空白の形(後)


※格好いい五条さんは不在
※夏油さんが離反せず高専に在籍




足の置き場が分からないような、あのよく分からないミズキとの会話の後で緊急の出張が入って、そのまま3泊した。こういうことが多いから高専には着替えをいくらか置いてあるし、足りないものは買う。だから自宅に帰らなくても困ることはない。

…あれ、でもそれなら何で、マンションなんか買ったんだっけ。

出張を終えて帰ってきた高専で、自分のデスクに仕舞ってたマンションのカードキーを手に取って裏返したり角度を変えて反射を見たり、ぼんやり眺めていた。
よく知ってる自分の持ち物のはずなのに、他人のものを待たされてるようなチグハグな感覚がする。

僕は一人暮らしだ。家に帰ってまで他人がいる生活なんて僕に耐えられるわけない。
ただ自宅の様子を思い浮かべた時、キッチンに立つ自分がどうしてあんなに上機嫌だったのか、ベッドに寝転ぶ自分がどうしてあんな満ち足りた思いでいたのか、どうやっても説明がつかない。
何が起こったら自分が『ああ』なるのか自分で分からない。

カードキーを懐に仕舞って、さらに抽斗の中に発見したモノに思わず手が止まった。

…鍵、車の。

イヤこれこそ要らないでしょ。トんでどこでも行けるし、遠地の任務なら公共交通機関使うし。
家ならまぁ拠点と物置を兼ねて、あってもいい。でも車は完全にお荷物だし届出だとかメンテナンスだとか、気まぐれで買うには面倒が多すぎる。
でも残念ながら、買ったのは確かに僕だ。それは覚えてる。しかも買った時の自分がこれまた上機嫌だったことも。
え、なに僕コワッ。感情の辻褄合ってないんだけど。

この車でどこに行ったっけ。頭の中を手探りしてみると、モヤの中に突っ込んだ手が朧気な記憶を掴んだ。
海辺のカフェ。
隣県の水族館。
郊外のレストラン。
………女じゃんゼッタイ。ひとりで行くわけないラインナップじゃん。

え、僕彼女いた?人間嫌いのこの僕が?彼女がいたから自宅であんな上機嫌になってたって?車買ってあちこち連れてったってこと?

となると硝子の言ってた記憶喪失ってのがマジで、僕はわざわざ車買ってデートに連れ出すほど大事にしてた恋人を忘れたってことになる。
これだけセルフ外堀埋め立て済みな状況に立ってもまだ、自分事って感じがしない。
だって繰り返すけど僕は人間が嫌い、

「…は、」

車のキーが手から滑り落ちた。
突然、水風船を針で突いたような感覚がしてその瞬間全部全部全部戻ってきた。
ミズキ、ミズキ、ミズキ、全部、笑って、柔らかい手、僕を撫でる、笑って、甘い匂い、告白は僕からした、優しい声、ミズキ、同じ布団にくるまるのが何より好きだった、ミズキ、笑って、「悟」って、僕のことが大好きって目をしてくれる、ミズキ!ミズキ!!
席を立った。
目が眩んだ。まだ弾けた記憶が元の場所に落ち着いてない感じで頭が荒れてる、目が回る。でも探さなきゃ、会って謝る…そうだ、数日前に、僕は何を言った?

ーーー怪我もないなら帰れば?硝子も暇じゃないんだよ
ーーー妙な期待せずにさっさと行きなよ、長く見てると吐き気がしそう
ーーー傑にもモーションかけてる感じ?絵に描いたような尻軽でウケんだけど

「ッお゛ぇ゛…ッ!」

胃が引っくり返ったような気分がして胃液が喉を焼いた。足がもつれそうになりながら口を手で覆って職員室を出た。三半規管までバグった?喉の奥が刺すように痛むけど無理矢理胃液を下ろした。
数日前の自分を呪力も使わず殴り殺したい。出来るだけ惨い殺し方がいい。ミズキが同情して『もういい』って言うぐらいじゃなきゃ駄目だ。
走って走って医務室に転がり込むと硝子がいて僕を見るなり「ミズキならいないぞ」と言った。

「どこ、ミズキ」
「今日は休ませてる」
「どこか悪いの」
「傷心だろうな少なくとも」
「だから!謝りたいんだよ!!」
「少し落ち着け。そんな荒れたまま会っても迷惑だ」
「冷静だろ!!」

冷静、どこが。自分で笑える。そんなことを考えてる頭の一画はむしろ本当に冷静なのかも知れないけど。
忙しなく視線を巡らせてミズキの残穢を求めてると、部屋の奥でドアノブが動いた。「悟」、おずおずと顔を出したミズキが記憶と同じ声で僕を呼んでくれた。
でも目の中に怯えがある。当然だ、僕が数日前、この愛しい目に向かって『吐き気がしそう』なんて言い捨てたんだから。今や吐き気の対象は僕自身だ。
硝子が「隠れときなって言ったろ」と零した。当然だろう、僕が硝子の立場でも匿う。
でも堪え切れずにふらふら近寄ってミズキの足元に膝をついた。

「ミズキ、ミズキごめん、忘れてごめん、酷いことも言った」
「悟…」
「殴って、刺してもいいよ無限解いてるから。気が済むまで何してもいい、だから終わったら僕のことまた傍に置いてくれる?」
「悟」
「お願い、ミズキがいないと僕駄目なんだよ、こんなに大事なのに何で、」

言葉の途中で僕の頭は柔らかいミズキの身体に包まれて、吸気が全部ミズキの匂い、落ちるぐらい安心する、泣きそうだ。
ミズキの手が僕の頭を撫でてくれた。

「特殊な呪具と呪詛師のせいらしいから仕方ないよ。思い出してくれてありがとう」

優しいミズキ、僕のミズキ。僕を人間にしてくれた。涙がミズキの服を濡らした。数分前までの僕ーーーつまりミズキと会う前の僕ってことになる、なら、ちゃんと涙腺が備わってるかも怪しい。

その時医務室の戸が開く音がした。

「五条さんスマホのデータ復旧が終わ、ヒッ」
「………伊地知ィ…」

ミズキの胸元から横目で睨むと、伊地知が分かり易く縮み上がった。
頭上から優しい声が「こら」って言って、ちっとも痛くない力加減で頭がぺしぺし叩かれた。

「伊地知くんを怒らないの。スマホ取ってきて」
「…ヤダ、離れたくない」
「このままじゃ不便でしょ?私ちゃんと待ってるから」
「………ウン」
「五条お前記憶が戻ったついでに5歳くらいに戻ったのか?」

うるさいよ硝子。

「2秒も黙ってられない状況だったろ」

本当にね。



スマホを受け取りに行く車中で、伊地知のスマホを借りて傑に連絡して事の経緯を聞いた。
対象者に直接危害を加えないことを条件に呪力を完璧に隠す呪具というのがあるらしい。記憶操作の術式を持つ呪詛師がそれを手に入れて、嘘の特級案件を餌に僕を誘き出した。
思えば、スマホを手から滑らせたあの時が、術式発動の瞬間だったんだろう。

「その呪具は?」
「回収して持ってるよ」
「僕が壊す」
「だろうと思って上には壊れたって報告したところ」
「さすが傑、分かってんね」

ルームミラーの伊地知が『何も聞いてません』って感じで目を泳がせた。
任務帰りの傑と落ち合う場所を決めて通話を切って、伊地知にスマホを差し出した。

「伊地知」
「ハッハイッ!」
「今回はごめんね」
「……………ェッ」

危なっ。ハンドルしっかり持ちなよ、僕は平気だけどお前死ぬよ。


データはちゃんと欠けなく、蜘蛛の巣状態だったディスプレイも綺麗になって戻ってきた。
記憶を失くしてなかったら、ミズキの写真とかメッセージとか大事なものがたくさん詰まったスマホが破損した時点で発狂してたかも知れない。あるいは、スマホは壊れずに記憶を失くしてたら、大量の写真とメッセージを『キモッ』とか言って消去してたんじゃないだろうか。それこそ今発狂するわ。

傑と合流して憎き呪具を完全に執拗に完膚なきまでに破壊して、一緒に伊地知の車に乗り込んだ。

ミズキに電話を掛けた。

「ミズキ、うん、今から帰んね。待たせてごめん。お菓子買ったから一緒に食べてくれる?うん、うん、ありがと。傑にはちゃんとお礼言ったよ、今合流して一緒に帰ってんの。
あ、ねぇ僕イイコト考えたよ。次に僕がミズキのこと忘れたり悲しませるようなこと言ったら僕が死ぬ縛りってどう?えー何で?ミズキにペナルティ無いよ?いいじゃんその方が僕安心…えぇー…分かったよ、うん、とりあえず帰るから。
今日仕事終わったらさ、一緒にご飯作って食べてくれる?お風呂もいい?セッ…あ、うん分かったよ伊地知と傑の前だもんね、言わないよ。でも、イイ?一生分気持ちよくさせ…あ、ハイ黙りまーす。
ねぇミズキ、愛してるよ。僕を待っててくれてありがとう。うん、すぐ帰るよ」

電話を切ったら、傑と伊地知は完全に無の表情になっていた。でもどこか『あーそうそうコレ』みたいな感じ、うん、僕もそうだよ。

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