きみのいる部屋
28日間だ。
何の話かというと、五条さんと会っていない期間の話。繁忙期とはいえ長い。
万年人手不足の呪術界の中でも、きっと五条さんの忙しさは群を抜く。そうだよね特級だもん。忙しさも特級だろう。
対する私は呪霊が見えるだけで術式すら持たないほぼ一般人で、窓として登録してはいるものの普段は会社員として働いている。有難いことに比較的ホワイトな企業なので、時間には余裕がある。
歴然、私はいつも五条さんを待っていて、私はいつも五条さんに会えない。
付き合い始めた頃は一人暮らしだった。それを、忙しい中で少しでも会う時間を作れるようにと、この立派な(立派すぎる)五条さんの自宅マンションに住まわせてくれた。結果としてはそれでも現在進行形で会えない最長記録を更新中なわけだけれども。
会えないとはいえ、五条さんもちょくちょく帰宅してはいるらしい。ただそれが毎回私の就寝中だというだけだ。冷蔵庫の作り置きが減っていたり、『あれ美味しかった、ありがと』とメッセージが来るから分かる。
だけど滞在時間があまりに短いから部屋の中からはすっかり五条さんの匂いが消えてしまって、まるで私の部屋だ。私はそれが嫌だった。忙しい五条さんにつけ入っていつの間にか部屋を占領して、まるでカッコウの雛みたい。カッコウの生存戦略を否定するわけではないけれども。
ここを出よう。
土台無理な関係だったのだ。雲の上にいる五条さんと地を這う私が手を繋ぐのには、そもそも無理があった。
出ていく決心をした私はとにかく冷蔵庫の中身を使い切ることに専念して、冷凍できるおかずを作ってはジッパー付きの袋に入れた。
これから先、五条さんの繁忙期はどれだけ続くか分からない。疲れ果てて家に帰ったとき冷蔵庫を開けて腐臭が漂うなんて悪夢は置き残したくない。
そうして冷蔵庫の中を調味料だけにして、付き合う前からの自分の持ち物と化粧品だけを持って、念入りに掃除と戸締まりをし、私はその部屋を出た。決心から2日後のことだった。
さてどうしたものか。
実は間抜けな話、自分の行くあてを考えないまま出てきてしまったのだ。冷蔵庫の食品使い切りについては、我ながら惚れ惚れする完璧さだったのだけれど。
とりあえずコーヒーでも飲みながら考えようとコーヒーチェーンに入り、席に腰を落ち着けた。私の荷物はトランクひとつ。ビジホ、ネカフェ、何とでもなる。明日にでも不動産屋に行けばいい。
夜を迎えた街を眺めながら口を付けたコーヒーは、あまり美味しいとは思えなかった。
五条さんはあんまり頓着する素振りはないけど、いつも気軽に最高級品を買う。コーヒー豆も多分そうだったから、私はすっかり舌が肥えてしまったのだ。本人はあんなにザリザリにお砂糖を入れてコーヒーを冒涜するくせに。
だけど思えばその様すら、最近見ていない。最後にコーヒーを一緒に飲んだのはいつだっけ。
五条さんは頓着しない。いつか帰って私がいないと分かってもきっと、『ふぅん、まぁいっか』って、言うに違いない。あ、ちょっと泣きそうかもしれない。
あまり美味しくないコーヒーをもう一口飲んだ、その時だった。スマホに着信があって、ディスプレイを見て咽せそうになった。五条さんだったから。
迷った末に口元を手で囲って応答した。
「急にごめんねぇ、いま平気?」
「、はい」
「…あれ、外にいる?珍しいね」
はいバレた。比較的静かな店内だけど、五条さんは耳がいい。
…じゃない、言わなければ。『別れましょう』の一言だ。
と思っている内に五条さん側の音声から足音がして、ピッという電子音、ドアの開閉する音、しばらくの沈黙。
「…今クッッッソだるい出張終えてやっと家に帰ってきたんだけど、テーブルの書き置き、何コレ」
あっヤバ、『お世話になりました。冷凍室にお惣菜があるので食べてください』って書き置きしてきたんだった。いやまさか電話しながら読まれることになるとは想定していなかった。
「まさか郵便受けにミズキの分のカードキーが入ってる…なんてこと、無いよね」
大正解ですうわぁどうしよう。
喋れなくなっている私に対して、五条さんは長く深い溜息を吐いた。
「…いい、直接聞くから動かないで。電話繋げといて」
いやぁ、うん、あはは。頭の中には意味の薄い繋ぎみたいな言葉しか出てこない。出かかってた涙はとうに引っ込んだ。
スマホからは衣擦れの音だとかまたドアの開閉の音がして、それからいくらもしない内に私のいるコーヒーチェーン店の自動ドアがスライドした。コツ、コツ、コツ、カウントダウンするみたいな靴音がして私の正面の椅子が引かれ、黒い服の長身がどっかりと腰を下ろした。
「電話、もう切っていいよ」
電話口から、一拍遅れて同じ声が響いた。
何というか、想定と違う。
私の頭の中では五条さんの繁忙期はあと数日ないしは1週間くらい続いて、ある日部屋に帰って私がいないのを知って、だけど『ふぅん』で終わり、こんな感じのはずだった。
それなのに現実の五条さんは、何やらとてもとても怒っている。
「コーヒー飲みたくなってちょっと出てきたって風じゃないね」
責められている。
言葉の表面的な意味以上に、声色で、表情で、仕草で。
「それにコーヒーなら家にある豆の方が美味しいと思わない?」
どうしてだろう。
どうして、『クッッッソだるい出張』をやっと終えて疲れてる時にわざわざ私のところに来るの。
どうして、私を責めるの。
どうして、そんなに怒るの。
ひと月も放っておいたくせに。
本当は五条さんを責めたくなんて無かった。なのに口から出た「1ヶ月ですよ」という声は、自分で驚くくらい非難がましい色をしていた。
「1ヶ月、ペットなら死んでるし植物なら枯れてます」
「悪かったと思ってる。だから埋め合わせさせてよ…いきなりいなくならないで」
五条さんの声はさっきまで強い調子で刺々しかったのに、にわかにしゅんと萎びたようになって、顔も俯いてしまった。本当に出張から帰ってきてそのままなのだろう、いつもの黒服に目隠しという格好。私と外に出る時は奇異に見られないようにサングラスをしてくれるのに(私は気にしないけど)、それすら忘れてしまっている。
「五条さんは忙しいから…恋人のケアなんてする暇無くて当然です。それでもいい子で待ってられたら良かったんですけど…私には出来なかったから、それだけです。謝らなくっていい」
「何でひとりで完結させようとすんの、待って、お願いだから」
「待ってました、私は、1ヶ月。けど五条さんは1ヶ月顔を見なくても平気だったでしょう?2ヶ月もそれ以上もきっと同じです」
「平気じゃない、気が狂う。出張と任務の合間に無理矢理時間作ってミズキの匂いのする家に帰って寝顔にキスしないと死ぬ」
いきなり妙に話が具体的になって、一瞬思考が停止してしまった。
「…それって何かの例え話をしてます?」
「ここ1ヶ月の僕の話をしてる」
………、…えっと、つまり。
五条さんがちょくちょく帰宅している気配があったのは、荷物や仮眠を取るためではなかった、と。
「…起こしてくださいよ」
「午前3時に10分間のためだけに恋人起こすほど無神経じゃないよ。それに目の前にいて声聞いたら抱きたくなる」
にわかに、顔面にドライヤーの熱風を浴びたみたいに熱くなって、思わず近隣席を見回した。周囲にはそれなりに人もいるのに、五条さんは声を抑える様子もない。
「めっ目の前で声を聞いたらって、今もですけど…っ」
「今も抱きたいよ」
「…揚げ足を取ったつもりだったんですが」
「ふぅん、気付かなかった」
全く想定と違う場面での『ふぅん』だ。
正直、五条さんがこんなに手数を割いて私と話をしていることが意外だった。いつも優しいけど淡白だったし、執着も頓着もしない人だと思っていたから。
「僕は」と五条さんが言った。
「今すぐミズキを家に連れて帰りたい。一緒にベッドに入って抱き締めたい。ミズキが嫌だって言うならセックスは我慢するよ。ミズキがそのトランクの中身を元あったところに戻してくれるなら何でもする」
「なん、て、いうか…らしくないですよ。今までそんなの言ったことなかったのに」
「好きで仕方なくて格好つけたくて余裕ぶってたら好きな子に逃げられそうになって心底焦ってんの」
私が二の句が継げないでいると、五条さんはそのまま喋り続けた。何となく、溜め込んでいたものを自棄になって全部出してしまえ、みたいな感じがした。
「好きなんだよ。自分から好きになったの初めて…ってことはこれ初恋になんの?『ミズキにも仕事があるしね』とか理解あるフリしてたけど本当は仕事辞めて家にいてほしいだってこんな可愛い子が綺麗な服着て会社の受付でニッコリ出迎えてくれるなんて危険過ぎでしょ僕なら誘拐する。可愛い、好き、好きだよ。ちゃんと自炊してるしっかり者なとこもケーキの苺最後まで取っとく可愛いとこも好き。僕と同じシャンプーなのにミズキからの方が絶対いい匂いすんの、ミズキのいる部屋の匂いが好き癒される。ねぇ何食べたらそんな可愛くなんの?前世でとんでもない徳積んだ?息してるだけで可愛いってマジで何?」
まだまだ続きそうな話を遮って五条さんを引っ張って、半ば無理矢理に店を出た。
何というか、改めて、想定と違う。
優しいけど淡白、頓着も執着もしない、そういう人だと思っていた。だけどこんな、こんな、ずるい。
「…怒れなくなっちゃったじゃないですか」
五条さんを引っ張ってぐいぐい歩いて、キャリーケースはキャスターで引いていたのを途中から五条さんがひょいっと持ってくれて、目に付いた公園に入ったところで立ち止まった。
私が振り向くと五条さんはしゅんとしていて、私の出方を見ている。
私から五条さんの広い胸に抱き着くと、五条さんは一瞬驚いて身体を強張らせた後、痛いくらいに抱き締め返してくれた。
「ごめんね、好き、好きだよ」
「…まだ許してないですからね」
「うん、ありがとう」
五条さんの匂いがする。内緒で少し泣いたのはバレていたかもしれない。
それから五条さんは私を家に連れて帰ってくれて(一瞬だった)、五条さんの言う『埋め合わせ』の手始めに、朝までどろどろに愛してくれた。昼頃になってようやく目を覚ましても指一本動かせない私に対して、五条さんは非常にツヤツヤの笑顔で手料理を一口ずつ運んでくれた。冷蔵庫は私がカラにしたのだから、わざわざ買い物に行ったらしい。
何というかタガが外れたらしく、五条さんは息をするように『好き』と言い、近寄る度キスをするようになった。
五条さんが私にキスをする度に同じシャンプーが香るし、一晩過ごしたおかげで部屋にもちゃんと五条さんの匂いというか、気配みたいなものがある。それが嬉しくて1ヶ月間の放置なんてもうとっくに許していることは、あと少しだけ黙っていたい。