金魚姫C


五条が呪術高専内に私室を設けたのは、ひとえに『帰れないから』だった。卒業と同時に学生寮を引き払い都内のマンションに越したものの、卒業直後すなわち呪術師の繁忙期、2ヶ月間の自宅滞在時間が合計18時間未満だった。「アホらし」と彼は言って、次の繁忙期に備え高専内に私室を造ったのだった。
それで多少の改善はあったものの五条が多忙を極めることに変わりはなく、せっかく造った私室のベッドで眠るのは結局週の内で2・3日程度だった。

だからこそミズキの保護を言い出した時には、最初から私室を使わせるつもりでいた。期間中自分は出張先のホテルにでも泊まればいいのだから。それに正直なところ、ミズキが金目のものを盗んで逃げるくらいのことをしてくれた方が、どう転ぼうと気兼ねがないとさえ思っていた。

ところが事態は想定と違う方向へ進んだ。ミズキの振る舞いと五条の心情、両方において。

「いやまさか自分の方が惚れちゃうと思わないじゃん。初見で『あーこの子僕のこと好きだな』って今までにいくらでもあったけどさ、そういう子って大抵顔か金しか見てないし」
「それしか無いんだから仕方ないだろ」
「エッ僕いま数少ない同期と話してるよね?アンチじゃないよね?」

夕方の医務室、硝子はキャスター付きの椅子に腰掛けて自分のデスクに肘を立て、こめかみを揉むように押さえた。本来治療対象が座るスツールには五条が陣取って、持て余すほど長い脚を組んでいる。

「それで最近やたら律儀に高専に帰ってくるわけか」
「自分の部屋に帰って文句言われんの?僕」

硝子はこめかみを押していた手で今度はボールペンの頭をデスクに押し当て、無意味にカチカチとノックした。五条がやたらに軽口で絡んでくる時は、本題を切り出すタイミングを計っているのだと経験的に知っている。
言いたいことがあるならサッサと言って帰ってくれ、何なら言わずに帰ってもいい…というのが、彼女の本音である。

「だってさ?仕事終わって帰ったら好きな子が嬉しそうに出迎えてくれて部屋からは何か美味しそうな匂いがするし寝てみたら布団干してくれた感じ分かるしアレ?僕結婚してた?みたいなこの気持ち分かる?」
「知るか。家事は女の仕事とか時代錯誤を垂れるならお前は結婚するな」
「そーじゃねーよ僕だって何回も言ってんの、家政婦じゃないんだし全部やる必要ないって。料理も楽しいならやればいいけど僕のためならしなくていい。でもニコニコして毎日やってくれんの」
「私に惚れるように説得しとくよ」
「お前こそ結婚すんな」

ビシ、と硝子に人差し指を突き付けた後、五条はその手を後ろ首に回してがりがりと掻いた。

「…何かさ、好かれてるとは思うけど、いや恋されてるとは思うけど、物足りないんだよね」

硝子は今度こそあからさまに軽蔑の目で溜息を吐いた。

「ミズキに『コイツだけは辞めとけ』って言わないとな」
「待って誤解誤解。あの子自身のことじゃなくてさ、何て言うかな…成就させる気が無さそうって感じ?」
「賢明じゃないか」
「もしかしてお前実は僕のこと嫌い?」



医務室を出て、五条は私室への道を急いだ。以前は『よく使う寝室』程度の存在だったものが、好きな相手の待つ場所になった途端に特別な意味を帯びた。
ここ数日で、帰宅の足を動かしていると出迎えてくれるミズキの笑顔が思い浮かぶようになっている。特定の場所へ『早く帰りたい』と思うのは、五条にとっては初めてのことだった。

扉を開けるとミズキがいつも通り笑って駆けてくる。待ちきれない様子でメモに文字を綴るのを眺めるのが、五条は好きだった。

(おかえりなさい。すぐお夕飯の準備しますね)

五条はクスッと笑って、ミズキの髪に手を伸ばした。

「髪が濡れてる。風邪引くよ」

しっとりと水分を含んだ髪の一房をミズキの頬の横で五条の指が持ち上げると、彼女はかぁっと頬を赤らめた。五条はミズキをソファに待たせて洗面所からドライヤーを持ってきた。温風を当てながら、何度も髪に指を通していく。
部屋着の背中が細い。素直な黒髪がその上に散るのが美しい。時折髪の隙間から白いうなじが三角形に覗く。五条は噛み付きたいような衝動に駆られて、どうにかそれを飲み下した。

「…ん。乾いたかな」

触れると、艶々とした尾ビレのような黒髪は五条の指を滑っていく。ミズキが振り向こうとするのを五条が止めて、そのまま手櫛を滑らせ続けた。

「ミズキの髪は乾いても濡れてるみたいに艶々だね。あと、甘い匂いがする」

ミズキの背中が少し丸まって、膝の上で文字を綴った。

(シャンプーがいい香りだから)
「でも僕からはこんな美味しそうな匂いはしないよ」

今度は彼女の背中が恥ずかしそうに小さく揺れた。髪の隙間から少しだけ見える耳が赤くなっている。
五条はこの華奢な背中を抱き締めたくなったけれど、まだ、そうすると不味い事態を招くことを自覚していた。抱き締めたらこの子逃げちゃいそうなんだよな…というのは直感である。

そして実際にミズキはソファを飛び降りて五条から逃げた。
キッチンをあたふたと指差してから、髪を触って頭を下げた。『夕飯の準備をします、髪をありがとうございました』というのを、必死に身振り手振りで表現した結果である。それをやる彼女の顔が隠しようもなく真っ赤なのを五条は微笑ましく見守りつつ、「ありがとう、手伝うよ」と彼も立ち上がって肩を抱いた。
『逃げないでよ』というのを、言外に表現した結果だった。ミズキは赤い顔を俯かせた。

夕飯の後一緒に片付けを済ませ、五条はバスルームに入った。普段はシャワーだけで済ませることも多いけれど気まぐれに湯船に浸かり、天井を見ながら、ミズキのことをどう囲い込もうか考える。自分が悠々脚を伸ばせるサイズのこの浴槽に小柄なミズキが収まっているのを想像して、微笑ましく思ったりしながら。

五条が風呂から上がって部屋に戻ると、ミズキの姿はソファの上にあった。キッチンに水を求めてその後ろを通り過ぎた時、ミズキが小さく鼻を啜る音に彼はギョッとして立ち止まった。細い肩の揺れ方で泣いているのが見て取れた。
慌ててソファの前に回った。

「どうしたの、どこか痛い!?ごめん気付くの遅れて、硝子呼ぶ…いや行った方が、」

自ら言い終えるのを待たずに五条がミズキを抱き上げようとするのを、彼女は必死に首を振って制止し1冊の本を差し出して見せた。
これ、これ、と言いたげに本を揺らして見せるミズキに、五条は数秒置いてからぽつりとタイトルを読み上げた。
図書館のシールが貼られた本だった。

「…読んで、感動して泣いたってこと?」

こくこくと頷くミズキの目元では涙は既に止まっていて、五条はへなへなとミズキの膝に覆い被さるようにして脱力した。その背中をミズキの手が焦って詫びるように撫でていく。

ミズキの傍には涙の原因となった本が置かれている。
名作古典に分類されるその本について、映画化されたものを観て五条は内容を知っていた。大まかに言うなら悲恋モノ、貴族の青年のためを思って身分差のヒロインが嘘をついて身を引く話。映画化で多少の脚色はあっても大筋は違わないだろう。

「…こんな大泣きするほど共感したんだ?どの辺?ヒロインが貴族の男をわざと突き放すとこ?」

五条はミズキの隣に腰を下ろし、自分の袖口を濡れた目元に当てて涙の残りを取ってやった。ミズキは顔を構われながら、今し方読んだばかりの内容を思い返し、思いの丈を手元で綴った。

(とっても悲しかったけど、ヒロインは幸せだったと思います。好きな人に幸せになってもらいたいから)
「その隣にいるのが自分じゃなくても?」

ミズキは何度も頷いて、また文字を綴った。

(相手が幸せになれば自分も幸せと思います)
「じゃあ、ミズキにとって恋の成就は相手の幸せの達成ってことなんだ?」

ミズキは一瞬、『私のこと?』という風に小さく首を傾げた。そしてまた頷き。

「僕とは少し違うみたいだ」

今度は五条へのジェスチャーとして首を傾げた。書くまでもなく『どういうこと?』と表情が言っていた。

「僕は好きな相手には、僕が相手を求めるのと同じだけ相手からも求めてほしい」

五条はミズキの膝の上に開かれているメモを、ペンを挟んだまま閉じて傍に置いた。

「『どうぞ幸せに』って身を引かれるより『全部寄越せ』って言われる方が幸せだよ」

彼女の唇は僅かに開いて、呆然として五条に向いている。五条の目がその僅かな隙間を射抜くように見た。

「もっと欲しがれ」

五条の指がミズキの顎の下にかすかに触れた。そっと促されて彼女の顔が少しだけ上向き、その唇に、五条はキスをした。

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