あきらめそこないD
色とりどりの野菜が美しくお皿に配置されて、その中央には厚みのあるお肉。美しい焦げ目の表面にナイフを置くと前後させるまでもなくストンと切れて、断面はピンク色できらきらとしている。美味しくないわけがないと思いながら食べたものの、予想を軽く上回ってやっぱり驚きはした。
「お前ほんと美味そうに食べるね」
丸テーブルの3時から五条くんが6時の私を見て嬉しそうに笑った。
そりゃそうでしょう、だって美味しいんだもの。逆隣の夏油くんと正面の硝子ちゃんも美味しそうにしてると思うし。あ、硝子ちゃんはワインの方が好きそうかな。
誕生日を迎えた私を、3人は例年通り食事に誘ってくれた。驚いたことに五条くんも参加してくれて、出張はどうしたのかと聞いてみたら「前倒させた」と簡単に返ってきた。補助監督の立場としては、移動手段と宿の手配だとか他の術師との兼ね合いでバタバタしただろうなぁ…とこの場にいない伊地知くんに心の中で詫びておいた。
25歳になった。
高専に入学する前は、10年経ってもこうして誕生日を祝ってくれる友達が出来るなんて想像していなかった。呪術師になるとぼんやりながら疑いなく信じていて、それは叶わなかったけど現状に不満は無いどころか私はとても幸せ。
ねぇ五条くん。
私が呼ぶと五条くんは優しい目を向けてくれた。
「私ね、呪術師の道を諦めたこと後悔してないよ。3人がいてくれてとっても幸せ。…ずっと、守ってくれてたんだよね」
五条くんは言葉の含む意味を探るように私の目をじぃっと見ていて、それからずるずると後ろに凭れて居心地悪そうに口元を曲げた。
「…誰から聞いたの」
誰でもないよ。
五条くんが資料室から私を連れ出してくれたあの日、夜になって帰宅してからあの書類を取り出して何度も確かめた。何度見直してもやっぱり昼間に見た通り、私の術師資格停止を申請する書類だった。
起票者の欄には、見慣れた五条くんの筆跡で五条悟とあった。
最初は五条くんがどうしてそうしたのか分からなかった。だけどその書類をずっと眺めて記憶を手繰り寄せる内に気付いた。申請書の日付は2007年の夏の終わり、夏油くんが非術師を殴ったかどで謹慎した頃だった。
そして夏油くんは私の資格停止を自分のせいだと言った。
「それは私のせいだって言っただろう」
夏油くんが立ち上がった。静かな個室には物音が思いの外大きく響き、彼には珍しく会話を切り上げたがっているような声色だった。
「夏油座れ。ミズキは責めてないだろ」
硝子ちゃんはワイングラスの細い脚から離した手を所在なさげにテーブルクロスの上に仮置きして、艶々とした爪を漠然と眺めている。夏油くんが椅子に戻った。
私達が学生だったあの当時、夏油くんは五条くんの行動の規範だった。夏油くんの示す枠から外れなければ…と言っても五条くんは外れがちだったけど、遠去からずにいれば、大きく道を外れることはないという安心感があった。その気持ちは少し分かる。私には枠からはみ出すだけの力も無かっただけ。
とにかくあの時の夏油くんの謹慎が、五条くんにとって大きな衝撃だったことは間違いない。もしも謹慎で済んでいなかったら、夏油くんが『その線』を越えていたらという想像はしたくないけど、手に取れそうなほどありありと見える。
「僕の都合だよ」と五条くんが言った。
「呪術師やってるとさ、傑が謹慎した時みたいな胸糞案件に当たるのってまぁあることじゃん。イカレなきゃやってらんないけどイカレすぎると戻れなくなる危機感みたいなのが常にあって、僕にとってミズキはセーブポイントなわけ。失うわけいかねーから汚いのから切り離したかった。ミズキの意志もそれまでの努力も無視して俺がやった」
思えば、五条くんが一人称を変えたのもその頃だった。五条くんは五条くんのやり方で、この4人の関係を守ろうとしてくれていた。
「ありがとね」
言うと、五条くんは痛いのを我慢するみたいに目を細めた。
「…だから僕の都合だって言ってんだろ。僕はお前に術師は辞めてほしかったけど、呪術界から抜けられちゃ困るから。僕にとって丁度いい位置が補助監督だったんだよ」
五条くんの、わざと恨みを買おうとする癖は学生の頃から変わらない。
告白してくれた時私に『もう時効にしてくれてもいいんじゃない』って言ったのは五条くんなのにね。
「ね、五条くん」
「…なに」
「手、出して?」
五条くんに向けた手のひらを彼はきょとんとして見ていて、私が「ほーらっ」と促すとおずおずと手のひらを合わせてくれた。指を交互にしてきゅっと握るけど、五条くんの手は大きくてちっとも包む感じには出来ない。
温かくて優しい、五条くんの手だ。
「閾値は超えてないみたいだよ」
私が少し意地悪な笑い方をすると、五条くんは一瞬遅れて手を繋いだまま項垂れて笑った。
「ハハッお前さ本当、上手すぎ。1級なれるよ」
「ふふっありがと。夏油くんもほら」
「え、何?何のテストこれ」
私の反対の手を、夏油くんも戸惑いながら握ってくれた。同じように指を交わらせて握って、だけどやっぱり包んではあげられない。
「いつも守ってくれてありがとう、大好きだよ」
「ねーやっぱ僕の恋人になってよミズキ。これ両想いじゃん、付き合うしかないって」
「それより私が責任取るよ。悟より大事にしてみせるから」
「ア゛?やんのか傑」
「上等だよ表出な」
「もー2人ともだめだってば。付き合わないよ」
「「なんで??」」
心底分からん、の顔が両側から私を見た。2人とも顔立ちは全然系統が違うのに、こんな時不意に同じ表情をするのだ。兄弟みたいに。
「だって、1人と付き合ったら他の2人と疎遠になっちゃう。4人でいるのが大好きだから、今までもずっと夏油くんのこと好きだったの黙ってたのに」
「ミズキ今の最後の部分だけもう一回言ってくれないかな」
「それに硝子ちゃんのことも大好きなんだもん」
「夏油、お前のは過去形。私のは現在形」
硝子ちゃんが少し意地悪く目を細めて、夏油くんに向かって笑った。硝子ちゃんはその後でふと手のひらに視線を落としたかと思うと私に向けて、拗ねた顔をした。
「…私は何かそのチェックテスト、受けてないけど」
硝子ちゃんが可愛い。私はもうきゅんきゅんしてしまって、席を立つと丸テーブルを回り込んで硝子ちゃんのところまで行くと手は握らずに抱き着いた。
硝子ちゃんの手は繊細で柔らかくて優しい。背中を撫でてくれた。
「じゃあさーいっそ4人で付き合おうよ。それで万事解決」
いかにも名案みたいな声で、ピンと人差し指を立てて五条くんが言った。
そ、それは、一般的にどうなんだろう…?いや私も大概我儘なことを言ってる自覚はあるのだけれども。
「ふざけんなよ五条、私はミズキとしか付き合いたくない」
「僕だってそうだっつの。でもそれじゃ可愛いミズキが寂しがるでしょってこと」
「私は構わないよ。ミズキが望むならそれがベストだから」
硝子ちゃんが私を見て、意志を確認するみたいに首を傾げた。
こんな幸せなことって、あっていいのかな。私が決めてもいいのかな。この3人をひとりじめなんて、何だか私には大きすぎるような気がする。だけど3対の目は私の返事を待ってくれているようだった。『早くおいで』って私を待ってくれた、学生の頃みたいに。
硝子ちゃんの両肩に置いていた手を首の後ろに回した。
「硝子ちゃんがいないとやだ…お願い」
「はぁーーー??何ソレ可愛い僕にも言って」
「五条うっさい。………ったく、分かったよ。言っとくけど私が付き合うのはあんただけ、クズ2人と何しても文句言わない、これでいい?」
抱き合ったまま、硝子ちゃんが私の耳元の髪を後ろに流した。触れてもらうととっても温かい気持ちになって、飼い主の手に擦り寄る猫の気分。
嬉しくってこくこく頷いていると、硝子ちゃんの顔が寄ってきて綺麗な唇が私にキスをくれた。温かいゼリーみたい、ドキドキする、深くなって、ワインの味、ふわふわする、好き。離れた時にはちゅぷっと音がして、少しえっち。硝子ちゃんの唇に、硝子ちゃんなら絶対に選ばない淡いピンクの口紅が移っている。
硝子ちゃんが色っぽく笑った。
「…可愛いね」
間近に見る硝子ちゃんの色気にくらくらしていると後ろから腕を取られ、引き寄せられた先は五条くんだった。「ねぇ僕は?」と、眼前に迫った拗ね顔が言った。
「大好きだよ」と私が言い終える前に、少し顔の角度を変えただけですぐに唇が重なった。五条くんからはお酒の味はしないのに、酔ったようにくらくらする。舌、硝子ちゃんより大きい…と、どこまでも翻弄されながら場違いなことを思った。気持ちよくて涙が出るなんて初めてで、脚に力が入らなくなって、五条くんに縋り付くことしか出来ない。
キスが終わって間近に見た顔はもう拗ねていなくて、満足げに目が細まっていた。きれい、きれい、きれい。
それから今度は肩を引き寄せられて、頭がついていかないままいつの間にか抱き締められていた。ずっとずっと恋をしてきた夏油くんが、鼓動の聞こえるくらい近くにいる。
キスをした。何というか夏油くんのキスは一番ねちっこかった。舐めて、離れて、またくっついて、吸って、舐めて。その合間に途切れ途切れに叱られた気がする。
まとめると、
「酷いじゃないか、ずっと私のことを好いていてくれたんだろう?それなのに3番目だなんて」
こんな感じ。
ただ私はもうその間中いっぱいいっぱいで返事も出来なくて、キスが途切れたタイミングで五条くんのゲンコツが夏油くんを殴ったことでやっと息継ぎが出来たというくらい。
「だいすき」と声に出したら、五条くんに殴られたばかりの夏油くんが子どもみたいに嬉しそうに笑ってくれた。
やっと言えた。
みんなも、こんな気持ちだったのかな。