あきらめるには眩しい


※七海一級術師は学生に手出しなどせぬわ!!とお考えの冷静な方はブラウザバックにてご自衛ください。




「…失礼、今何と?」

七海は思わず聞き返した。
周囲は雑踏とはいっても会話に障るほどではなかったし、日頃会話中に注意を散らすことをしない七海には珍しいことだった。
聞き返されたミズキは派手なネオンの光を頬に受けてチカチカとさせながら、直前の一言をそっくりそのままもう一度繰り返した。

「七海さん、私を抱いてくださいませんか」

タチの悪い聞き間違いであれという七海の一縷の望みはきっぱりと絶たれてしまった。ミズキの頬を照らしているネオンがいわゆるラブホテルというやつを装飾しているこの状況からしても。
七海は頭痛を覚え、少し神経質な仕草でサングラスの位置を直し、深く長い溜息を吐いてミズキの腕を掴んだ。
彼はミズキを連れて速やかにホテル街を離脱し、あまり遠くない範囲でなるべく健全な雰囲気の飲食店へ彼女を連行した。

「…それで、何故あんなタチの悪い冗談を言うに至ったのか、理由を聞きましょう」

個室という条件を優先した結果居酒屋になったことは悔やまれたけれど(何せ相手は未成年である)、とにかく込み入った内容の面談が出来る状況に漕ぎ着けて七海はミズキに正対した。
彼女はお通しのポテトサラダをつまらなそうに眺めていたところから目を上げて、七海を見た。

「冗談じゃありません」
「尚悪い。貴女は高専関係者には珍しく聡明で分別のある女性と思っていましたが」

七海の言葉は本心そのままだったけれど、ミズキは不満そうにムッと口元を曲げた。


七海とミズキが初めて会ったのは、彼女が五条の担任する高専1年生だった昨年のことである。「この子七海と相性良さそうだから何か教えてあげて」という極めて雑な依頼による、実質丸投げだった。当時七海は舌打ちをした。
しかし実際に任務を共にしてみると五条の『相性良さそう』というのがあながち間違いでなく、ミズキが(彼女の担任と違って)良識ある素直で接しやすい生徒だったこともあり、以来七海は度々彼女と任務を共にしてきた。

今回も、大きな問題もなく任務を終えたところだった。ただ、担当の補助監督に緊急要請が入り、ミズキを乗せるためのタクシーを求めて車通りを覗き込んだ七海の裾を、彼女がついついと引いた。「七海さん、付き合ってほしい場所があるんです」と神妙な顔で言うものだから、七海は咄嗟に巡視の類だと思ったのだ。それで素直に後をついていってみれば指差す先にはラブホテル、「私を抱いてくださいませんか」ときた。七海の溜息は当然だった。


「…女性なんて、思ってくれないくせに」

ミズキはまだ料理の届いていないテーブルに視線を落とした。照度の控えめなダウンライトが真上から彼女を照らして、目の下に睫毛の影を作った。何の加工もされていない素直な黒髪が艶々と輝いている。ミズキが美しい少女であることは間違いなく、七海にとっても異論はなかった。
その美しい少女が七海に好意を寄せていることは彼も察知していたけれど、いかんせん彼女はまだ子供である。

「…仕方がないでしょう。事実貴女は子供なんですから」

その時個室の戸が開いていくつか料理が届き、店員が帰っていく頃にはミズキはいつもの明るい笑顔に切り替わっていた。
つい先程大胆な要求をしたのと同じ少女とは思われないほど朗らかに笑われてしまえば、七海も動機の追求をするわけにいかなくなった。表面的には和やかにその食事は終わり、七海は当初の予定通りタクシーを捕まえてミズキを乗せた。高専までの距離には余るほどの金を運転手に渡した。

「七海さん、ごめんなさい。すぐお返ししますから」
「必要ありません。どうぞ気を付けて」
「ちゃんと返します。3ヶ月したらもう会えなく、」

そこまで言うとミズキは一瞬『しまった』という顔をして、「とにかく近い内に」とニッコリ取り繕った。

ひとり残された路上で、七海はまた溜息を吐いた。



数日後、所用で高専を訪れた七海は五条を捕まえた。

「ナニナニ、珍しいじゃん七海から僕に話し掛けるなんて」
「…2年生のソウマさんのことですが」
「おっ、ついに手ぇ出した?おめでとー」
「ブン殴りますよ。…彼女が3ヶ月後に高専を辞める噂を耳にしました。何か事情を知っていますか」

にわかに五条はふざけた表情を無くして「ハァ?」と底冷えのする声を出した。
実際のところミズキは高専を辞めるとまでは言っていなかったけれど、高専に在籍しながら『会えなくなる』というのはどう考えても無理があった。五条はその場で学長の夜蛾に電話を掛け、七海から問われたそのままを問いただしたのだった。



3ヶ月が経ったその日ミズキは誕生日を迎え、朝からかれこれ6回両親の電話を無視し続けていた。
幸か不幸か任務も授業もない休日で、真希と棘が遊びに誘ってくれた。

「ミズキお前今日誕生日だろ、帰りにケーキ買うぞ」

隣を歩く真希が言うと、斜め後ろから棘が「しゃけしゃけ」と楽しげに賛同した。
ミズキはそれに謝意を伝えつつも、そろそろ腹を括ってそれを断らなければならないことに気を重くしていた。さすがにそろそろ両親の電話を無視し続けられない。

「あっいたいたー!」

そこへ、場違いに明るい声が響いた。振り返るまでもなくその声は昨年担任だった五条で、掲げられた手には着信中のスマホがある。その隣には何故か七海の姿まであって、ミズキはぎくりと身を竦ませた。七海の目がサングラス越しにミズキを見ていて、彼女は逃げるように目を逸らした。

「ミズキ親御さんからの電話無視しすぎ。とうとう僕のとこに掛かってきちゃったよ」

「ホラ」と差し出されてミズキは咄嗟に受け取り、一瞬周囲を見回した。そして、観念した。
通話ボタンをタップして耳に当てると父親の声がして、二言三言、ミズキはとつとつと朝から着信を無視してきたことを詫びた。その後も沈んだ声でミズキは相槌を打っていたけれど、徐々に怪訝な表情に変わり、目が丸く見開かれ、「え、…え?」と戸惑う声ばかりが漏れるようになった。
真希や棘の見守る中、ミズキの揺れる目が七海と五条を見て瞬きを繰り返す。その内に通話が終わって、画面の暗転したスマホを呆然と持ったままだったミズキは五条の差し出した手にぼんやりとスマホを返却した。
「で、」と楽しげな五条がスマホをポケットに落としてミズキの両肩を隣から捕まえて面々の前に差し出した。丁度、仲良く1枚の写真に収まろうとするような格好で。

「改めて紹介すんね、この度めでたく脱サラ呪術師七海建人くんと婚約したソウマミズキさんでーす!」

七海は無言、その他の反応は推して知るべし。



ミズキが17歳の誕生日を機に加茂の分家へ嫁ぐことが決まったのは、半年ほど前だった。夫となる男は40代、ミズキは写真でしか見たことがない。その決定が告げられた当時彼女は既に七海を好きだったし当然抵抗はしたものの、嫌だと言って通る家ではなく、彼女は諦める準備をしながら学生生活を送っていたのである。高専も辞めなければならない。
それが先程の電話一本で簡単に覆ってしまい、ミズキはとにかく動揺した。しかも新しい婚約者がずっと恋焦がれてきた七海だというのだから、喜んでいいものか困惑する気持ちが大きいのは無理からぬ話だった。

この経緯を説明された禪院真希は激怒した。
ミズキの頬を抓って餅のように引き伸ばすほどの猛烈な激昂だった。

「お!ま!え!は!言えよそういう!!オオゴトは!!!」

抓られたミズキは涙目である。

「ご、ごめんなさい…だって、真希ちゃんこんな話したら、私の実家に薙刀持って殴り込みそうと思ったから…!」
「おぉよく分かってんじゃねーか獲物までバッチリ」
「呪具のこと獲物っていう女の子怖い好きぃ…」

真希がようやく手を離した時にはミズキの頬はほんのり赤くなっていて、彼女は歯痛を庇うように頬に手を当てて、徐々に実感の湧いてきた安心感に涙を滲ませた。
真希は呆れ顔で溜息を吐いた。

「ったくだから最近やたら私物くれようとしてたのかよ。身辺整理してんじゃねぇ、全部返すからな」
「真希ちゃぁん…」

吐いた溜息が散らない内に真希はミズキを抱き寄せて、泣き始めた頭を撫でてやった。ミズキは真希の肩越しに機嫌の良さそうな五条と視線がかち合って、強く瞬きをして涙を抑える。

「五条先生、何か働きかけてくれたんですよね?ずっと私が嫌だって言っても変わらなかったもん」
「んんー?五条家からのオススメ物件だよって一言添えて七海の釣書送り付けただけ」

ミズキは思わず笑った。五条家からの直々の推薦を無下に出来る人間は、自分の親どころか呪術界を見渡しても早々いないだろう。

「七海さん本当にごめんなさい、家のことに巻き込んじゃって…。親にはその内に私から言っておきますから」

これでひとまず会ったこともない中年男との婚約は無しになったし、高専も辞めずに済む。充分ありがたいとミズキは思っていた。
ところがそれを聞いた五条は目隠しの下で目を丸くしてから、突然げらげらと笑い始めた。

「七海ぃフラれちゃってんじゃんウケる、結婚相談所行かなきゃ」

ここまで無言を貫いてきた七海は盛大に舌打ちをしてつかつかとミズキに寄ると、彼女の腕を取って歩き始めてしまった。ミズキは戸惑って今からの予定のことを言ったけれど、背後から同級生たちの「私らは明日祝ってやるよ」「しゃけ!」に押されてそのまま七海に連れられて歩いた。

ミズキには七海が怒っているように見え、しかしその理由は分からなかった。以前にはあんな大それたお願いをして、この度はこんな迷惑を掛けて、怒りは当然としても彼女の知る七海なら『以後無いようにお願いしますよ』とでも言って流しそうなものだ。
さっきまで安堵に緩んでいた緊張がまたどんどん高まって、心臓が居心地の悪い揺れ方をする。

「な、七海さんあの、どこ行くんですか…?」

ミズキが尋ねる頃には周囲に人の気配は無く、ようやく七海は立ち止まって長い溜息を吐いた。
広大な上に入り組んだ高専の敷地内には知らない場所も多い。正面に七海がぐいと迫って、ミズキは初めて見る白壁に背中を預けることになった。
七海はその薄い唇を厳しく引き結んでいる。

「…身辺整理をしていたと」
「え?」
「本気で見も知らぬ男に嫁ぐつもりでいたということですか」

七海から責めるような声色を感じ取って、ミズキは身を竦ませた。七海がどのような点に憤っているのか掴めないけれど、彼に触れてほしくない話題であることは確かだった。

「…もちろん嫌でしたし、親にもそう言いました。けど、変わらなかった」
「何故私に抱いてほしいと言ったのですか」

触れてほしくない話題の、正に核心である。

「………せめて初めてだけは、好きな人とが良かったんです」

ミズキは視線を落として、懺悔するように言った。彼女の視線の先では七海の革靴が石畳を踏み締め、ザリッと苛ついた音を立てた。

「私を一度きりヤリ捨てるつもりでいたと」

悪意を持って表現すれば、そういうことになってしまう。ミズキは反論したかったけれど出来ず仕舞い、俯いたまま歯を食い縛った。泣いて困らせることだけはせめて避けなければならないという使命感があった。
「生憎」と七海が溜息混じりにいった。

「私は貴女が思うようないい人間ではありません。10も歳下で子供の貴女に劣情を抱いていますし、一度きりなど御免ですね」

ミズキは説教や罵倒を受けるつもりで構えていたために、言われてしばらくは意味を理解出来ずにいた。七海がそれきり何も言わないので直前の言葉を反芻している内に、れつじょう、というのが引っ掛かって、漢字変換され、ようやっと動揺がきた。ミズキは顔を上げた。

「…ぇ、え?」
「…私は大人で貴女は子供、それは事実です。故に超えてはいけない線がある。だが私は貴女に好意を持っていないと言った覚えは断じて無い」
「あの、七海さん、意味がよく…」
「五条さんを利用して強引に貴女の婚約者になったと言えば分かりますか?」

動揺と困惑は深まるばかりである。そんなまさか、とミズキは思った。五条は呪術界の悪習が若者の人生を曲げることを毛嫌いしているから、今回もその一端だと思っていた。それに、五条のことを尊敬していないと公言する七海が、自ら五条に借りを作ることがあり得るだろうか。
しかし七海が嘘をつくとも思えずに、ミズキは半信半疑で彼の顔を見つめた。怒っているものと思っていた彼の表情は、よく見れば怒りとは違うようだった。瞬きが増え、時折不安げに視線が落ちる。勿論それは注意深く観察しなければ分からない程度の微細なものだったけれど、とにかく七海は怒っているのではなく、真剣で必死な話をしているらしかった。
「七海さん」とミズキが呼んだ。

「…私がちゃんと大人の女の人だったら、あの時、何て言ってましたか?私のお願い、聞いてくれてた?」

七海がサングラスを外した。ミズキの目は不安と期待に潤み揺れている。
七海は彼女の耳元に口を寄せた。

「それなら…好きな女性にあんなことを言わせる前に、何度でも抱いています」

七海がこれを言った途端に、ミズキは小さく「ひぇ」と喉の狭まったような声を上げて身を竦ませてしまった。七海が寄せた顔の位置そのまま横目に見ると、ミズキの頬や耳まで真っ赤になって小さく震えていて、彼は思わずクッと笑いを零した。
七海は屈めていた上体を起こして正面から彼女を見、白く華奢な手を取った。

「ミズキさん、私を恋人にしてくださいませんか」

正直なところミズキは自分に好都合すぎるこの事態を鵜呑みにしていいものかまだ決めかねていたけれど、手に触れる七海の体温が嬉しかったことと、ただもう七海が怒っていないらしいことにとにかく安堵していた。
彼女は七海の手を恐る恐る握り返した。

「七海さんがすきです」
「えぇ、知っていますよ」

七海の目尻が優しく緩み、僅かに口角が上がった。あまり見ることのない七海の笑顔にミズキは見入って、かわいいなぁ、と心内でふくふくと噛み締めた。
一方の七海は、ミズキが望まない結婚から解放され、七海の告白を受け入れて、ようやく安心しつつあるらしい笑顔を見てやはり可愛いと思っている。

「さて」と七海が切り出した。

「恋人の誕生日を私に祝わせてください。デートと食事に誘いたい」
「それは、嬉しいです…けどあの、七海さんとお出掛けするなら着替えたいし、でも、」
「どうせ荷造りしてあって時間が掛かると言いたいんでしょう。私物も随分真希さんに渡していたようですし」
「アッはい……仰る通りで…」
「身につけるもの一式私が贈ります。デートはそれから、いいですね」
「…あの、七海さん怒ってます……?」

おずおずと尋ねたミズキに対して、どちらの答えを言うか七海は一瞬迷った。迷った結果、彼には珍しく悪戯心が上をいった。

「えぇ、怒っています」
「ごっごめんなさい…」
「私をヤリ捨てようとしたことも他の男に本気で嫁ぐ気でいたことも真希さんとやたらに仲のいいことも」
「…真希ちゃんですか?」

困って眉尻を下げていたミズキが『真希』の部分で首を傾げると、七海は自らの失態を悟った。本当は前の2つで止めるつもりだったのである。
ミズキはまだ不思議そうにしている。
七海は外していたサングラスを着け直した。

「…泣いている貴女を抱き締めて髪を撫でるなんて、私はしたことがないもので」
「え…」
「もう行きましょう、高専の入り口にタクシーを呼びます」

ミズキの返事を待たずに七海は歩き始め、スマホを耳に当てた。普段の冷静な彼であれば、女性の反応を待たずにさっさと歩き始めてしまうことは無い。つまりは気まずい、あるいは照れているのだと思い至って、ミズキは胸が苦しくなった。

通話を終えたばかりの七海の腕にミズキは後ろから抱き着いた。彼はスマホを反対側の手で取ってポケットに落とす。それから、フー…と深い溜息をひとつ。

「…私が大人げなかったですね。すみません、八つ当たりを」

ミズキが七海の肩に額を押し当てるようにして首を振った。

「七海さんが好きです」

七海は言葉に詰まってしまった。嫉妬から八つ当たりをした自分と、それでも素直に気持ちを伝えてくれる彼女、これではどちらが大人か分かったものではない。
彼はミズキに向き直って抱き締め、柔い髪を撫でた。

「私も貴女が好きですよ」

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