月夜、赤い糸C


※少しだけモブが喋ります


翌朝、朝霧も晴れない内から診療所のドアの前に蹲っていたせいで、出勤してきた硝子さんを驚かせてしまった。
硝子さんは私の様子と状況を見ただけで7割方事態を察してくれたらしく、鍵を開けて診察室に招き入れてくれた。

「で、五条にどんなセクハラされたんだ?」

セクハラではないんです。湯冷めを気遣ってもらって、月が綺麗って言われただけで。
どちらかというと私が、恩人にそんな邪な想いを抱いてしまった自分に耐えられず、五条さんの顔を見られず、夜も明けぬ内にそっと逃げてきたというところです。
…というのを、支離滅裂になりかかりながら硝子さんに何とか説明すると、硝子さんはコメカミに指を押し当てて長く溜息をついた。

「ミズキ、それは立派なセクハラだ。警察に突き出せ」
「はぁ…でも、」

五条さんはきっと月が綺麗だっていう世間話をしてらしただけだ。
その時、診療所の事務員さんがドアをノックして顔を覗かせた。

「先生、六眼製薬の五条社長がいらしてます。お通ししても?」
「表に立たせとけ」

ちょっとビックリする情報が満載の一言だった。
製薬、社長、いらしてます?ここに?いま?
混乱する私の肩に硝子さんが手を置いた。

「ミズキ、選んで。あの馬鹿に会いたくなければ匿う。会って横っ面張ってやろうと思うなら今日は有休にする」

混乱した頭はすぐに答えを出してくれそうにない。私が戸惑っていると、足元でミャアと声が上がった。チタンが『逃げるなよ』の目で私を見ていた。
それで私は硝子さんに頭を下げて、診察室を出たのだった。

五条さんは私が顔を出すと、まず安心したように笑って、それから叱られた子どもみたいに目を伏せた。

「ミズキちゃん、…少し話したい。聞いてくれる?」

こくんと頷いた。


五条さんは私を海辺へ連れていってくれた。朝の空気は暖まりつつあって、散歩やジョギングをする人がちらほら見えた。柔らかな芝生の上を歩いていくと、ある時それが砂浜に切り替わった。
チタンは芝生の間から飛び出た小さな虫を追い回して遊び始めた。

「…何から話そうか」

砂浜に踏み込んだところで、五条さんが言った。
それじゃぁ、五条さんのお仕事のこと。私のリクエスト。

「あー…うん、製薬会社をやってる。親から継いだ形でね」
「私の薬は…本当に必要でしたか?」
「最初は嘘っていうか、口実だった。ミズキちゃんに家にいてほしくて」

砂の上を歩くのは、足がぐらぐらとする。
五条さんが振り返って、来た道の途中で虫を追っているチタンを見た。

「僕はずっと、チタンが羨ましかったんだよ」
「…どうして?」
「ミズキちゃんといることに口実が要らなくて、ずっと一緒で、同じベッドに寝て」

昨日の夜のことを思い出した。窓の隙間から聞こえた五条さんの声、チタンに『お前はいいねぇ』と言っていた。
でもそれじゃぁまるで、五条さんが、私のことを、

「好きだよ」

私が言葉を返せずにいると、五条さんは「好き」と重ねた。

「君の周りにいる僕以外の全部に嫉妬するぐらい、君が好き」
「でもそんな、運命のひとは…?」

今のところ当たっている私の占いによれば、五条さんは運命の人と素敵な恋をするはずなのだ。
五条さんの綺麗な青い目が、まっすぐに私を見た。

「ミズキちゃん、僕が占ってもらった日のことを覚えてる?」
「もちろんです。五条さん出会ったって言ってました」
「あの日僕が初めて会ったのは、ミズキちゃんだけだよ」

一瞬何を言われたのか理解が出来なくて、ただ五条さんの目を見ていた。五条さんの目は、その中に入ってみたいなぁと思うくらいに綺麗だから。
それから、自分の手のひらを見た。

「五条さん」
「うん」
「私ね、自分の占いは出来ないんです。何が起きるか分からないの。だから答え合わせが出来ません」
「そっか」
「五条さん」
「うん」
「…五条さんの運命のひと、私でもいいですか?」

言うまでも、言いながらも、言い終えてからも怖かった。こんなに素敵な大人の男性の隣に自分が立つだなんて、正直まだ自信なんてない。
突然暗くなったと思ったら、五条さんのシャツが目の前にあった。背の高い五条さんが私を抱き締めると私の顔は五条さんの胸に当たるのだと、その時初めて知った。温かい。力一杯抱き締められて、足先が地面から離れてしまいそう。

その時、側からパチパチと拍手の音がして、見ると人の良さそうな白髪混じりのおじさまがにっこり笑っていた。

「やぁやぁ、兄ちゃん良かったじゃないか!」
「そうなんだよ聞いて!この子が僕の恋人になってくれるんだ。人生最高の日だよ!」
「そいつぁ羨ましいねぇ!兄ちゃんよく見りゃ、六眼製薬の男前社長じゃないか。国中の女が泣くぞこりゃあ」
「泣かせておけばいいよ!僕はもうこの子のものになったんだから」

五条さんは軽々と私を抱き上げて、輝くばかりの笑顔を私の髪に擦り寄せた。私はというと嬉しいやらおじさまの視線が恥ずかしいやらで五条さんの肩に顔を押し付けて隠れるような格好になって、五条さんはそれがさらに嬉しいみたいだった。
私の背後ではおじさまの声が「じゃあお幸せになぁ」と言って遠ざかっていった。

「ミズキちゃん、お腹減ってない?ホテルのモーニングにでも行こうか」

五条さんが、思わずうっとりしてしまうような低く優しい声で言った。
混乱と緊張のせいで忘れてしまっていたけど、お腹なら空いている。朝ごはんのことを考えたとき私の頭に思い浮かんだのは、つるりと美しい完璧なオムレツだった。それから、パンの焼けたのと紅茶の匂い、キッチンに立つ五条さん、その蕩けるように優しい眼差し。
うちに帰って、一緒に作って食べたい。五条さんのご飯がいちばん美味しいから。
それを五条さんにこっそり耳打ちすると、またぎゅぅっと抱き締められた。

「可愛い…可愛いねミズキちゃん、僕の恋人」

何だか上手く信じられない。五条さんと私の間柄に恋人という名前の付くことが。
だけど私はもう、五条さんの運命の人を想像して失恋の準備をする必要はないらしい。
五条さんの肩越しに、もう随分離れたさっきのおじさまと目が合った。振られた手に小さく手を振りかえした。

五条さんが私を抱き上げたままざくざくと砂浜を歩き始めて、私は心地よく揺られながら空を見た。水で溶いた白い絵の具みたいな月が浮かんでいた。昨晩五条さんが綺麗と言った月だ。

「五条さん」
「うん?」
「あのね、…月が、綺麗ね」

言った、言ってしまった。
五条さんの足が止まった。一瞬、私の見てる方向を振り返って『月が見えたの?』って言ってくれないかと思ったけど、それは起こらなかった。
五条さんは私を片腕に座らせるようにして向かい合って、それから一瞬、ごく柔らかく、私にキスをした。
私はこれが初めてのキスで、そのことを伝えると五条さんはとても喜んで猫のように機嫌良く目を細めた。

「これから僕が何もかも教えてあげる」

それから、「愛してるよ」と、付け加えた。



夕方になって五条さんとソファにいると、玄関の呼び鈴が鳴った。
私はその日の朝にキスをしたのが初めてだったというのに、帰宅してから唇が離れている時間の方が短いかもというくらいキスばかりしてすっかり腰砕けになってしまっていて、五条さんは色っぽく笑ってから私の髪をひと撫でして玄関へ行った。
戻ってきた五条さんの手には新聞があった。

「会社の部下が夕刊を届けてくれたんだ。ミズキちゃん起きられる?紅茶でも淹れるよ」
「はぁい…」

五条さんは新聞を私の前に置いて、キッチンへ入っていった。
ふと気になってそれを広げてみると、何と一面に大きく五条さんと私がキスをしている写真が載っていた。今朝の、あの砂浜の。
見出しには大きく『六眼製薬五条社長ついに熱愛発覚』とあった。ぽやぽやしていた頭が覚醒した。

「ごっ五条さん?!これ!」
「んー?あぁ、写真撮られちゃったかぁ。うっかり」

五条さんはこれっぽっちも動揺していない。何となく確信犯のにおいがする。
私は事態が飲み込めないまま新聞記事に目を戻した。私は斜め後ろからの姿が写っているだけだから顔は分からない。
記事を読んでみると、今までに有名な女優さんやモデルの人たちが五条さんを口説いて見向きもされなかったことや、この報道で街の女性たちから悲鳴が上がっていると書かれていた。砂浜のおじさまの、『国中の女が泣くぞ』という声を思い出した。あとは、歌姫さんの『五条だけは辞めておきなさい』という忠告も。

だけどもう私は五条さんのことが大好きで、さっきまでの頭が蕩けてしまいそうなキスをまたしてほしくて、私の前にティーカップを置いた五条さんの唇をじぃっと見てしまう。
五条さんは私の隣に腰を下ろすと新聞を手に取った。

「ミズキちゃん、僕が新聞を読む間に紅茶を飲んでおいてね」
「? はい、いただきます」
「読み終わったらキスの続きだから」

風通しのいい窓辺に寝転んでいたチタンが、『やれやれ』という感じで外に出ていった。
チタンくん待って、もしかして私は初心者には難易度の高すぎる人を好きになってしまったのかな?

どうにも落ち着かなくて、五条さんが新聞を読み終わるのをちらちら盗み見てしまう。
ふと自分の手のひらを見た。他の人の手なら運気だとか大きな出来事のタイミングがすぐに読み取れるのに、自分のこととなるとまるで分からない。私は五条さんの運命の人じゃないかもしれない。五条さんの占い結果だって間違いじゃないとは言い切れない。
それでも、何年とか何十年とか後になって五条さんとふたりで指を絡ませながら『間違いじゃなかったね』って言えるような、そんな恋の始まりに立っているのなら、いいな。

五条さんが新聞を置いた。
月が綺麗な夜は続いていく。

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