金魚姫@
ミズキという少女は金魚である。
正確に言うと、呪力を持つ金魚だった。その特異性から呪術高専に保護されることになり、池に泳いでいるのを補助監督3人掛かりで捕獲されて高専に連れて来られたのである。
透明な袋の口をビニールの紐で締めた、いわゆる金魚掬いの持ち帰りの形で、ミズキはゆらゆらと補助監督の脚の横で揺られながら、『冗談じゃない』と不満を抱いていた。
彼女には知性があったし、補助監督たちの会話を理解していた。会話から拾った『呪術高専』というのがどんな場所なのか知らずとも、連れて行かれる先に自由な生活など待っていないことも。
高専とやらの門が近付いてきた時、新しい声が響いた。
「お、呪力持った金魚ってマジだったんだ?」
任務に出掛けていく五条だった。彼が寄ってきてミズキのビニール袋を覗き込むようにすると、補助監督は目の高さまで袋を掲げて五条の眼前に差し出した。
五条は黒い目隠しを片目分だけぐいと押し上げて、空色の目でミズキを見た。
「へー、この分だと言葉も分かってるみたいだね」
彼が何を見てそう発言したものかミズキには分からなかったけれど、とにかく面食らったし、どこか嬉しかった。それから、間近に見たその真っ青な瞳に恋をしてしまった。
一方、彼女を捕獲した補助監督たちはこの金魚が何故あんなにも逃げが上手かったのか悟ってげんなりとしていた。『そっちから回れ』とか『餌で釣ろう』とか、筒抜けだと分かっていればここまでずぶ濡れにはならずに済んだものを。
「逃してあげたいとこだけどね」
五条が言うと、補助監督はミズキの袋をさっと背後に隠して激しく首を振った。それに五条が軽く笑って去ってしまうと、補助監督はやっと安堵の溜息を吐いた。
ミズキは補助監督の背後から、五条の姿がもう一度見えないだろうかと袋の端に顔を寄せてみたけれど、それは叶わなかった。
その時突然ミズキのいる水面が激しく波打った。天地が入れ代わるような衝撃にミズキが目を白黒させていると、ぐるぐる回る景色の中で急激に離れていく地面と動揺する補助監督が小さく見えた。
わけが分からないまましばらく揺られていて、やっと地面に戻ったと思ったら袋の口が開き、ミズキは広い水の中へ泳ぎ出た。どうやら穏やかな川の、岩が入り組んで流れの滞った洗面器程度の窪みといったところのようだった。
「やぁ」と頭上から声がして顔を上げて、ミズキはぎくりと身体を強張らせた。一羽の鴉が、ミズキのいる水面を覗き込んでいた。
「安心して、取って食いはしないよ。同類を助けたいだけさ」
同類、鴉と金魚が?とミズキが訝っていると、鴉は「呪力と知性を持った動物という意味でね」と補足した。
「あのまま黒服の奴等に連れて行かれたら、試験繁殖か解剖が関の山ってもんだろう」
否めない。ミズキもそう思っていた。
「それにあんた、白い髪の男に恋をしたね?」
それも否めない。
「叶えてやりたいじゃないか」
叶えるとはいえ具体的にどうするつもりなのか、ミズキには見当もつかなかった。金魚が人間への恋を成就させた例は、少なくともミズキの知る限り無い。
そこでふと気付いたことには、この鴉、脚が1本しかない。他の動物に食い千切られたという様子でもなく、初めからそうだったというように、1本の脚で上手く立っていた。
「人間の身体をあげる」
優しい声で鴉が言った。
五条は2時間ほどで任務を終えて帰校した時、出掛けに会った補助監督たちが青い顔で駆けずり回っているところに出会した。
どうしたのかと聞けば、一瞬言い淀んでからそろそろと出てきた陳情を聞くに、鴉に金魚を掻っ攫われたのだという。
「僕が探してあげるよ。上から見られるし残穢が辿れるし、一番早いでしょ」
「ご、五条さんが!?」
「何、余計なお世話って感じ?」
「いえいえいえまさかっ!」
補助監督たちは激しく何度も頭を下げて慌ただしく去って、五条はそれを見送ってからふわりと空中に登った。
無論、五条は親切心から金魚探しを申し出たのではない。
一介の補助監督が対象を取り逃したと報告したところで上層部は納得しないけれども、五条の目で探した結果なら飲まざるを得ない。それにあの金魚を上層部に明け渡したとして、試験繁殖か解剖ぐらいしかやりそうなことはない。それなら辺りをざっと見て姿があれば逃すし見えなければ『鴉に食われたみたいですよ』で終わり。下手に拗れてから相談されるより全員ハッピーでしょ、との五条の思いである。
上空から一帯を見回していた五条は川辺の1点に目を留めてその付近へ降りた。彼は目隠しを首に下ろしてまじまじと観察し、川の流れに半分身を浸したミズキを引き上げて自分の上着で包んだ。
ミズキが目を覚ました時、最初に目に入った白い天井を不思議な思いで眺めた。続いてそこが水中でないことにハッと気付いて呼吸の不安からエラの辺りをパシンと手で押さえた。
しかしエラが無い。それに、手…?と不慣れな感覚に動揺しながら上体を起こし、部屋を見回して自分の手を凝視した。
鱗が無く、ヒレでもない、ヒトの手。
「気が付いた?」
声がして、見ると白衣の女性がカーテンから顔を覗かせていた。
「五条、起きたぞ」
その女性が首を逸らして呼ぶと、足音の後でミズキの焦がれていた白髪の男が顔を出した。
「おっ、起きたね。気分どう?」
「首を押さえてるけど痛むの?」
ミズキはハッとして首から手を離し、首を振った。
簡素なスツールを引き寄せてベッドサイドに腰掛けて、五条は脚組みをした膝に頬杖を立ててミズキを見た。「さて」と彼が場を区切った。
「形式的なことだから一応聞いとかなきゃなんだけどさ。まず名前から教えてくれる?」
はくはくとミズキが口を動かすも、声は出ない。五条が手のひらから頬を浮かせて半端に口を開けた。
「…声、出ないの?」
ミズキが頷くと五条は彼女を見たまま「硝子、書くもの貸して」と呟いた。
鴉の示した条件は大きくふたつだった。
ひとつ、ミズキはヒトの姿でいる間、鴉と2人きりの時を除き声を出すことが出来ない。
ひとつ、周囲に正体を知られた瞬間ミズキは金魚に戻る。
その条件を飲み、ミズキはヒトの身体を得た。
声を出さず正体を隠したままどれだけのことが出来るかは、見当もつかない。それでもミズキは構わなかった。憧れていたヒトの暮らし、それから、あの真っ青な目にもう一度会いたかった。生まれて初めての、そして恐らく最後の恋である。
ミズキは硝子の差し出したメモ帳とボールペンを受け取って、罫線の間に自分の名前を綴った。
生まれて初めて書く文字だった。元々ミズキは長い間人間に飼われていて、文字も知っていた。
五条はその手元を覗き込んで「ミズキ、ね」と咀嚼するように言った。
ミズキに一通りの質問を投げて、そのほとんどが空振りに終わった五条は肩を竦めた。
「…記憶喪失、声も出ない、中々ハードモードだねぇ」
ミズキの方は嘘を吐くことにやはり罪悪感はあるものの、正体を隠す必要がある以上『覚えていない』と答える他ない。
五条がニッコリと笑顔を作って見せた。
「ま、差し当たり君の身柄は高専で保護するから安心してよ。行動を無制限ってわけにはいかないだろうけど、大きく不自由はさせないからさ」
ミズキはいまいち釈然としないまま、曖昧に頷いた。五条がミズキの素性について形式的な質問以上に探ろうとしないことは勿論有難いけれども、不審者以外の何者でもないニンゲンをとりあえず保護するだなんて。五条の奥に立つ硝子もそれについて異論は無いようだった。
「これからよろしく、ミズキ」
五条の口元はニッコリと笑っていて、最後についでのように「あ、僕は五条悟ね。こっちは家入硝子」と適当な紹介を投げた。
それにまた曖昧な頷きを返しながら、ミズキは内心でひとまず安堵の溜息を零した。
このようにして、ミズキという金魚は少女になったのだった。