恋猫の献身B


悟さんに肩を抱かれて歩き、ビルの途切れた細い道のところで曲がった。曲がった途端強く抱き寄せられたと思ったら、ほんの一瞬ふわりと内臓の浮くような感覚に固く目を瞑り、次に開けた時には景色がまるで変わっていた。

「猫の国へようこそ」

悟さんが青い空を背景ににっこりと笑った。

するすると柔らかな風が肌を撫でていく。猫じゃらしの揺れる音がする。さっきまでの街の賑わいはスイッチを切ったみたいにどこかへ消えた。
見渡す限りのんびりとした野原が広がっていて、遠い位置にはこぢんまりとした民家が並んでいるのが見える。野原の中央には立派なお城が聳えていて、その奥には高い塔があった。

ぽけっとしたまま辺りを見るしか出来ないでいると、背後にサクサクと草を踏む音がした。

「悟…もうちょっと段階を踏めないのかい、ミズキちゃん戸惑ってるだろ」

スグルくんの声、でも振り向いた先には悟さんと同じくらい背の高い男の人がいた。
額の左側に前髪が一房垂れて、目に掛かっている。真っ黒な髪、『やれやれ』という表情の作り方。「スグルくん…?」と私が口走ると、その人は目を細めて頷いた。

「この姿では初めましてだね。改めて、私は夏油傑。よろしくね」

猫の時と同じ表情。疑いようもなくスグルくんだった。こんなに大きい男の人だとは思っていなくて(大きい猫とは思っていたけど)、唖然としたまま差し出された手と握手をした。

「…もういいだろ。離れにいるから傑は伊地知捕まえてお茶運ばせてよ」
「はいはい、ごゆっくり」

「ミズキちゃんまたね」と手を振って、スグルくん…というより、傑さん?夏油さん?が、お城の方へ歩いて行った。その背中を悟さんは少しムスッとした顔で見送ってから、私をお城とは違う建物へ案内してくれた。小屋というには立派な、家というには少し手狭な建物が、湖のほとりに建っていた。
さっき悟さんが『離れにいるから』と言った、その『離れ』だろうか。

「ここはね、僕の執務室ってことになってる」

促されて入ると、中は大きな一部屋だった。窓格子の幾何学模様が床に美しい影を落としている。天井から下がったランタンのシェードも同じ模様の木枠に囲われていて、夜になってそのランタンが、あの光る金魚みたいなオレンジ色の光で部屋を照らすのを想像した。漆塗りの家具が艶々と光っている。
いかにも執務室然とした大きなデスクは見当たらなくて、悟さんが『ってことになってる』と言ったその含みが、何となく掴めるような気がする。
中華風のインテリアは実際に見るのも初めてなのに、部屋を満たす静かな空気は懐かしい気持ちを掻き立てた。赤ちゃんの頃に大好きだったふわふわの毛布を手に取ったみたいに。

ソファを勧められて、私はビロード張りの広々とした座面の端に浅く座った。
悟さんはサングラスを外してグラスチェーンも首から外し、畳んでローテーブルに置いた。そこではたと気付いたのだけれど、悟さんはクレープを食べていた時の洋服から初めて会った時のアオザイ姿に、いつの間にか変わっている。
驚いてまじまじと見ている内に悟さんが隣に座って、私の手を取った。「ミズキ」と呼ぶ声はいつになく真剣。

「ありがとう来てくれて…17年、待った」

17年。
悟さんが私を祝福してくれたのは胎児の頃だったというのだから、実際にはそれ以上だろう。
神様にとっても、17年は長かったのだろうか。

「この部屋でずっとミズキのことを考えてた。何て名前を貰ったろうか、どんな風に育ってるかって」
「…長かったですか?」
「待ち侘びたよ。あのね…改めて言うけど、僕は君を愛してる。顔を見る前からずっと」

恥ずかしくて妙な顔になっているんじゃないかとか、嬉しくてにやけてしまいそうとか、逃げ出したいとも思うし、自分で感情の整理が付けられないでいる。何とも半端な私の表情を、悟さんは後ろ向きに捉えたようで、不安そうに私が口を開くのを待っている。

「…分からないんです」

やっと絞り出した答えがこれだった。

「何が分からないの?」
「悟さんが綺麗な人だからドキドキしてるのか、ただ好きって言われて舞い上がってるのか、私も…、」
「うん?」
「…私も、悟さんのことを好きになりかけてるのか」

悟さんは一瞬意外そうに目を丸くしてから、ふっと優しく笑った。

「すぐに分からなくてもいいよ。これから僕と過ごして、好きになるか決めてくれたらいい。…あーでも、抱き締めるのと唇以外へのキスは許してほしいかな」

「ねぇ、いい?」と首を傾げて私を見る悟さんはとにかく魅力的で、きっと私が男の人でもドキドキしてしまったに違いない。断れるはずもなく頷くと悟さんは目を輝かせて笑って、座ったまま早速私をきゅぅっと抱き寄せて髪に頬を擦り寄せた。

「嬉しいな、何て良い日なんだろう!これからたくさん、精一杯口説くからね!」

こんな風に健気に熱心に口説かれて、絆されないでいられる人っているんだろうか。それも、こんな美しい男の人に。
どこか甘い匂いのする悟さんの服に頬を預けているととても温かい気持ちになることだけは、既に分かっているのだけれど。

「…ひとつね、ミズキに伝えておくことがあるんだ」

頭の上で悟さんの声が言った。優しい指が私の髪を撫でている。
少し緊張感を掻き立てる切り出し方だったけど、不思議と恐ろしくはなかった。

「よもつへぐいのことを」

上手く聞き取れずに私が聞き返そうとした、その瞬間だった。
私を抱き締めている悟さんの身体が大きく揺れて咄嗟に顔を上げると、何か黒い塊が一瞬見えた。
散る羽根、鴉?悟さんの苦悶の声、何が起こってるの、今度は自分の身体が後ろに強く引かれて何かに目を覆われた。『誰か』に抱きかかえられて移動していることだけが分かる。咄嗟に抵抗しようと腕を動かしかけた時、初めてその『誰か』が声を出した。

「大人しくしておいで。依頼主から『五体満足で』とは言われていないからね」

女性の、声だった。

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