恋猫の献身D
猫になるといっても家の近所でお昼寝をしているような一般の猫になるのではなくて、悟さんや傑さん、ショーコちゃんのような『悪意のない化け猫』になるらしい。
『よもつへぐい』というと耳馴染みがなかったけれど昔話や神話にはよくある話で、異世界の食べ物を食べるとその世界に属することになる、そのことだった。
「じゃぁ私、もう家に帰れなくなるの?」
「そんな急じゃないよ、毎日3食を続けて1年ってとこかな。僕が思っきり神気込めたものを食べれば一発だろうけど」
ローテーブルに用意された茶器とお茶菓子を見た。お猪口みたいな小さな茶杯、茶壷、茶漏、あとの道具は名前も分からない。傍には月餅と練り切りとエッグタルトが行儀良くお皿に座っている。とても美味しそうで、抗い難くあれが欲しいと思った。
猫になる。
不思議な気分。
だけど恐ろしくはなかった。
「いいよ」
不安そうにしてたショーコちゃんが目を丸くして私を呼んだ。
「私が言えたことじゃないけど…いいのか?戻れないんだぞ」
思い出したことがある。
冥さんに私を攫わせた男、知っていた。私に告白した学校の先輩だった。
例えば悟さんがするように、あの人が私を抱き締めたり髪にキスをしたら、私は悲鳴を上げて逃げるだろう。あの人だって決して不細工というわけではなかったけど、好きと言われたってドキドキなんてしないし、告白された時も俯くばかりで顔を忘れるほどしか見ていなかったのだ。つまりそれが答え。
「私ショーコちゃんと悟さんが好き。それだけだよ」
「ミズキ!」
突然悟さんがぎゅうぎゅうと痛いくらいに私を抱き締めた。
「聞いた!?聞いたよね硝子、ミズキが僕のこと好きって!」
「わ、た、し、と、お前な」
「可愛いね、僕のお嫁さん!毎日うんと愛してあげる!」
「聞いてねぇなコイツ」
ショーコちゃんは深々と溜息をついて腰に手を当て、コツコツとヒールを鳴らしてソファに近付いた。それから、悟さんの肩から見上げる私に優しく笑ってくれた。
「ミズキ、歓迎する。私は家入硝子」
「硝子ちゃん」
硝子ちゃんの笑い方は、猫の時と変わらない。猫であれ人であれ、彼女は私の一番の友達だ。
それから私は初めて悟さんの淹れてくれたお茶を飲んで、お菓子を食べた。今までに食べた何よりも美味しいと伝えたら、悟さんはとても嬉しそうに笑った。
日の沈む頃になって、悟さんは私を家まで送ってくれた。歩く傍には、初めて会った時に連れていた光る金魚が泳いでいる。初めて会ったのはこの門柱のところだったなぁ…なんて懐かしく思い出したりしたけれど、考えてみればまだ一昨日のことだ。
「…ねぇミズキ、やっぱり考え直さない?」
悟さんが私の手を取って、指先をすりすりと撫でながら言った。何のことかと言うと、私の学業について。
猫になるにあたって私は条件を付けた。そのひとつが、高校をちゃんと卒業すること。悟さんはあまり嬉しくない様子だった。
「いやです。一番の友達は硝子ちゃんだけど人間にも仲のいい子はいたし、ちゃんと青春するの。最終学歴が高校中退になっちゃうのもいや」
悟さんは何か言いたそうに口元を動かしたけど辞めて、肩の高さに両手を上げた。「分かったよ」と溜息混じりに笑った。
「でも心配だなぁ。今回みたいに神気に吸い寄せられる輩はレアケースだろうけど、それでなくても僕のいないところでミズキが言い寄られたりしたら」
「ちゃんと断ります。人に告白されて嬉しいと思ったことないし、猫だってちゃんと、」
あ、と思った時には既に遅し。傑さんの『ちょっと嫉妬深いタイプの奴なんだ』という声が頭の中を駆け巡った。恐る恐る悟さんの表情を窺うと、表面上はにっこり綺麗に笑っていた。でも既に分かる、これは、怒っている。
悟さんの手が伸びてきて私を軽々抱き上げた。驚いている内に唇が合わさって、ぬるりと舌が割り入ってきた。そこからはもう、絡め取られ吸われ探られ優しく撫でられ強く攻められ口の内側を全て暴かれた。
私は途中で涙が出るし腰も抜けてしまって、ただ必死に「ひとっ、きちゃう」とだけどうにか口に出したのだけれど、「帳してる、黙って」の一言に完封された。
悟さんがやっと唇を離す頃にはもう、縋り付くことしか出来なくなっていた。
「…キスは初めて?」
途方もなく気持ちのいい触れ合いだった。キスは初めてだけど、きっとこれは普通でも平均でもない。
私が頷くと、悟さんは少しだけ溜飲が下がったらしかった。私はくたりと悟さんの肩に凭れてどうにか息を整えようとしてみては失敗して、だけどそれは悟さんの機嫌を浮上させる一助になったらしかった。
「ごめんね?嫉妬してがっついちゃって」
17年待った相手が自分の知らないところで告白を受けていた話なんて面白くないのは明らかで、口を滑らせた私が悪い。傑さんが忠告してくれていたのに。
どうか私の気持ちが伝わりますようにと願いを込めて、力の入らない腕で悟さんの首にきゅぅっと抱き着いた。
「悟さん」
「ん?」
「すきです」
「…ん」
「だいすき」
「僕も好きだよ。…本当はもう片時も離れていたくないんだ、それだけ知ってて」
悟さんの大きな手が弱々しく私の髪を撫でた。心臓をきゅっと掴まれたような気持ちがする。
猫で、神様で、私のつがいになる、美しいひと。
間近にある悟さんのまなじりに私からキスをした。
「卒業して猫になったら、私をぜんぶ、悟さんにあげます。だからそれまで待って」
「っ、いいの?神様相手にそんな縛り結んじゃって…破棄出来ないよ?」
「ゆびきりします?」
「それより重いよ」
「私をあげます。約束します」
悟さんは私の身体全部を悟さんに押し当てるようにぎゅぅっと抱き締めて、私の胸元で嬉しそうに笑った。少し擽ったい。
顔を上げた悟さんは蕩けるように甘く笑っていた。
静かな、静かな夜だった。
週が明けて登校した私はまた驚くことになる。
「本日付けで赴任してきた、数学担当の五条です。よろしくね」
にこ、と愛想良く笑っただけで教室の女子全員が恋に落ちたに違いない。私はこの神様のフットワークの軽さを見くびっていた。
人気のない資料室で尋問したところ、「だってやっぱり心配だし、僕も一緒に青春しようと思ったんだもん」が動機のすべてだった。そのためだけに周囲の記憶の改竄までやってしまうのだから神がかった行動力…いや、神様なんだけど。
シルクのネクタイをつぅっと指でなぞって、中頃を掴んで引いた。カクンと届くところまで降りてきてくれた悟さんにキスをすると、一瞬驚いた顔をした後すぐにニンマリと笑った。
「…先生のばか、挨拶だけでみんな先生のこと好きになっちゃった」
「あはっそれ嫉妬?かぁわい」
それから予鈴が鳴るまでキスをしていた。
昼休みに屋上で合流した猫の姿の傑さんから聞いたところによると、「ミズキに気のある全てのオスを威嚇して牽制したいのさ」とのことだ。
日当たりのいい場所で、座って伸ばした私の脚に両側から傑さんと硝子ちゃんが顎を乗せてお昼寝してくれている。癒される。
「あーっ!2人何やってんの僕のミズキに!!」
梯子を登ってきた悟さんが傑さんと硝子ちゃんを見るなり声を上げて急襲した。真っ白な猫の姿で飛び上がって私の太腿に着地(この時点で2人は逃げてしまった)、胸に手をついて私の眼前にぬぅっと顔を突き付けた。真っ白で豊かな毛並みと宝石みたいな青い目をした、とてもとても美しい大きな猫。
「ミズキも!僕のお嫁さんなんだから他の奴に膝枕なんかしちゃダメでしょ?」
「うん、うん。ごめんね」
「本当に分かってるのかなぁ」と悟さんは不満そうな様子。申し訳ないけど、猫の姿ではそれも可愛らしく思えてしまう。
悟さんは私の首筋にすりすりと頭を擦り付け始め、時折ざらつく舌でその辺りを舐めた。擽ったいと思っている内にいつしか舌の感触が変わっていて、気付いた時には手遅れ、大きな男性の手が私の頭を支えてコンクリートの床に押し倒し終えていた。悟さんの顔が機嫌良くきらきらとしている。こうなるともう、私は抵抗らしい抵抗も出来ない。
「可愛い、可愛いねミズキ、僕のお嫁さん」
気付いたら真昼の屋上が静かな夜に包まれていた。私との時間を邪魔されるのが大嫌いな悟さんはまた帳とやらを下ろしたらしい。
私は高校生活を折り返した辺りで将来猫になることを決めた。それに伴って色々と変化はあったけれど、違和感も喪失感もない。それは、生まれる前から包まれていたふわふわの毛布が、目に見えるようになっただけの話だからだと、私は思っている。