恋猫の献身C


走って走って走って途中何度か内臓の浮く感覚もあって、耳元でびゅうびゅうと風を切る音がする。とにかくただ私を攫っているらしい女の人にしがみついていることしか出来なかった。
いつしか歩調が緩まり、ドアを開けたらしい蝶番の音がして、紅茶の香りのする部屋に入った。

「手荒になってすまなかったね」

声は、息も乱れていない。
女の人は私を柔らかい場所に座らせてから、目隠しを外してくれた。眩しい。
女の人の姿が見えたけど、やっぱり顔は見えなかった。その人の顔の前には長い髪が大きな三つ編みにされて垂れていて、仮面を被ったみたいに顔は見えない。ただ、髪の端からわずかに覗く口元は、機嫌良く弧を描いているように見えた。

「私は冥冥。以後お見知り置きを、祝福の子」
「メイメイさん…」
「冥で構わないよ」

不思議と、私を攫ったこの女の人のことを恐ろしいとは思わなかった。深く落ち着いた声からは、私への敵意は感じない。私を丁重に扱ってくれたし、明るくて紅茶の香りのするこの場所に連れてきてくれた。
アンティーク調の家具、明るい日の差し込む窓、紅茶の香り。きっと危害を加える相手を、こんな場所には連れてこない。
それに、根拠は無いけど冥さんも猫なんじゃないかと思った。猫の姿になった時にどんな風に笑うか、分かるような気がするから。

「冥さん、は…どうして私を、」

攫ってきたんですか、と言う前に奥のドアが開いて男が1人、慌ただしく駆け込んできた。知らない男、10代後半。

「成功したんですね…!」

何が成功したのか、…あぁ、冥さんが『依頼主から五体満足でと言われてはいない』と言っていた。つまりこの人が、冥さんに私を攫わせたと、そういうこと。
アンティーク調の応接セットを越えて私の方へ一歩踏み出したその男に、心底怖気が立った。触られたくない、近付いてもほしくない。

「おやおや困るね、君がこの子に触れられるのは内臓を売った後だよ」
「やっぱそーいうことね」

一瞬空耳かと思った。
気付けば私の隣には悟さんがいて、左腕を背凭れの後ろに流し、脚まで組んで堂々と座っていた。空気が動いた感覚すらなかった。

「冥さん困るよ、僕の大事なお姫様が怖がっちゃうじゃん」
「これは失敬。私の方も仕事でね」

冥さんは腕組みをした親指と人差し指でマルを作った。シンプルな『お金』のジェスチャー。
「それなんだけどさ」と悟さんは左腕を前に持ってきて両膝に肘を立てて、サングラスをしていない青い目が向かい側の男を射抜いた。

「君が冥さんといくらで契約したのか知らないけど、僕はその3倍出す。前金はさっき振り込んだから不足額請求してよ冥さん」
「既に超えているね」
「なら良かった。内臓の相場なんて知らないからさぁ」

冥さんは上機嫌な様子でスマホの画面を眺めている。
悟さんは両手の指先を五対ぴたりと合わせ、開き、また合わせた。それから前屈みになっていた上体を起こして私の肩を抱き寄せた。温かい。それで初めて、涙が出た。

「あーあーあー泣いちゃった、僕のお姫様。可哀想に、怖かったよねぇ」

悟さん、悟さんがいる。私の肩を抱いて、低く落ち着いた声が「もう大丈夫だよ」と言う。髪にキスをしてくれた。

「だからね、君の選択肢は2つになったわけだ。冥さんに金を上積みするか、自力で僕を退けるか。眼球でも売ってみる?」
「それでは足りないね」
「だってさ、どうする?」

そこからのことは、よく覚えていない。悟さんの肩で泣いている内に急に目を開けていられないくらい眠くなってしまったから。





悟さんの匂いがする。それだけで、泣きたいくらいに安心した。
赤ちゃんの頃にくるまっていた毛布みたいに安心する。昨日初めて会った人、それなのに、ずっと昔から手を繋いできたような懐かしい気持ちにさせる人。
悟さんは私のことを祝福したと言った。それがどういうことなのかまだ理解は出来ていないけれど、きっと私はずっと悟さんに護られて生きてきたのだろう。

規則的に揺れている。サクサクと草の上を歩く音がする。猫の国に帰ってきたらしいことが、目を閉じたまま分かった。
このまま目を閉じていたい。悟さんの匂いにまどろんでいたい。

その時遠くから私の名前を呼ぶ声がして、駆けてくる足音があった。

「静かに、ミズキが起きる」
「…悪い。ただお前を許すかは別だぞ」

ショーコちゃんの声。ショーコちゃんの顔も見たいのに、私はまだ眠りの端っこでぐずついている。

「お前が考え無しに祝福したせいで、今回ミズキが危険な目に遭った」
「やり過ぎだったのは認めるけど、神気への感受性が強い輩が身近にいたのは偶然だろ。もう始末したし」
「これから同じようなことが起こらない保証は」
「僕が傍で護るよ。つがいなんだから当然」
「それについても認めてないからな、クズめ」

ショーコちゃん、相手、神様らしいけど大丈夫かな…。
一瞬不安になったけど、悟さんに怒った様子はない。気心の知れた仲なのかもしれない。
サクサクと歩く音と揺れは続いていたけれど、ふと止まって空気の匂いが変わった。悟さんの『執務室(ってことになってる)』の匂いだった。

悟さんがくつくつと笑った。

「でも硝子もさぁ、その内ミズキに『食べさせる』気だったんだろ」
「…私はちゃんと事前に伝えるつもりだった。お前と一緒にするな」
「失礼だな、僕だってそうだよ。無理に進める気なら伊地知に用意させずに自分でやるしね」

イジチ…誰の名前だっけ。
そうだ、悟さんが傑さんに『伊地知捕まえてお茶運ばせて』って、言ってた。

そろそろ目を開けなくちゃ、だけど瞼がくっついたみたいに重い。やっとのことで薄ら目を開けると、悟さんも私を覗き込んでいた。

「おはようミズキ、痛むところはない?」

首を振った。
攫われる前に座っていたソファに戻ってきている。

「悟さん、ありがと…」
「んーん。むしろ怖い思いさせちゃってごめんね」

やっぱり悟さんがいると安心する。
視線を滑らせると、ローテーブルに立派な茶器とお茶菓子が用意されていた。その向こうにショーコちゃんがいて、人型の姿を見るのは初めてだけどすぐにショーコちゃんだと分かった。だって、前髪のラインが猫の時のハチワレ模様と同じだし、真っ黒な目も同じ。
ショーコちゃんは少し不安そうな顔をしている。

「ショーコちゃん、会えて嬉しい」
「…私も嬉しいよ」

ショーコちゃんは私に悟さんと会ってほしくなかったんだと、何となく分かる。だけど私は今からそれを裏切らなくちゃいけない。

「…よもつへぐい?」

ぽつりと私が口に出すと、「ミズキ、知ってたの」とショーコちゃんが目を丸くした。首を振る。

「そのお茶を飲んだら、私どうなるの?」

ショーコちゃんは少しバツ悪そうに唇の内側を噛むような仕草をした。悟さんが膝に乗せた私を抱き直して、髪に頬を寄せた。

「端的に言うとね、」

猫になるらしい。

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