金魚姫D


ミズキは何もない空間をぼんやりと見ていて、ある時ハッと気付いて作業に戻る、というのを、朝からずっと繰り返していた。
洗濯をしながら、掃除をしながら、料理をしながら。読書は内容がまるで頭に入ってこないので辞めた。
窓ガラスに淡く映った顔を見て、彼女は無意識に自分の唇に触れた。

朝起きると五条は既に出掛けていて、いなかった。朝食の準備をしなかったことをミズキは悔いたけれど、どこか安心している部分もあった。

生まれて初めて、キスをした。
勿論嬉しくないわけはなかった。五条に恋をしてここまできたのだから。それでもミズキには、自分が五条と結ばれる様を想像することが出来ない。彼女は金魚なのだ。正体が露見すればすべて終わりで、一生隠し通すなんて無理がある。
一時だけで構わないと思っていた。
五条にもう一度会いたかった。ヒトの暮らしへの憧れもあった。その両方が満たされた。後はもう、借り物を返す心づもりをしなければいけないのに。

「…戻りたくないなぁ」

あの鴉と2人きりの時だけでなく、1人の時にも声を出せるらしいことは、皮肉にもこの時分かったのだった。

ふと外を見てミズキは窓に駆け寄った。乾いた寂しい地面の上に、黒々とした鴉の羽根が1枚置かれていた。ミズキのいる窓にきっちり平行に、落ち葉もない地面にそっと横たわっている。
ミズキは急ぎ戸締まりをして部屋を出た。



「想いを遂げたようで何よりじゃないか」

鴉は、ミズキと初めて話をしたあの川辺にいた。
初めて会った時には脚は1本だったものが3本に増え、身体が一回り大きくなっている。
鴉がミズキを見てニィッと目を細めた。

「鴉さんには感謝してます。…きっともう、時間ですよね」
「早まるんじゃないよ。お前をヒトの身体に固定する方法を伝えたくて呼んだんだ」

ミズキが思わず聞き返すと、鴉はゆっくり、ミズキをヒトの身体に固定するのだと繰り返した。

「どう…どうしたら、いいんですか?本当にそんな、」
「ヒトでいたいかい?」
「はい!」

ヒトになりたい。ミズキはヒトに成って五条にあのキスの真意を聞きたかった。
鴉が岩陰から短刀を咥えて出してミズキの足元に放った。カシャンと硬く冷たい音がした。

「あの男を殺すんだよ」

事もなげに鴉は言った。五条を殺せば、正体が露見しても金魚に戻ることは無いと。

「私の力もそろそろ限界でね、このままだとお前は泡になって消えてしまうよ。金魚に戻ることすら出来ない。なに、簡単だろう。あの男が寝ている間に心臓をひと突き、それでその身体はお前のものさ」

鴉の声はいかにも優しげに響く。
ミズキは足元の短刀をじぃっと見下ろしていた。
「嫌です」と、ぽつりと彼女は言った。

「…何だって?」
「嫌です。五条さんを殺すのは、嫌です」
「このままじゃ明日の朝にはお前は泡、死ぬんだよ」
「それでも嫌です」

きっぱりとしたミズキの声に、鴉からは徐々に優しげな雰囲気が剥がれて苛立ちが顔を出した。

「私の脚が増えたのが分かるだろう、身体が大きくなったことも。誰のお陰だと思うね?お前さ。お前はあの男とキスをして力を盗んだんだ。分かるかい、つまり共犯だよ」

ケラケラと鴉は嗤った。
その歪んだ目元や嘴の中に見える短い舌を見ながら、ミズキは泣くものかと歯を食いしばった。終わりが近いのは承知の上、五条に謝りたい悔いは残るけれど、戻れないことは分かっていたのだから。
ミズキは硝子のことを思い出した。ミズキは硝子のような、人間の、大人の、強い女性になりたかった。

「…どうして、私に五条さんを殺させるのを急いだのか。どうして今なのか」
「何だい」
「私がもっと後戻り出来なくなるまで待てなかったのはあなたの方。もう保てないんでしょう。私がダメになったら次に適当な手駒が、私みたいに恋をしてる馬鹿な金魚が現れるまで待てないの!」

鴉の目が歪に細まった。
ミズキは目前の死が恐ろしくはなかった。人間の、強い女性として死ぬ。

「後が無いのはお前も同じだ!お前の吠え面拝んで死んでやる!」

鴉の爪が苛々と地面を掻いた。

「…図に乗るなよ、赤いだけの鮒が!!」

優しげな声色は失せ、鴉の身体が膨れて黒い羽がめきめきと広がっていく。その瞬間、左翼の根本に白い線が走ったようにミズキには見えた。翼がぼとりと落ちたことで、それは線ではなく翼が本体から切り離されたのだと遅れて理解するに至った。同時に鴉の肩から赤々とした血が噴き出した。

「見ぃ付けた。そんな寒そうな格好で外出ちゃダメじゃん」

場違いに気楽な声が落ちてきて、振り向くと五条が地面に降りたところだった。空中に出現した扉から出てきたような格好だった。

「五条さん…」
「お、声戻ってんね。思ってた通り綺麗な声」

ミズキはハッとして喉を押さえ、同時に鴉はじりじりと後退りをした。

「おっとそこの鴉は逃げないでね。まぁ隻翼じゃ土台無理だろうけど」

五条が鴉に掌を向けて指を鉤爪のように折り曲げた途端、鴉は見えない手に掴まれたように硬直した。

「ミズキの綺麗な声を取り上げて、可愛い口に呪力盗ませてさぁ。報いを受ける覚悟は出来てんだよね?」

鴉の喉元から潰れたような声が漏れたところで、ミズキが五条の服を引いた。

「…っ殺さないで!」

五条の目がぱちくりとしてミズキを見た。掌はまだ鴉に向いている。

「どうして?悪い鳥だから罪悪感持つことないよ?」

鴉は首を8割ほど絞められたまま震える目でミズキを見た。五条は口元で柔らかに弧を描いて彼女の決定を待つ姿勢を見せ、ミズキがやはり首を振ると鴉に掛けていた手を緩めた。鴉はその場に倒れて小さく震える黒い塊になった。

「ミズキが殺すなって言うなら僕からは何もしないよ。ま、この辺りにいる鴉はお前だけじゃないから気を付けてね」

五条は緩めた手を興味無さそうにひらひらと振り、鴉は這いずって木立の陰に逃げ込んでやがて消えた。ひとまず災厄が去ったことを確認すると、ミズキは五条の手を逃れて足元の短刀を拾いそのままザブザブと川に踏み入って腰辺りまでを流れに沈めた。すぐに追って川に踏み入った五条に「来ないで!」と叫んだ。

「ミズキ、おいで」

ミズキはまた首を振った。
明朝には自分は泡になる。あの鴉は金魚に戻ることも出来ないと言っていたから、後はもう燃え尽きるのを待つばかりだろう。五条の前でぐずぐずと泡になってしまうことだけは避けたかった。
鴉に向けて啖呵を切った時には少しも恐ろしくなかった死が、今になって怖くて震えが止まらなかったけれど、それ以上に五条の前で泡になるのが嫌だった。

「ごめんなさい、ごめんなさい、私が馬鹿だから、考えれば分かるのに鴉の誘いに乗りました。五条さんにもう一度会いたかったから…でも間違いでした」
「間違いじゃないよ、会いにきてくれて良かった。ねぇ風邪を引くよ。こっちにおいで、いい子だから」
「私、ヒトじゃない…金魚なんです」

言った。言ってしまった。ミズキは金魚に戻るかもしれないと自分の手を見ていたけれど、手がヒレに変わる様子は無い。どうやら本当に戻る道は断たれて、泡になるのを待つばかりということだろうと思った。

「知ってるよ」

五条の声は大きくはなかったけれどその場にはっきりと響いた。それでもミズキは彼の言葉の意味を上手く理解することが出来ず、何度か瞬きを繰り返した。五条は「知ってた、最初から」と重ねた。

「さ…最初、って、」
「ミズキ、補助監督に捕まって袋に入れられて高専の門にいたでしょ?袋越しに目が合った」
「………な、…どう、して」
「目がいい体質でね。川辺に倒れてた女の子があの時の金魚だってのも、最初から分かってた」

ミズキの手から鴉の短刀が滑って川底に沈んでいった。
五条がザブザブと川に入ってくるのに、ミズキはその場から動けなかった。五条はすぐにミズキのところまでやってきて彼女を抱き竦めた。

「可哀想に、冷えちゃってるね。温かいシャワーを浴びてからだったら、ミズキの質問何にでも答えてあげる。だから部屋に帰ろうね」

「いい?」と五条が彼女の耳元に問い掛けると、小さな頭はこくんと頷いたのだった。

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