サイレント・セル


※夏油さんと硝子さんが側近として幼少期から五条家に住んで高専にも一緒に通ってるし夏油さんは当然離反しない



私に婚約者が出来たのは14歳のときで、相手の男性は17歳ときたものだから、本当に2000年代の話かと疑いたくもなる。とはいえ、そもそも呪術界がおしなべて前時代的なのだし、その中でも最も濃度の高い御三家の嫡男が相手となれば、私でも幼いなりに仕方のないことだと受け入れた。五条家の分家も分家、末端の家の私が何故というのは、上層部という名前のブラックボックスから出てきた思し召しなので分かるはずもない。
受け入れるや否や花嫁修行という名目で私は親元を離れ、恐れ多くも五条家の邸に住まわせていただく運びと相成りました、と。
下手をすると遭難する広さ(本当に)の邸から、私たっての希望でそれまでと同じ学校には通わせてもらっているけれど、スモークガラスの黒い送迎車が付いた。思わず「ヤ、ヤクザ…」と呟いた私は悪くない。

さて私の婚約の相手は悟さまと仰って、六眼と無下限の術式をその身に備えた呪術界の至宝である。神様のえこひいきとしか思われない美しいお顔立ちだけれど、その分、ひっくり返るほど口が悪くていらっしゃる。
私はそのお美しい婚約者から、思い付く限りの、月並みなものからちょっと後でググるような難解なものまで、ありとあらゆる罵倒を受けてきた。
それについても、仕方のない部分がある。悟さまにとっても不本意な婚約だろうし、『何でこの歳で親の決めた相手と婚約なんてしなきゃならない』を豊富な語彙で表現した結果だろう。私じゃなくブラックボックスに仰ってください、とは家柄のパワーバランス的に禁句。

唯一いや唯ニの救いは、硝子さんと夏油さんの存在だった。ふたりは幼い頃から悟さまの側近として邸に住んでいて、一緒に高専にも通っている。私にすごく優しい。すごくすごく優しい。

「ミズキ今日は何言われたの」
「えーっと、今日は比較的マイルドでしたね。ブスとノロマ」
「そろそろ殺す?」
「硝子さん、相手、次期当主」
「硝子、反転術式ってどこまで治せる?」
「夏油さん治せたら結果オーライみたいなのやめましょ」

悟さまが教育係の人に連行されて帝王学のカンヅメに遭っている間に硝子さん・夏油さんと食べるおやつが、私の癒しだ。
長い縁側に並んで座ってふたりに挟まれていると、代え難い安心感がある。あんみつの器を置いて夏油さんが申し訳なさそうに眉尻を下げた。

「ミズキちゃん、悟が許されないことを毎日言ってるのに助けてあげられなくてごめんね」
「夏油さんが悪いんじゃないもん。こうして一緒におやつ食べてもらえるだけでーーー」

言い終える前に、気配もなく背後から現れた大きな手が私の手からあんみつを奪っていった。
「悟」と夏油さんの咎める声色。

「こんなんばっか食ってるとブスにブタが上乗せになるぜ」

私を冷たく見下ろした後夏油さんにまで鋭い視線を向けるから、さっきまでの穏やかな心は瞬く間に冷えて私は立ち上がって夏油さんを背後に隠した。

「悟さま、夏油さんと硝子さんをお誘いしたのは私です。ブスもブタもご尤もですから、おやめになってください」
「傑に色目使ってんのかよガキが」
「悟いい加減にしろ」
「ア?やんのか傑」

こうなってしまうと夏油さんも案外短気で、ふたりともコメカミに青筋を立てて庭に出て行ってしまわれた。おふたりの喧嘩が派手なのは毎回のことなので、硝子さんは私の手を引いて安全な室内に退避してくれた。

「ミズキは可愛いし、もっと体脂肪あってもいいくらいだよ」
「ありがとう硝子さん、大好き」
「私も。部屋に戻る?」
「うん、また一緒におやつ食べてね」
「当然」

ニッと笑った硝子さんに頭を撫でてもらってから、自分に与えられた部屋に戻った。泣かずにやり過ごせたはずだ。

婚約破棄なんて、家柄のパワーバランス的にこれも禁句だ。出戻ったとしても私は勘当されるし親も地獄を見る。耐えるしかないのだ。
幸いというか、悟さまは私に手を上げることはないから、いっそのこと何も聞こえなければいいのに。
そう思いながら、夕飯は断って隠れるようにお風呂を済ませて寝た。

翌日はとても静かな朝がきた。不思議なくらいに静かで、音を立てるのが憚られるほど。身支度を整えて自室を出て廊下を歩いていると、背後から突然腕を掴まれた。驚いて振り返ると悟さまで、怒った表情で口を動かしているけど声は発していない。ちがう、これはもしかして、

自分の耳を何度か叩いてみても、何も聞こえなかった。
いつの間にか視界に硝子さんがいて、私の手を掴んだ。落ち着かせるように腕をゆっくり下ろされて、硝子さんがスマホを少し触ってから私に画面を向けた。

『鼓膜が傷むから叩いちゃダメ』

何度か頷いた。

『全く何も聞こえない?』

また頷いた。
硝子さんと悟さまが何かお話をして、その内に硝子さんが私に向き直ってまた画面を向けてくれた。

『詳しく検査したいからついてきて』

検査結果を硝子さんは紙に書いてくれて、なんでも身体的には問題が見当たらないから心理的な難聴という見立てになるのだそうだ。
意外なことに、取り乱したのは悟さまだった。
硝子さんの腕を掴んで何か捲し立てている。だけど、硝子さんに腕を叩かれて終わった。

私はというと、早朝の図書館みたいに音のない世界が不思議で、ぼんやりと悟さまと硝子さんのやりとりを眺めていた。
本当に何も聞こえない。硝子さんの優しい声が聞こえないのは残念だけど、悟さまの罵詈雑言もない。「さとるさま」と口で呟いてみたけど、自分の声すら聞こえなくてちゃんと発音出来たのか確かめられなかった。
悟さまが私を見て、ひどく動揺していらっしゃる。また何か罵られるかもしれないけれど、聞こえなければこのお美しい顔を眺めていればいいだけのこと。そう思うと膝から崩れ落ちそうな安堵を感じて、私は思えば久方ぶりに、悟さまに向かって笑った。

音のない生活というのはどんなに不便だろうかと思っていたけれど、差し当たり休学して外に出ることも家事に追われることもない身であれば、意外にも至って快適だった。事情を知った夏油さんも、筆談やスマホ入力での会話に快く協力してくれたし、使用人の方と私の通訳を買って出てくれたりもした。
誰も私を傷付けない安心感を、婚約以来久々に満喫した。
悟さまは罵詈雑言を受け取れなくなった私に興味を失ったのだろう、構わなくなった。数日それが続くと、意外にも以前は結構マメに私に話し掛けてくださっていたのだと分かったのだ。(言われて嬉しい内容だったかどうかは別として)

耳が一切聞こえないとなると、自分で発声しても声が出ているのかすら分からないから、次第に喋るのもやめてしまった。

深海のような静かな生活、2日目くらいまでは快適と思っていたけれど、やはりというか、次第に寂しく感じるようになってきていた。例えば音楽が無いこと。自室でイヤホンを耳に捩じ込んで音楽を聴くことや、周囲に漏れないようにそっと小さく歌うことは私に許された数少ない楽しみだった。今は、歌ったところで音程を確かめられないし、イヤホンからは振動しか感じない。
寂しい。
寂しい。
寂しい。
耳が聞こえなくなってから、1週間目の日だった。
無駄を承知でイヤホンを着け、一番好きな曲をスマホから流した。不思議なもので振動から何となく曲の拍子が取れ、記憶が補完して音楽が聴こえるような気さえした。イヤホンを耳に押し当ててより振動を求めると、より鮮明に聴こえる気がした。何度も何度もリピートしているとある時気付く、これは聴こえている。唐突に戻ったのだった。

呆然としている内に部屋の隅のライトがチカチカと明滅した。これは硝子さんと夏油さんが設置してくれたもので、ノックが聞こえない私のために戸の外のスイッチを押すと明滅する仕組みになっている。この時2回手を叩くと『少し待って』、3回で『今は駄目』と決まっている。
手を叩かないままでいると遠慮な様子で襖が開き、顔を出したのは何と悟さまだった。

「ミズキ…耳、変わりねぇの」

悟さまがご自身の耳をとんとんと指で示して尋ねるので咄嗟に無言で首を振って、待ってこれじゃあどっちの意味に伝わる?いや正直に今急に戻りましたって言う?と混乱しつつ、しばらく喋るのさえ辞めていた口はすぐには動かない。
悟さまは「そっか」と仰って私の前に胡座をかいて座った。

「聞こえねぇだろうけど…懺悔しに来た。今まで本当ごめん、マジで最低だった自覚ある。ミズキは親同士が決めた婚約だと思ってるだろうけど、無理言って俺が通した。覚えてねぇだろうけど総会で1年前に俺ら会ってんだぜ…そこで一目惚れして、ゴネまくってミズキに来てもらった。のに、いざ本人目の前にするとクソみてぇな言葉しか出てこねぇし、好きなんて死んでも言える気がしねぇし…聞いてもらえなくなった途端にスルッと言えるんだからザマァねぇよな。
時間掛かってもいいから、何年でも待つから、戻ってきてくれよ。呪術師の縛りを結んでもいい、お前が許可してくれるまで指一本触らねぇ、だから、ミズキ」

今までの悟さまとのあまりの落差に私は混乱した。これも嘘だろうかと思ったり、でも聞こえない前提で吐く嘘なんて無意味だとも分かっていて、それならこれは悟さまの本心だということになる。
考えている内に顔がかぁっと熱くなってきて、その反応を見た悟さまが目を丸くした。

「…まさか、聞こえてんのか、ミズキ」
「…い、いまっ、イヤホンが急に…えっと、」
「なんだ、よかった」

そう言って悟さまは、心底嬉しそうに、無邪気に、笑った。
私に向かって伸びてきた大きな手に一瞬たじろいでいると、いつの間にか入ってきた硝子さんが「縛りを即行で破る奴があるか」と悟さまの頭を叩いた。

「しょ、こさん…私、いま、」
「うん、戻って良かった、おかえりミズキ」

にっこり綺麗に笑った硝子さんが抱き締めてくれて、私はその肩口でボロボロ泣いたのだった。
硝子さんは私の頭をずっと撫でて、嗚咽が治まってきたタイミングで顔を見てハンカチを目元に当ててくれた。

「じゃあとりあえずミズキ、あんみつ食べよ」
「たべる…」
「…俺も一緒にいいか」

硝子さん越しにそっと投げかけられた悟さまの声に、私が人見知りの子どもみたいに緊張していると、硝子さんが背中を撫でながら「ミズキが決めていいよ」と微笑んでくれた。
小さく頷くと「じゃあ夏油呼んでこい」と硝子さんが言って、悟さまがバタバタと出ていった。

「ったくあんなのパシるくらいで丁度いいんだよ」

硝子さん、相手、次期当主。

その後初めて4人で縁側に並んであんみつを食べた。悟さま、夏油さん、私、硝子さんの並び方に、悟さまが「いや席順」と不満を訴えたけれど、「文句言えると思ってんのかクズ」と硝子さんに睨まれると静かになった。失礼ながら笑ってしまった。

その後悟さまは本当に人が変わったように私に優しくなって、会うたびに可愛いだとか好きだとか退屈してないかとか、色々言って気にかけてくれるようになった。それに呪術師の縛りも継続しているようで、本当に指一本触れないで、ほんのり距離を保って接してくれた。
色んなところへ私を連れ出してもくれるようになった。私の聴覚が戻ってから1年後のこと、夏祭りの人混みの中で初めて私から手を握ったときの、悟さまの顔といったら。本当に、その顔といったら。

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