あきらめそこないB


七海くんが術師に復帰することになって、硝子ちゃんが「それを口実に飲もうって話になってるんだ」と私を誘ってくれた。
ここ最近立て続いた出来事を思いっきり持て余していた私はふたつ返事でその誘いに乗り、だけど実名を出して相談してもいいものか迷ったまま硝子ちゃん行きつけの個室居酒屋に顔を出したのだった。

数年ぶりに会う七海くんはぐっと大人びた顔付きになっていた。高専の頃にはしていなかった特徴的な形のサングラスを、席に着くと外してワイシャツの胸ポケットに挿した。

「ちょっと意外、硝子ちゃんって誘って飲むくらい七海くんと仲良かったっけ」
「七海は静かに飲める貴重な人材だからな」
「貴女方の代が異常なだけでしょう」

硝子ちゃんは騒がしいのを嫌うから、確かに一緒にお酒を楽しむ相手として七海くんは最適だろう。最初に注文した料理が届くと、日本酒とお刺身を中心に落ち着いたテーブルが出来上がった。
五条くんや夏油くんがいたら、ここにジャンキーな料理とクリームソーダとビールが加わる。

「ミズキ今日は元気ないね。悩み事?」

近況報告をひとしきり交換し終えた辺りで硝子ちゃんが私を見て出し抜けに言った。硝子ちゃんは人の機微に聡くて、学生の頃から誤魔化せた試しがない。
悩み事を相談したいのは山々だけれど、名前を伏せたままどう説明したものか決めかねていた私は微妙な唸り声を漏らした。

「五条と夏油から同時に告白でもされたか」

ごふっっっ。カシスオレンジに向かって咽せた。
あぁ、七海くんと硝子ちゃんの『マジか』という顔。
私がだらだらと変な汗を垂らしつつ目を泳がせていると、硝子ちゃんが「よし」と切り出した。

「ミズキ、言い難いなら昔話風にぼかして説明してもいいよ」
「…昔話?どういうこと?」
「昔々あるところに独り身の娘が暮らしていました」
「うん」
「娘は馬鹿みたいに大きくて堪え性のない犬を2匹飼っていました。名前はシロとクロ。はい続き」

ほぼ明らかだしちょっと悪口である。
とはいえ昔話設定を拝借してどうにか事のあらましを説明すると、七海くんは長い溜息を、硝子ちゃんはくつくつと笑いを零した。

「正直五条はいずれ抜け駆けするだろうと思ってたけど」
「家入さんシロとクロで通してください、私は関わりたくない」
「七海くんごめんねぇ…」
「謝ることはありません、貴女は被害者の筆頭ですから」

七海くんは遠くを睨むような、忌々しそうな目をした。

「げと、…クロは今まで黙ってたのを何で今言ったんだろうな」
「ごじ、…シロに宣戦布告されたって言ってた」
「あー納得、ごじょ、…シロがいかにもやりそうだな」
「お2人ともやる気あるんですか」

七海くん本当ごめん、ここは私が払います…と言うと断られた。一級術師と補助監督の俸給の差、その上彼は紳士である。

「ミズキはさ、どうしたい?シロクロどっちかに気持ちは傾いてたりする?」

硝子ちゃんが頬杖の上で、少し眠たげな目を細めて見せた。
あの2人の内のどちらかを、私は選ぶのだろうか。何だかしっくりこない。大好きな、大切な同期たち。硝子ちゃんも含めてずっと傍にいたいと思うのは私の我儘で、ひとり立ちには既に遅すぎるくらいだと分かってるけれど。
これから進む道は徐々に離れていって、数年後に学生時代を思い返した時、やっぱり凄い人たちと同じ教室にいたんだなぁってしみじみ感じる…そうなっていくんだと、少し前までそう思っていた。

「分かんない…。私の小規模な人生には余る出来事っていうか、うん、処理しきれてなくて」

言うと、七海くんが『信じられない』という風に切長の目を見開いた。

「ソウマさん。言っておきますが、貴女方の代で一番凄いのは貴女ですよ」
「ぇえっ?ふふ、ありがと。そんな風に言ってもらったの初めて」
「信じてませんね」

七海くんがフー…と長い溜息を吐いた。今日は溜息ばっかりにさせちゃってごめんね。でも信じろという方が無茶だと思うの。

「ミズキ、シロクロどっちも選ばない方法教えようか」

硝子ちゃんが日本酒のグラスから離したばかりの口で言った。濡れた唇が艶々として、とっても美しい。

「私を選びな。大切にしてあげる」

この美人な同期はなんて男前なのか。

「ふふ、硝子ちゃんいつも優しいから幸せになれそう」

やっぱり相談して良かった。相談で答えが出る事柄ではそもそもないけど、話して笑って安心すると頭がクリアになる。後は私が納得して答えを決めるだけだ。

「ミズキ、信じてないだろ」
「うん?」

見ると、硝子ちゃんは頬杖に寄り掛かって頬の輪郭を柔らかに歪め、その真っ黒な目で私を見ていた。心臓の内側を覗かれるような、いつも優しい硝子ちゃんの、初めて見る表情だった。
硝子ちゃんが隣から手を伸ばして私の頬に触れた。

「本当のこと言おうか。私は優しくない。ミズキだから優しくすんの、気に入られたくて」

どうして、どうして硝子ちゃんまで、五条くんや夏油くんと同じことを言うの。

「今まで我慢してたけど、アイツらがゲロったなら私だけいい子で黙ってる義理もないしな」

25歳になるって、こんなに難しいことだっけ。





「…足元に気を付けて」
「そう、だね、うん」

帰り道、七海くんが私を送ってくれた。私の自宅の少し手前でタクシーを降り、「こういう時は少し歩きましょう」と言ってくれたのが有り難かった。私の周りには、勿体無いくらいに優しい人ばかりだ。
七海くんはあまり帰りたがらない私の足に合わせてゆっくり歩いてくれた。

「…七海くん」
「はい」
「七海くんは知ってた?」

あの凄い3人が揃って私を好きだと。
七海くんは「えぇ、まぁ」と、溜息と言葉の間くらいの音で言った。

「学生の頃3人の内の誰か或いは全員が、常に貴女に張り付いていたでしょう」

それはだって、4人だけのクラスメイトだもの。

「一瞬でも貴女を見ようものなら番犬に睨まれたものです。言ったでしょう、一番凄いのは貴女で、被害者の筆頭だと」
「…そうなの」

七海くんは気遣いから黙秘することこそあれ、嘘や冗談は言わない。それに、これが嘘でも誇張でもなさそうだというのは、3人の告白の様子から明らかだった。
ゆっくり、ゆっくり歩いていても、もうすぐマンションに着いてしまう。

「…七海くん、答えにくい質問してもいい?」
「…聞くだけ聞きましょう」
「ありがと。…どうして、私なのかな」

コツ、コツ、と靴が鳴る。七海くんが2回鳴る間に私は3回、公倍数を踏んでいく。
七海くんが沈黙している間に、エントランスの前に辿り着いてしまった。やっぱり謝って帰ろうと思ったタイミングで七海くんが口を開いた。

「あの規格からも規定からも外れた3人が貴女のどこに惚れ込んでいるのかは、今ここで考えても仕方がありません。ただ私から言えることは、ソウマさん、貴女はもっと自分を誇るべきということです。貴女は努力の人です。術式の特性上攻撃力は高くありませんが、結界術の完成度は群を抜いています。術師資格を停止されたことは実力不足でも怠慢でもない」

夏油くんはそれを『私のせいで』と言っていた。
意味が分からない。3人が私を好きでいてくれることとどう関係するのか、或いはしないのかも。

「貴女のことですから周りを傷付けない道を探すでしょうが、ご自身の望みを一番に考えた方がよろしいかと」
「私の…」

私の望み。私はどうしたいのだろう。

とにかく今は七海くんを解放しなくちゃいけない。一歩踏み出すとガラス戸がスライドして口を開けた。

「七海くんありがと。ゆっくり考えてみるよ」
「そうですか」
「考えてみたら『本当はずっと嫌いだった』って言われるよりは断然いいもん。大丈夫、大丈夫」

気を付けて帰ってね。
ひらひらと手を振ると、七海くんは軽く頭を下げて背を向けた。
郵便受けを確認する時にはまだ後ろ姿が見えていて、腕や頭の傾きから何となく胸ポケットのサングラスを掛けたことが分かった。関わりたくないと言いながら、目を見せてくれていた。七海くんは優しい。

七海くんの後ろ姿が見えなくなってからもう一度エントランスを出た。まだ、ひとりの部屋には帰りたくない。

歩きながら、随分久しぶりに結界を張ってみたくなった。補助監督になってからは帳を下ろすくらいで、それ以外は久しく触れてこなかったから。
心を丸くして雑念を消す。薄いシャボン玉みたいな膜が足元から立ち上がって、弧を描いて頭の上を目指していく。頭頂の上で膜が交わり繋がって、卵の中に入ったように周囲の揺れや音から隔絶される。学生の頃には、イクラの膜の中に入るのを想像して練習していたっけ。
忘れないものだなぁと少し可笑しくなった。

高専の頃、術式が弱かった私はクラスメイト達に追い付きたくて必死に結界術を磨いた。何に透過を許し何に許さないか繊細に設定出来るし、結界自体を視認しにくくすることだって練習して出来るようになった。五条くんの目にも「パッと見じゃ分かんねぇわ、すげ」と褒められたことのある、私の唯一の特技。
結界の中は心地良い。心が凪ぐ。

しばらく静かな夜を歩いて、私は考えることを休んだ。

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