恵くん、ドアを開けて」
恵が室内へのドアを開けてミズキが階下の五条へ呼び掛けると、一瞬音が止んだ後慌ただしい足音と共に五条が階段を駆け上がってきた。彼はほとんど床に手を着きそうな体勢で駆け寄ってきて、ミズキのランタンを恵から引ったくった。五条はランタンを目の前に掲げ、ミズキに異常のないことをつぶさに確認するとようやくフー…と長く息を抜いた。
それから彼はスゥッと無表情になると、恵に温度のない目を向けた。
「…説教は後。部屋に戻りな、恵」
「悟っ私が頼んだの、少し外を見たかっただけ!」
「そ。ミズキは1階に戻るよ」
他人の声を聞く窓口は完全に締め切られているという感じの「そ」だった。
「先生、違う!俺が無理矢理連れてきた!」
「聞こえなかった?部屋に戻れって言ったんだけど」
五条の声は冷え冷えとしている。ミズキも恵も、五条がここまで怒るところは見たことがなかった。
恵が仕方なく自室に入ると五条はミズキを連れて1階へ降り、カマドへ向けてランタンを開いた。ミズキはおずおずと進み出て、火球から人の形になった。
「あ、あの…ごめんなさい」
「何のことを謝ってるの?」
「勝手にカマドから出たりして…悟の心臓預かってるのに、雨風の当たるところに行くべきじゃなかった」
五条の怒る理由を考えて口にしたミズキの精一杯の答えだったけれど、見た限り不正解だったらしいことはミズキにも分かった。五条は表情を崩すことなく、カマドに向かって立っている。
「お前、僕が自分の心臓の心配してると思ってんだね」
「だ…って、そうでしょ…?」
「それでお前と恵は庇い合って、美しい話ってやつ」
「さ、悟…どうしたの…?」
ミズキが身体の輪郭を揺らがせてにじりと後ずさると、五条はカマドの縁に片膝を乗り上げて彼女に迫った。大きな両手がミズキの顔を捕らえ、ミズキは自分の炎が五条の手のひらを焼く感覚がした。振り解こうとする彼女を五条は引き寄せて強引に唇を合わせて強く押し付けた。
「んぅっ?!」
驚いて見開かれたミズキの目の前で、五条の青い目が彼女を見ている。突然のことにミズキが動けないでいるところへ五条の舌が唇を割って侵入した。
ミズキは思わず彼の舌を噛んで強く胸を押した。
距離が開き、五条がニィッと笑って自身の唇を舐めると、傷付いた舌の血が引かれて唇が赤くなった。
「ハ、噛まれちゃった」
「な…っに考えてるの馬鹿じゃないの!火傷だって酷ければ死ぬのよ!」
「常に反転術式回してるから火傷なんて痕も残らないよ」
「それなら舌も治して!それに火傷の瞬間は痛いでしょ!?」
「死んでも治さねー。…つーかさミズキ、そんだけ?」
「なにがっ!」
「無理矢理キスされて相手の心配だけ?って聞いてんの」
ミズキは目元を震わせて唇を噛んだ。五条が何に怒り何を言わせたいのかまるで分からない。
ミズキが何も言えないでいると五条は「もっかいしたらハッキリする?」と身を乗り出して迫って、彼女は堪らず火球に姿を変えて薄く開いた窓から雨の中へ飛び出した。
ミズキは一瞬自分がいなくなったら城が崩れるかと躊躇して振り返ったけれど、少なくとも外観上の変化はなかった。
五条の呼び止める声がして、ミズキは雨避けに木の下へ逃げ込んで、それからまた逃げて逃げて、逃げた。