金魚姫B


古い紙のにおいが満ちている。
平日の夕暮れ時の、繁華街から程近い図書館には利用者はほとんどいなかった。白髪混じりの小さな女性が貸出カウンターの中で本を読んでいて、五条が重いガラス戸を開けると顔を上げて上品に会釈をした。

「好きに選んでおいで」

ぱぁっとミズキは輝くように笑って、書架の中へ泳いでいった。
身分証を持たないミズキの代わりに、五条は小さな書物机に束で立ててある利用者登録の用紙を1枚取った。黒い紐で繋がれたボールペンで記入してカウンターの女性に出すと、すぐにその磁気カードは手に入った。

「お兄さん、よくここを見付けたわね」

カードを五条に手渡しながら、女性が言った。

「あの子がね。失礼だけど、中々気付かないよあの看板は」
「私も出勤の時たまに見落とすのよ」
「それは不便だ」
「違いないわ。だけどこれでいいの。ご縁のある人にしか見えないんだと思うことにしているから」

彼女の言う通り、確かにそれくらい主張の弱い看板だった。池の隅に暮らす小さな魚みたいに。

「あのお嬢さん、とってもいい子ねぇ。可愛いわ」
「…そうだね」

その可愛い子にどんな処遇が待っているのか、五条は考えるのを避けた。

並んだ背表紙に熱心な視線を注ぐミズキの姿が時折書架の端から現れては消える。水草を縫って泳ぐ魚のように。それを五条は、カウンター近くの新書コーナーで待ちながら眺めていた。
20分もすればミズキは本を両手に抱えて戻ってきた。貸出手続きをして図書館を後にする際、女性の温かい笑顔にミズキは笑顔で返し、五条はサングラスで曖昧にやり過ごした。

「それにしても、随分借りたねぇ」

図書館を出て、ショッパーの中で洋服を端に寄せて借りた本を収めると、アパレルショップの店員が見れば眉を顰めそうな光景が出来上がった。
ミズキは買い物に遠慮していた時とは打って変わって、嬉しそうににこにことしている。彼女が五条の顔を見上げて、はくはくと口を動かした。

(あ り が と う)

夕陽がもうじき沈む時間帯だった。
彼女の艶々とした黒髪が紅く光って見え、五条は咄嗟に言葉を返せなかった。だからしばらく経ってからミズキの頭を軽く撫でて、「うん」とだけ言った。

それから五条が術式による移動でよく使う地点まで歩くと一瞬後には高専の敷地内にいて、ミズキは目を白黒させた。戸惑うミズキに構わず五条はサクサクと歩き、自室を解錠して彼女を招き入れる。パチンと照明を点けると物の少ないいつもの彼の部屋が現れて、彼は簡易キッチンやバスルーム、日用品の収納場所を一通り説明した。

「さて、冷蔵庫の中身は好きに食べていいし、部屋の中のものは何でも使っていいから。僕はこれから仕事で留守にするから鍵預けとくよ。あ、これ硝子から下着とか衛生用品の類ね」

矢継ぎ早に説明を終え、外側のドアノブに下げてあった紙袋をミズキに差し出すと、五条はさっさと部屋を出た。ミズキを振り返ることもしなかった。
少し歩いた後になって五条は、もしもさっき自分の背後でミズキが何かを発したり訴えていたとしても、声を出せない彼女のそれを拾うことが出来なかったと気付いたけれど、手遅れである。





「…で、何で麻雀?」

任務を終えた五条が帰宅したのは、翌日の夕方だった。
昼頃に硝子からメッセージが入って、

(今日ミズキと夕飯を食べるからお前の部屋に入るぞ)
(いーよ。冷蔵庫のもの好きに食べて)

という遣り取りが昼頃にあって、硝子が五条の部屋に入ることを彼は了承していたし、少し安心もしていた。

それで任務を終えて自室に戻ってみると、何やら想定よりも頭数が多い。猪野が会釈をする横で七海が無表情を貫いている。さらにはわざわざ明るい緑色のマットが敷かれ、たくさんの牌が中央の山と四辺の列を作っていた。
ミズキが立ち上がって五条に駆け寄った。

(おかえりなさい。お疲れさまです)

相変わらず丁寧な文字が罫線に乗っている。声に出せるならものの数秒の挨拶を、ミズキは丁寧に五条にくれた。

「…硝子ォ、説明」
「麻雀、以上。頭数確保のために通りすがりの七海と猪野を拉致した」
「未成年に賭博教えんなよ」
「お前から正論が出るとはな」

側で聞いていた七海が「家入さん…」とゲンナリした表情を作った。大方、硝子から成人済みと聞いていたのだろうと容易に想像出来た。加えて、ここが五条の私室であることは伏せられていたのだろうということも。

その時、袖をついついと引かれて五条が目を向けると、ミズキが新しい文面を提示していた。

(何か飲まれますか?)
「…ありがとう、今はいいかな。手を洗ってくるからゲームに戻りなよ」

ミズキを雀卓へ返すと、彼女は硝子と猪野の間にするりと収まった。対局中の申告は猪野がサポートに付いているようだった。
五条は手洗いや着替えを経て部屋に戻り、対局の様子を傍観した。どうやら実力的には七海と硝子の一騎討ちで、無難に参加する猪野と教習所から出ていないミズキという様子である。

「この局が終わったら帰ります。そもそも五条さんの私室と知っていれば来なかった」
「勝ち逃げか?せこいな七海」
「煽っても無駄です」
「お前の吠え面拝んでから死んでやるよ」
「カッケェー…!あ、ミズキちゃんこれチーしようか」

猪野がミズキに肩を寄せて、彼女の手牌を覗き込んだ。ミズキが整列した牌を指差したり指で数字を示すと猪野は「そうそう」と機嫌良く頷いてやって、それから自分の持ち場に戻っていく。
五条はそれをソファの上から眺めながら、かすかな苛立ちを噛み殺した。

そこから対局が進むにつれて猪野は徐々に顔色を悪くするようになり、ある時七海が長い溜息を吐いてツモを申告した。

「…途中ですが終わりにしましょう。私と猪野くんは失礼します」
「私も帰るかな」

硝子も牌の列を崩してケースに収め始め、見る間に部屋は元の状態に戻った。ミズキは硝子に向かって首を傾げる。夕飯の予定は?と言いたげな顔に、硝子は薄く笑って頭を撫でてやった。

「家主が戻ったんだし一緒に食べてやりな。私はそうだな…明日の昼にでも」

そうして極めて迅速に、波が引くように3人は去っていった。
突然広くなったような部屋の中で、ミズキは五条のいるソファに歩み寄ってメモに文字を綴った。

(五条さんの部屋で勝手なことをしてごめんなさい)

その文面を見て五条は溜息を吐いたのだけれど、溜息の対象は自分自身だった。
好きにしろと言ったのは自分だし、苛立ちの理不尽さは自覚せざるを得ない。第一、硝子がミズキに例えば花札でも教えていたのなら彼は苛立ちもしなかった。メモの上の方には『五条さんの部屋なのにいいんでしょうか』と履歴も残っている。

「…ミズキが悪いんじゃないよ、ごめんね」

五条は座ったまま、メモを持つミズキの手を取って指の腹で詫びるように撫でた。

「さて、せっかく早く帰れたし何か作ろうか。簡単なものになるけど」

五条が言うとミズキは顔を輝かせて、握られていた手を握り返して五条を立ち上がらせた。そのまま彼を引っ張って簡易キッチンまで導き、冷蔵庫を開けて保存容器をいくつか取り出す。

「…これ、作ったの?」

ミズキは嬉しげに頷いて、ダイニングテーブルのレシピ本を五条に見せた。それからメモで、足りない食材や調味料は硝子が食堂から工面してくれたのだと明かした。
五条は無意識に後ろ首に手をやった。どうやら自分は硝子にも詫びなければいけないらしいことが分かった気まずさからである。
とにかく彼は、ミズキに対して柔らかに、作り物でない笑顔を向けた。

「ありがとう。食べてもいいかな」

ミズキが笑って頷くのを、彼は眩しそうに目を細めて見ていた。それから「ただいま」と、言いそびれていた言葉を改めて口にした。





一方、五条の部屋を後にした大人3人。歩きながら猪野はやっと顔に血色を取り戻しつつあった。

「ッはーーー…五条さんの威嚇ハンパねぇっスね。寿命縮みましたよ」
「災難でしたね。しかし家入さんも人が悪い」

硝子は笑って適当に謝った。

「悪かったね。でも猪野が下心持たなきゃあそこまでにならなかったと思うけど」
「アッはいサーセン」

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