あきらめそこないE
「それでね、七海くんから伝言で『だから一番凄いのは貴女だと言ったでしょう』って」
硝子ちゃんからのメッセージを読み上げると、ソファの上の夏油くんはくつくつと笑って「確かにね」と言った。
くつろいだ部屋着で髪を下ろした姿は学生の頃にだって見ていたはずなのに、卒業から数年見ない間に大人の色気を蓄えていた。
4人での交際が始まってから、それまで不文律というか、『結果的にその状態だった』という習慣を明確に意識するようになった。3人と過ごす頻度とそのバランスについて。
「平等に愛してくれなきゃ拗ねるよ。私を贔屓する分には構わないけどね」と言った時の硝子ちゃんの愛らしさたるや。絶対大切にします。
付き合い始めてひと月ほどの今は、緩い輪番に落ち着いている。
今日は夏油くんの日だ。
「…今日はせっかく私の日なんだから、そろそろ私に構ってほしいな」
広いソファの上で夏油くんが軽く腕を広げて見せた。私はスマホを置いて隣に座り、広々とした胸にくっついてみる。学生の頃より色気を増したこの姿には正直まだ少し、慣れない。
だけど、拗ねたような顔を素直に見せてくれるようになって、それはとても可愛いし嬉しく思う。
「みんな、こんなに甘えんぼさんだっけ」
「牽制し合って我慢してたのさ」
「じゃぁこれからは夏油くんが嬉しいこといっぱいしようね」
言うと、夏油くんは一瞬身体を強張らせた後、私をきゅうっと強く抱き締めた。耳元に深い溜息。
「ごめんね、何か嫌だった…?」
「違うよ、好きだって…ずっと言えなくて、でも諦めることも出来なくてね。恋人なんてまだ夢みたいなんだよ」
「それは私の方じゃないかなぁ」
叶うなんて想定してなかった、一度諦めようとして諦めそこなった恋。こうしてお互いを特別として親密にくっつき合っていることが、まだ上手く信じられない。
「ずっと釣り合わないと思ってた。特級術師と補助監督だし、夏油くん学生の頃からモテてたし、叶わない前提でずっと好きだったけど」
こう言うと夏油くんはぴくりと身体を強張らせた後しばらく沈黙して、今度こそ何か気に障ることを言ってしまったのかと顔を覗き込んでみると、口元を手で覆って赤面していた。
夏油くん?と更に覗き込むと、ふいっと顔を逸らされてしまった。え、これはもしかしてレアなくらい照れてる?夏油くんって照れるの?この前似たような内容を言った時は全然照れてなかったのに?
「夏油くーん?ね、どうしたの?恥ずかしいの?」
「っそうだよ、ちょ…待って、」
これはかなり、可愛いかもしれない。どうしようもなく悪戯心が刺激されて、私を制止する夏油くんの手を捕まえてその広い手のひらに頬を寄せた。頬をむにむにと押し付けながら「夏油くん、夏油くん」と呼ぶと、逸らされていた目がじわりとこっちを見てくれて、あっ嬉しいと思った次の瞬間には何やら体勢が変わって天井を背景に夏油くんの笑顔を見上げることになっていた。
「ミズキ」
「あっはいごめんなさい調子に乗りました」
「いいよ、おかげで吹っ切れた。聞きたいことがあるんだけどいいかい?さっき『みんな甘えんぼ』って言ってたけど、悟や硝子はどんな風に君に甘えるのかな?知りたくないけど知っておきたいな。昨日は硝子の日だったよね、硝子とどんなことをしたの」
特級術師のメンタル制御術を侮るつもりはなかったにしても、結果的には同じである。『いいかい?』と言いつつ続く長文を容赦なく畳み掛けた夏油くんからは、言い知れぬ圧が醸し出されている。最後のニコ、がダメ押し。
「ミズキ、ほら教えて」
「どんな…って、キス…、だけだよ」
嘘ではない。硝子ちゃんとはキスしかしてない。ただ硝子ちゃんのキスは麻薬みたいに(知らないけど)気持ち良くて、途中から私がぼろぼろ泣いてしまっただけ。反転術式を応用して快楽物質の受容体を擬似的に云々と説明された時点で詳細を理解するのは諦めたけど、とにかくいま後ろめたい気分になってしまうくらい気持ち良かったのだ。
顔が発熱して目が泳ぐ、その私を見た夏油くんは急に真顔になった。
「抱く」
「え」
「今から」
「え、え?」
『抱く』って、この状況でさすがに抱き締める意味ではないよね、えっとつまり?本当に?と混乱しているところへ、急に部屋の扉が力一杯開け放たれた。
「たっだいまー!」
五条くんだった。
五条くんは押し倒した・押し倒された状態の夏油くんと私を見てニッコリ、「これ未遂でいいよね?」と言った。
何を隠そう今いるこの部屋、元は五条くんの私室である。通勤が面倒だからと高専内に私室を構えていた五条くんが私と夏油くんを招き入れてくれた形だ。だけど今日は五条くんは出張だと聞いていたのに。夏油くんが舌打ちをして(こら)、出張の件を五条くんに問いただした。
「多分今日辺り傑がキレてミズキに手ぇ出すだろって思ったからさぁ秒で終わらせて帰ってきたの。初めてのセックスはさすがに別途協議案件でしょー」
にこにこにこにこ、五条くんは普段と変わらない…というかむしろ普段より笑顔な気がする。夏油くんは私の上から退いて、ムスッとした顔でがりがりと頭を掻いた。
「あ、ミズキこれお土産。セックス終わったら一緒に食べよ」って五条くんはさらっと爆弾発言をくれた。クランチチョコどころじゃない。あと多分事後にチョコレートは食べない(知らないけど)。
「…悟、決定事項みたいに言ってるけどミズキの意思確認が先だろ」
「発情して押し倒してた奴が言うかよウケる」
夏油くんはソファから睨み上げて、五条くんは立位の高さから見下ろして、にわかに空気がピリついた。
私だって経験はないけどいい歳した大人だし、付き合えばいずれ次の段階がくることは分かっている。同時に、私の我儘で4人交際なんて形になっているけど、やっぱりそれはみんなの我慢の上に成り立っているのかもしれない。
「…ふたりとも、やっぱり嫌だよね」
自分の恋人に他にも相手がいるなんて、嫌に決まってる。私の呟いた声が思いの外その空間に大きく響いて、今にも胸倉を掴み合いそうだった五条くんと夏油くんの刺々しい空気は途端に鳴りを潜めた。
五条くんがソファの足元にどっかりと腰を下ろしてサングラスを外し、背中を丸めて「ごめん」と零した。
「今日ミズキとセックスするかもって思ったら情けないけどすげー動揺してんの。本当は安心させてあげてめちゃくちゃ気持ち良くさせたいのにさ」
私の膝に白いさらさらの髪が乗って、彫刻みたいに美しい鼻梁や頬が擦り寄ってくれる。隣の夏油くんも、シュンとした声で「ごめんね」と発した。
「私と悟が喧嘩になればミズキが気にしないはずないのに」
「…でも、我慢してほしいわけじゃないよ」
「違うんだよ」
夏油くんはソファから降りて五条くんの隣に並び、私の手を取った。五条くんと夏油くんは揃って叱られた幼い兄弟みたいに、似ていないのによく似た目で私を見上げている。
「私はずっとミズキに触れたかったけど、悟や硝子から君を取り上げたかったわけじゃない。あるいは、ミズキから悟や硝子を取り上げたいわけでも」
「お前言い方がまどろっこしいんだよ。つまりねミズキ、4人で付き合うのは僕らにも理想って言いたいの。我慢とか妥協じゃない」
「…本当に?」
「本当」と2人は声を揃えた。
「だからさミズキ、硝子だけズルいじゃん。シロとクロとも気持ちぃこと、シよ?」
なんっっっでその話知ってるのかなと思ったけど七海くんが話すわけはないし、そうなると1人しか残っていない。硝子ちゃんの素敵な泣きボクロが楽しげに揺れる様が頭を過った。
五条くんの誘いにコクンと頷いてから、私はとにかくもう人には話せない体験をした。夏油くんへの恋を学生の頃からズルズル続けていたから、恥かしながらこの年齢で初めての行為になったわけだけれども、初めてで2人に抱かれるって絶対普通じゃないことは分かる。
2人はすごく丁寧に時間をかけて私のことを解きほぐしてくれて、噂に聞いていた初めての痛みなんてほとんど感じる隙間もなかった。
五条くんは途中「傑はミズキに恋してもらってさ、硝子は一番仲良いし、2人ともズルいよ。ねぇ僕にも何かちょうだい」と拗ね顔で、だけどその時にはもうマトモに受け答えできる状態じゃなかった私は何も差し出せなかった。ただ、気持ち良すぎて怖くなって「五条くんたすけて」と縋り付いた時に、クリスマスプレゼントをもらった子どもみたいに嬉しそうだったことは、朧気に覚えている。
それを後ろから今度は夏油くんが拗ねた様子で見ていて、私の背中を引き寄せて耳元に「妬けるね」と低く囁きながら、その、意地悪な触り方をして実は楽しそうにしていたことも。
翌朝私が目を覚ました時、五条くんはもう目を開けていた。学生の頃からそうで、意外にも寝起きが悪いのは夏油くんの方だ。
「おはよ」と言いながら五条くんは上機嫌に私を抱き竦めた。下着だけで寝てしまったから人肌が心地良くて、五条くんの大きな手が髪を撫でてくれると起きたばかりなのに眠くなる。
「ミズキ、痛いとこない?」
「ないよ…」
ぜんぜんない。身体の一部を作り変えられたような不思議な感覚があるだけで、痛みなんて行為の最中から無かった。
「きっとすごく丁寧にしてくれたんでしょ…?ぜんぜん痛くなかった」
「そりゃあね、1年や2年の片想いじゃないんだからさ。その子のハジメテ貰おうってんだから頑張っちゃうよ」
恥ずかしくてむず痒い。五条くんの目を見ていられなくなって肩口に顔を押し付けて隠れると、五条くんは嬉しそうに喉を鳴らした。
するとその時背後で衣擦れの音がして、布団の中で温かい手がするりと腰からお腹に回った。ひぇっと上擦った妙な声が出た。
「ミズキ」
「はっはい!おはよう!」
お腹に回った腕は少々強引に私を引き寄せて、夏油くんの鼻先が私の項の辺りで髪にうずまってスンスンと鳴った。擽ったい。
「ミズキ」
「う、うん?夏油くんまだ眠いの?」
「違うよ、本当に私が君を抱いたんだって噛み締めてる」
「お前じゃなくて僕とお前な」
「うるさいよシロ」
夏油くんがシッシッと野良犬を追い払うような手をするから五条くんは口元をひくつかせて、一度開いた私との距離をぐいぐい詰めた。五条くんが額の合うほど近付いて、そうなるともう私はクッキーに挟まれたクリームみたいになるしかない。ぎゅむぎゅむだ。
さらには両側の2人が私の上方で叩いたり髪を引っ張ったり、子どもみたいな喧嘩を始めるものだから、とうとう堪えきれずに笑ってしまった。
「ほら悟が子どもみたいな嫌がらせなんかするからミズキが笑ってるよ」
「ア゛ァ?それはお前だろ糸目。手ェ退けろよ邪魔」
「邪魔者は出てってくれないか。今から私とミズキだけで初めてのセックスをやり直すんだから」
「今日は僕の日だっつのお前が出てけよ」
声を上げて笑った。高専の教室でしていた会話を思い出す(もちろんこんなエッチな話はしてなかったけど)。卒業してからはこんな風に戯れ合うことは無くて、懐かしくて愛おしい。
いつの間にか2人も私につられて笑い始めていた。
苦しいくらい笑って、筋肉質な2人に挟まれていることもあって肌寒い気温だったはずなのに少し暑いくらい。
「あのね、ふふ、ふっ」
「何だい、ははっ今ね、何かツボにハマってて、ふ」
「あのね、大好き。しあわせ」
「急に心臓鷲掴んでくるじゃん抱くわ」
また3人で笑った。もう何がこんなに可笑しいのか分からないのに笑わずにいられなかった。
私たちはみんな『あきらめそこない』だ。
なんて幸せな、『あきらめそこない』。