金魚姫E


「有効な、縛りにはね…バランスが、ん、必要なんだよ。利益偏ってると、…ん、ん、結べないわけ。ミズキはヒトの身体を得る、…あの鴉はミズキの声を封じつつ、ん…口開けて、ミズキを介して呪力を得る、それでイーブンてとこかな。そう、いい子…だから鴉が呪力を得た時点で、っはぁ、縛りは解消してたと、見て、いいだろうね…ハ、聞こえる?」

五条の私室のシャワーは、長身の彼が頭から湯を浴びられる高さになっている。当然、ミズキには真上から降る温かい雨と違いない。五条は説明の途中途中で何度もミズキにキスをするので、彼女は降り注ぐシャワーとその湯気とキスで溺れそうになっていた。

ミズキを川から引き上げた五条は彼女を抱き上げて私室までの最短距離を行き、お互いずぶ濡れの服を着たままシャワーのコックを捻った。
「キスしてい?」と最初に尋ねるとミズキが鴉のことを理由に拒むので、五条は『温かいシャワーを浴びてから』の予定だった諸々の説明をシャワーの下で始めたのだった。

「ンぅごじょ、さ…っでも、んっわたし、泡、なるって…っ」
「受肉ってね、ん、そんな可変的じゃないよ。ミズキを追い詰めるための、っは、嘘」
「うそ…?」
「嘘。あとは?何聞きたい?」

やっと唇を離して五条は首を傾げて見せた。ミズキは半ば逆上せた頭で、ぼぅっと五条を見上げた。シャワーの音が耳鳴のように続き、湯気がむわりと頬を撫でていく。

正体が露見したら金魚に戻るというのは嘘だった。泡になって消えるのも嘘。そもそも五条は最初からミズキの正体を知っていた。ただただミズキが、狡賢い鴉に騙されて五条の呪力を盗む手助けをしてしまっただけ。

「…どうしたら、償えますか?私…」
「必要ないよ。あれの居場所探るのに自分の呪力を流せば目印になると思って自分から乗ったんだし。そもそもあの鴉、高専の倉庫から封印が緩んで逃げ出したものだったっぽいし、どっちかって言うと高専側の落ち度かな」
「でも…」
「それに謝るのは僕の方。僕はさ、一度ミズキのこと見殺しにしてるんだよ」
「…?」
「試験繁殖か解剖あるいは両方、それが分かってて何もしなかった」

そんなの仕方ないのに、とミズキは思った。
ミズキだって今、同じ立場の蝶か何かを見たとして命懸けで守ろうとは恐らく考えない。

「ねぇミズキ、僕のこと許して、僕のこと欲しいって言ってよ」

五条の大きな手が両側からミズキの顔を捕まえて上向かせ、美しい青い目が至近距離から切実に彼女のことを見ている。ミズキは頭がくらくらと揺れるような気分がした。

「好きだよ。どうして、僕に恋してるくせにちっとも受け取ってくれないの?可愛い尻尾揺らして僕を誘うのに、全然捕まえさせてくんないじゃん。僕のこと好きって、欲しいって言ってよ、お願い…」

ミズキは、逆上せて溺れかけた頭でぼんやりと五条に見惚れていた。これは叶うはずもなかった恋で、ただもう一度会えたら、少しの間傍にいられたら、五条の幸せに貢献できたら、それがゴールだと思っていた。

おずおずと、ミズキの手が五条の頬に伸びた。

「…ください、五条さんのこと、私にくださ、」

望んで言わせた言葉の途中で、五条は我慢出来なくなってキスを再開した。
譫言のように何度も名前を呼びながら、ミズキが立っていられなくなってくったりと五条に寄り掛かってしまうまで、そのキスは続いた。
ミズキの白い肌は逆上せて赤く染まり、濡れ髪が頬に張り付いている。五条はその髪を耳の後ろへ流してやって、うっとりと笑った。

「服、重たくなっちゃったね…脱がせてもいい?」
「っは、ぁ…ぅ…」
「そしたら、人間の女の子の身体になってよかったって、思わせてあげる」

ミズキが小さく頷くのと同時に、五条は流し続けていたシャワーを止めた。





くたびれて眠るミズキを起こさないように柔く撫でてから、五条はベッドを出た。
ダイニングテーブルの上には、彼がミズキを探してこの部屋を出る前に置いた封筒がそのまま置かれていた。役所の、事務的で野暮ったい封筒。その中には、ミズキにヒトとしての経歴を付与する書類が入っている。五条は封筒の口を広げて内容を軽く再確認すると、放り投げてあったスマホを手に取った。
届いていたメッセージを開く。冥冥からだった。

(3本脚の一部は私の手駒の腹に収まったけど、構わないかな?)

五条は気分良く口角を上げ、返信をする。

(勿論。書類の件もありがとう。いつもの口座に入れるから確認よろしく)
(またの御利用を)

ネットバンキングの画面を撫でていると、寝室からミズキの不安そうな声が五条を呼んだ。送金完了の画面をソファの上に放り投げて、五条は寝室へ急いだ。
ベッドの上で身体を起こしたミズキは、五条の姿を見ると安心に表情を緩ませた。

「ひとりにしてごめんね。身体は平気?」

五条の問い掛けにミズキは少し赤面して、頬を撫でる彼の手に擦り寄って顔を隠した。
初々しい反応に五条は相好を崩すと、ミズキの体温の馴染んだベッドに潜り込み直した。

「五条さん、また寝るの…?」
「ミズキと一緒にね。それより名前で呼んでよ、さっきまでみたいに」

五条は『さっきまで』という部分を少し意地悪に強調して、ミズキの耳元に囁いた。彼女は枕の方へ向いてまた顔を隠してしまう。
五条は楽しげに笑った。猫が喉を鳴らすみたいにして。

「ミズキほら顔見せて?さっきまで可愛いおくち開いて見せてくれてたのに。声もとーっても可愛かったよ?」

無論、わざとである。ミズキはいよいよ枕に潜り込むようにして縮こまってしまった。
五条は楽しむのを切り上げることにして、優しくミズキの髪を撫で始めた。

「ごめんね、嬉しくてちょっと意地悪しちゃった。顔見せて?」

ミズキの顔が少しだけ動いて、覗いた目の端が五条をじとりと睨んだ。尤も、五条にとっては愛らしいものでしかなく、彼はまたニヤケないでいる努力をした。

「そういえば、図書館の返却いつだっけ?ミズキもカード作れるようになったよ」
「えっ」

にわかにミズキは照れるのも忘れ、目を輝かせて顔を上げた。五条にしてみれば作戦成功の結果なのだけれど、自分よりも図書館が有効に働いたことについては、苦笑せずにはいられない。

「全く僕の恋人は本が好きだねぇ。僕とどっちが好き?」
「? 五条さん」
「あ、あーーー…ウン、ありがと」

冗談の一環で面倒な彼女みたいな発言をしてみたものが、『どうしてそんな当然のことを聞くの』とばかりに返されて、五条は口元を手で隠した。ミズキの無垢な目が不思議そうに彼を見ている。
思えば、ミズキは五条に会いたい一心でヒトの身体を望み、泡になると脅されても五条を守る選択をしたのである。この子は絶対に揶揄っちゃダメだ…と彼は緩む口元を隠しながら珍しく反省した。
五条はミズキの頭を抱き込んで柔い髪に指を通した。

「…ごめんね、本当、ごめんなさい。大切にします…」
「は、はい、私も…?」

ミズキが首を傾げていることは、手触りで五条に伝わった。
ミズキの髪を撫でながら、五条は生まれて初めて胸が温かく満ちるような気分がした。誰かを守ることに喜びを見出して、相手の幸せのためなら何でもしたいと思うのは、彼にとって初めての感覚だった。

「…この歳になって僕はやっと人間に成ったってとこかなぁ」
「? 五条さんはもとからヒトでしょ…?」
「意外とそうでもないよ。ミズキのお陰。大切にする…ずっとね」

五条は愛しい手触りを大切に撫でて、温かい微睡みに意識を横たえた。次に目が覚めたらあの図書館に行ってミズキのカードを作って、それから、それから…と、クリスマスを目前に控えた子どもみたいに、幸せな午後を思い浮かべて。

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