ミルクとビスケット(前)


きみのいる部屋】の出会い編です。視点交互です。



数えるのも面倒な連勤後の休日に「今日少しよろしいですか」って何ひとつよろしくないんだよな伊地知。とりあえず用件だけ聞いてみると、受け持ちの生徒に振る任務の下見だそうだ。4級任務なら大丈夫だろ引率するし…とは思うけどまぁ、仕方なく車に乗った。仕事着じゃなく私服で。仕事着じゃなく私服でね?

「駅のホームで呪霊の手と思われるものに足を掴まれて線路に引き込まれる事例が2件報告されています。本日は目撃した窓の方に証言を聞きに…」
「ソレ補助監督の仕事じゃないの、何で僕」
「…、それが……」
「あーはいはいジジイの嫌がらせね把握」

着くまで寝る、着きました、そーかよ。僕の自宅近所じゃん。
僕は休んじゃいけないらしい。

車は大きなオフィスビルの前にぴたりと停まって、運転席の伊地知がガラス張りのエントランスを見て「あ」と声を上げた。

「丁度受付にいらっしゃる女性が窓の方ですね。車を近くのパーキングに停めてくるので五条さんはここで、」
「…僕が1人で行く、お前は車で待機ね」
「えっ」



株式会社コウセン、伊地知様、9時半。
朝から呪文のように頭の中で唱え続けている。

子どもの頃から悪いものは見えていたけど、その悪いものには呪霊という名前があって、見えるのは私だけではないということを知ったのはつい最近だった。窓の登録をしてから初めて呪霊目撃の報告を上げて数日、今日は呪術高専から補助監督の伊地知さんという方が聞き取りに来てくださることになっている。
私が会社の受付係をしているから株式会社コウセンとして訪ねてくれることになっていて、周囲に怪しまれないように応接室にお通しする算段だ。

その時ガラス戸のところにひとりの男性が見えて(白い髪、背が高い)、まっすぐに私のいる受付まで歩いてきた。

「こんにちは。呪術高専の五条だけど」



その子は目を瞬かせて少し動揺を見せた。ヤバ、多分予約名とか手筈が違ったな。
他の受付係に聞こえないように声量を落とした。

「ごめんね、急に補助監督が来られなくなって流れを聞いてないんだ。元の予定通りに進めてくれる?」

言うと、その子は安心したように目元を緩ませてから、礼儀正しい笑顔に戻っていった。

「株式会社コウセンの…五条様でいらっしゃいますね、お待ちしておりました。こちらの来客証をお持ちになって、奥のエレベーターで13階にお上がりください。エレベーターホール右手の応接室に第3営業部のモブヤマが伺います」
「うん、ありがと」

ネックストラップのついた来客証を受け取って、指示通りエレベーターで13階へ。言われた通りエレベーターホール右手の応接室(明かりはつけてあった)に入って、やっと大きく大きく息を吐き出した。

…やっっっば度肝抜かれるぐらいタイプど真ん中だった可愛い可愛い可愛い誰か僕の脳内プリントアウトした?3Dプリンタって生物もいけんの?僕が予定と違うこと言っちゃった時の『えっ?』みたいな顔も超可愛いしその後の安心した顔もお仕事モードのお澄ましな笑顔も可愛すぎる栄養過多…やばニヤケる語彙死ぬ。顔が熱いってこんなんマジでなるんだ?
今回ばかりは僕への嫌がらせで事前調査を振ってきたジジイに感謝してやってもいい。
とりあえず今はあの子が来るまでに顔を通常運転に戻さなくちゃならない、ニヤケ面で覚えられたら最悪だ。



給湯室で来客用のコーヒーを準備して13階応接室へ。受付にいらした五条さんは『補助監督は来られなくなった』と仰ってたから、伊地知さんの分は無しで…いいんだよね?
緊張しながら応接室をノックすると、中から落ち着いた声で応答があった。

私が部屋に入ると五条さんは窓際に立っていて、にっこりと笑ってくれた。恐らくは私の緊張を解くために。
淡い逆光の中に立つ五条さんは、サングラス越しにも分かる美貌と真っ白な髪から、神秘的なくらいに美しかった。
ソファに座ってもらってコーヒーをお出しして、私も正面に座る。今はとにかく、自分の見た呪霊の情報を漏れなく正確にお伝えすることが大切。
五条さんは穏やかに口角を上げて、私にもリラックスするように声を掛けてくれた。名前を聞かれて答えると、「ミズキね」と手触りを確かめるみたいに五条さんは繰り返した。

「じゃあミズキ、君が見た呪霊の話を聞かせて」



証言を聞く限り4級か、精々3級ってとこで間違いない感触。
ミズキは根が真面目な子なんだろう、自分の目撃情報を誇張も脚色もしないように言葉を探しながら、一生懸命に伝えてくれた。僕にとっては吹けば消せるような雑魚呪霊でも、今回の報告が窓として初めての仕事だというミズキには恐ろしかったに違いない。

「怖かったね、でも呪霊を祓えるまで通勤には僕が付き添うから安心してよ」
「え…っでも、呪術師の皆さんはお忙しいって伺ってます。そんなわざわざ…」
「実況見分も兼ねてるから任務の内だよ。男に自宅を知られたくなかったら少し離れた位置で別れるし」
「そんな…」

ミズキは申し訳なさそうに眉をハの字にして首を振ってから頭を下げると、「お世話になります」と笑ってくれた。

さて、ミズキの仕事が終わる時間まで近場の案件を片して…と、その前に伊地知の口止めだなぁ。



五条さんはとてもとても紳士的に、私の帰宅に付き添ってくれた。
駅のホームには残念ながらというか呪霊の姿は見えなくて、五条さんは忙しいのだからパッと現れてサクッと終わりというのが理想だったのは間違いない。けど、穏やかで優しい五条さんが隣を歩いてくれる特別な経験がほんの少し長引いたことを、私は密かに喜んでいる部分もあった。

帰り道の途中、行手に気味の悪いものを見てしまって私が立ち止まると、五条さんは私の視線を辿って「あぁ、」と得心の声を出した。
電柱の下に『何か』が、膝を抱えるようにして座っている。首や腕が異様に細長くて、人間じゃないことだけが暗がりでも分かった。

「怖い?」

頷くと、五条さんの大きな手が私の肩を引き寄せ、額を胸板に押し付けるように囲い込んでくれた。

「3つ数えて」

五条さんの声が真上から降りてくる。
いち、に、さん。

「もういいよ」

恐る恐る見ると、呪霊はいなくなっていた。

「ああいうのを見た時は、目を合わせないようにね。見ないように通り過ぎるか、迂回するか、あとひとつ一番オススメの方法があるんだけど聞く?」

頷いた。

「僕を呼ぶ」

にこ、と五条さんが笑った。



僕がミズキの終業を待ってる間に伊地知が詫びの電話を入れて話したらしく、ミズキは僕が特級術師だと知っていた。それで僕の忙しさを気遣ってくれる優しさは可愛いけど、ミズキが遠慮するだろ空気読め伊地知マジビンタ。

蠅頭に毛が生えた程度のやつを1体祓った後は何事もなくミズキの自宅まで着いて、彼女は玄関を開錠すると僕に向き直って丁寧に頭を下げた。

「本当にありがとうございます。駅の呪霊が出てこなかったのはすみません…」
「時間帯とかターゲットに条件のあるタイプもいるし、それは仕方ないよ。気にしないで」

申し訳なさそうに眉尻を下げたミズキに対して、最大限に優しい声と表情を向けた。祓うまでより会敵に時間を取られるケースがあるのは事実だけど、正直なところ僕は今回の呪霊に対してよくぞ出ないでくれたとさえ思っている。おかげで明日もミズキに会える。
「あの、」とミズキが不安そうな声で言った。

「…よければ、夕飯を召し上がりませんか?大したものはお出しできないですけど」
「、嬉しいけど…遠慮しておこうかな。得体の知れない男を家に上げると危ないよ」
「…ごめんなさい、はしたなかったですね」
「そういう意味じゃない、嬉しいのは本当だよ。今日はゆっくりおやすみ」

無意識にミズキの頭に手を乗せてしまってから、嫌がられやしないかと急に緊張した。でも手のひらに触れる髪は柔くて小さな頭が可愛くて、僕の手の下からミズキの綺麗な丸い目が僕を見上げて、抱き締めたいような噛み付きたいような形容し難い衝動が駆け巡った。
自分の手をどうにかミズキから剥がして、笑顔を取り繕った。もう一度「おやすみ」を交わしてドアが閉まるとエレベーターに乗って、そのドアも閉まると僕はしゃがみ込んで顔を覆った。

あの状況で我慢した僕エライ絵に描いたような大人の男だった絶対しかし可愛いな自炊してんだね好き!!

頭を撫でた時には正直危なかった。一歩、たったの一歩でミズキを玄関に押し込んで鍵を掛けてしまえば手っ取り早く欲を満たせてしまう、その境界線の上にいた。だけどそれはダメだ。
ミズキからは、温かくて優しい匂いがする。小さい子どものために温められたミルクとビスケットみたいな匂い。そんな女の子を欲で汚したら後悔しか残らない。

はー………、とエレベーターの床に向かって息を吐いた。
その日初対面の男から告白されたら女の子って引くのかな。本命相手ってこんなに正解分かんなくなるもん?

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