ミルクとビスケット(後)
鏡に向かって溜息をついた。朝がくることがこんなに憂鬱なのは初めてかもしれない。
その日会ったばかりの男性を自宅に招くなんて(しかも、五条さんみたいな素敵な人を)、きっと尻軽だと思われてしまった。
多分これまでも女性からの誘いなんて数え切れないほどあっただろう。となれば、『あーはいはいこのパターンね』と呆れて当然だ。
もうじき五条さんが迎えにきてくれる約束の時間になる。それなのに、どんな顔をして会えばいいのか正解が分からない。
一応、髪はどこもハネていないし、口元に歯磨き粉の泡が残ってたりもしない。だけど鏡に映る私の様子はきっと五条さんに会う正解ではない。
その時鳴ったインターホンに軽く飛び上がるほど驚いて、次いで足元の鞄を掴んで玄関へ駆けた。
せめて笑顔でいよう。仏頂面よりは正解に近い…、かもしれない。
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「おはようございます」
「うん、おはよ」
ミズキに会うと思うと表情のひとつにしても正解が分からなくて、せめて笑顔でいようとは思うけどそれも上手くいかない。サングラスで良かったと思うのは初めてだ。
「…今日は髪、下ろしてるんだね。お化粧も昨日と違う気がする」
玄関開けて初見で可愛いが殺しにきた。髪を下ろして薄らとだけ化粧をしたミズキは昨日受付に立っていた時より少し幼くて、いっそ怖いほど可愛い。この子は…うん、アレだ、お外歩いて大丈夫?攫われない?
僕がサングラスに頼って表情を取り繕っていると、ミズキは「髪とお化粧は会社でするんです。いつも電車で揉みくちゃになっちゃうから」と話してくれた。揉みくちゃってなに可愛いんだけど。
飽くまで理性的に「そっか、大変だね」とだけ返して問題の駅へ向けて出発した。普段人に歩幅を合わせるなんてしないけど、ミズキとならむしろゆっくり歩きたい。小さな歩幅が可愛い。
駅に着いて階段の始めで手を差し出すと、ミズキは一瞬キョトンとして、意味が分かると恥ずかしそうに小さな白い手を僕に預けてくれた。
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「はい、どうぞ」と言われて、一瞬意味が分からなかった。
遅れて、手を貸してくれようとしているのが分かると顔がぼぅっと発熱して、恥ずかしいけど嬉しいし、だけど昨日のこともあって失恋濃厚、迷った末に五条さんの大きな手を取った。
行手に失恋が見えていても、せめて五条さんが任務で傍にいてくれる間だけ、この贅沢を受け入れても許されますように。
ホームに降りて見回しても問題の呪霊は見当たらなくて、どうにも焦りを感じてしまう。だって五条さんはお仕事で来ているのに。
「ごめんなさい…今日も姿が見えないです」
「だね」
昨日も空振り、気にしなくていいとは言ってくれたけど、忙しい五条さんにこれ以上時間を浪費させるのは良くない。
どうしよう、五条さんの言う通り何か条件があるんだろうか。
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階段にかこつけてミズキの柔らかい手を握ったままホームに降りると、彼女は辺りをざっと見回して申し訳なさそうな顔を僕に向けた。謝ることないって昨日も言ったのに、律儀だね。
それに『いない』わけじゃない。
「前に見た時は…あの辺りから手が出てきて」
うん。あの下に隠れてるからね。僕が威圧してるから出てこないけど。
「あの…ごめんなさい時間を取らせてしまって。でも本当なんです、本当に私…っ」
ミズキは思い詰めた様子で僕に必死に訴えている。
通常なら窓からの聴取と事前調査は補助監督の仕事だから、窓と術師が同行することは無い。ミズキといたい僕の勝手でこの状況になってるんだし、上への報告も適当にでっち上げるつもりでいた。でもそっか、これ以上『呪霊が出ないので調査継続します』はミズキに対しても通らない。
「大丈夫そもそも疑ってないよ、呪いの残穢は見えてるしね。被害拡大してないんだから現状ベストだよ」
努めて愛想良く笑いながら、丁度滑り込んできた電車に乗り込んだ。通りがけに電車とホームの隙間からサラッと祓いつつ。呪いの断末魔は雑踏に消えた。
さてミズキの会社に着くまでに、どうやって繋ぎ止めるか考えなきゃな。
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いつも通りぎゅうぎゅう詰めの電車の中で、ふと違和感に気付いた。周りの人から押される感覚がない。見回しても私と周囲を隔てるものは何も見えない。触れているのは五条さんだけだ。
「あの…もしかして五条さん何かしてます…?」
「お、気付いた?」
「ちょっとね」と五条さんは笑った。
本当に五条さんは、満員電車の似合わない人というか、神聖な感じがするくらいに綺麗な人。その五条さんがわざわざ私の通勤に付き合って人混みの中に立って、私を懐に入れて守ってくれている。きっとこの先の人生でこんな贅沢な出来事はもう起こらない。
電車の揺れを言い訳にして五条さんの胸に頬を預けた。そして、口の形だけで言った。
好きです。
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満員電車なんて乗ったことなかったし乗りたいとも思わなかったけど、ミズキと密着する口実には良かった。小さくて華奢なのに柔らかくて温かい、ミルクとビスケットみたいな匂いのミズキ。
僕の恋人になってほしい。
髪や頬や唇に触れる権利がほしい。
ミズキの背後にいるサラリーマンの手が意図的に彼女のお尻の近くに位置取ってるのが不快で仕方ない。無限の内側に囲ってるから触れることは永遠に無いけど、存在だけで不愉快…と思ってから、自分がもう随分ミズキにどっぷり惚れ込んでることを自覚した。ほとんど見てくれしか知らないくせにこの彼氏面、我ながら情けない。
でももう形振り構ってる場合じゃないな。
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会社に着くのがいつもより早い気がしたけど、いつもの時計の針はいつもと同じ時間を指している。
立ち止まって、五条さんに頭を下げた。
「ありがとうございました。ごめんなさい、今日も空振りになってしまって…」
「あー…それならね、ホームの足元に見付けたから通りがけに祓っといたよ」
え、………え?
「それは、何よりです…、?え、じゃあこれで…?」
「話変わるんだけどね、良かったら今日ランチ行こ」
んん?……、ん?
私が話に追い付けないで目を瞬かせていると、五条さんは淡々と続けた。
「僕はミズキに恋人になってほしいと思ってるよ。お昼までに返事、考えておいて」
「は、はい……え?」
「じゃあお昼にね。お仕事頑張って」
ひらひらと手を振って、五条さんは歩いていってしまった。
聞き間違いでなければ、私は今、五条さんから恋人になってほしいと言われたのだろうか。挨拶と同じ表情同じ声色で言うから、もしかして自分の都合のいい聞き間違いじゃないかと思ってしまう。
長らくポケッとしたままそこに立っていた。近くを通っていく人の訝しげな視線にはたと気付いて時計を見ると始業が迫っていて、慌てて更衣室に駆け込んだ。
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言った。…というより、やらかした。
もうちょっと言い方とか雰囲気とかあるだろ童貞かよ。格好悪いの極み、やり直しを要求する、…まぁ普通に無理だけど。
ミズキ、ポカンとしてたな。そりゃそうか、会って2日の男に挨拶みたいなノリで告白されたらポカン以外どーすりゃいいのって話。
昼まであと3時間と少し。
…ランチ、どこ行こう。高すぎも安すぎも痛いし、そういえばミズキの食の好みもアレルギーの類も知らない。
「あ゛ー…クッソ」
天を仰いだ。
上手くやれない。
自分を器用な方だと思ってた数日前までの自分をブン殴りたい。どうしたらミズキが喜ぶのかまるで分からないし、相手から自分がどう見えてるのか俯瞰出来ない。分からないってのは、怖い。何か滑稽だ。
ふと自分の手のひらを見た。さっきまで、階段を口実に手を握って、満員電車を口実にミズキを抱き寄せていた手。小さくて柔らかくて優しくて、ミルクとビスケットみたいな匂いのするミズキ。
あの子が僕の恋人になってくれたら、どんな気持ちがするだろう。家に帰ってドアを開けた時にあの優しい匂いがしたら。
叫び出したいような気分がしたけど表面的には我慢して、手のひらをぎゅっと握り込んだ。
それで、結果から言うと実った。
昼休みに入って会社から出てきてくれたミズキを迎えたら、昨日と同じに綺麗にお化粧して髪を結い上げてて、情けない話僕は我慢出来ずに歩きながらまた告白した。本当は店に入って落ち着いたところで改めて言うつもりだったのに。
だけどミズキは恥ずかしそうに「嬉しいです」って言ってくれて、僕は嬉しすぎるのを余裕ぶろうとして多分妙な顔をしてた。
店に入ってようやく落ち着いてきたところで口が緩んで言っちゃった一言がまたウケる。
「ミズキ、僕の家住まない?」
いや早すぎでしょ何言ってんの僕の口。もしかして別人格宿ってたりする?ミズキはまたポカンとしてた。言ったことを取り戻せる呪具とか無いかな、無いな。
もうこれは同棲しながら思っきり大切にするしかない…っていう決意がミズキには淡白な態度に映って危うく関係を清算されそうになったことは、知人には絶対知られたくないし何なら自分の記憶からも消したい。
本当に、本命って何ひとつ上手くいかない。