空白の形(前)


※格好いい五条さんは不在
※夏油さんが離反せず高専にいる



珍しいな、とどこか他人事みたいに思った。
任務に赴いたものの空振りで、無駄足踏ませやがってと内心悪態を吐きながら伊地知に連絡しようとスマホを出した拍子に手から滑り、岩だらけの足元に落ちて致命的な音がした。取り上げてみると案の定、全面蜘蛛の巣状態で画面は真っ暗なままちっとも反応してくれない。完全に死んだ。

「面倒くさ…」

ツイてない。
帳を上げて伊地知の待機地点まで徒歩を余儀なくされた。
伊地知は徒歩で現れた僕を見てギョッとした。空振り、帰る、携帯ショップ寄って、とだけ伝えて車の後部座席に滑り込むと、慌てた伊地知も運転席に乗り込んだ。

「ったくさぁツイてないよね、スマホ落としちゃってご臨終だよ」
「えっ、それじゃあ私のをお貸ししましょうか?」
「今はいーよ、別にどうしてもの用事があるんじゃないし」
「え…っ『今から帰る』と連絡されないんですか…?」
「誰にすんだよ、別に無いから早く車出してくんない」

ルームミラーに映った伊地知の目元が『何言ってんだコイツ』みたいな顔をしていた。何言ってんだはコッチの台詞だよね。
立ち寄った携帯ショップでデータ復旧まで約1週間と言われた。本気でツイてない。

「あの、五条さん…失礼ですが、本当に連絡しなくていいんですか?」
「しつこいな、いいって言ってんだろ」

本気で何。
さすがに僕が苛ついたのを察して伊地知は以後黙った。



物心ついた頃から人間が嫌いだった。
僕に近付く奴はほぼ例外なく武力・権力・金のいずれかあるいは全部を目当てにしていたから。一目で分かる、僕から何か利益を毟り取ってやろうという薄汚い欲。吐き気がする。
信用出来るのは片手で足りる人数だけだ。
僕は独りが性に合ってる。

高専に着いた途端、伊地知が僕の背中をぐいぐい押して医務室へ行けと言って聞かない。無傷だって言ってもとにかく行けの一点張りで、とうとう抵抗も面倒になって医務室を訪ねた。
医務室の戸を開けると中にいたのは硝子じゃなく、知らない女だった。女が僕を見て目を丸くすると一歩近寄ってきたから、すぐに手のひらを向けて制止した。

「硝子いる?」
「あ…はい、奥の部屋で書き物を」
「そ」

女の仕草、表情、視線の動き、すぐに分かる、コイツ僕に気がある。残念ながら自惚れじゃないから困ったもんだよね全くさ。現にこの女はチラチラ僕のことを気にして、怪我もしてないのに医務室を去ろうとしない。

「あのさ、怪我もないなら帰れば?硝子も暇じゃないんだよ」
「…ぁ、そう、ですね。ごめんなさい」
「君が僕に何を期待しても呪霊祓う以外で応えることは100%無いから。妙な期待せずにさっさと行きなよ、長く見てると吐き気がしそう」
「五条」

見ると、奥のドアが開いて硝子が出てきたところだった。

「や、硝子。相変わらず寝てなさそうな隈だね」
「お前私を隈で認識してんの?…あぁミズキ、嫌な仕事させたね。あとはこっちで引き受けるよ」

まだそこに突っ立っていた女に硝子は珍しく優しい顔を向けて、女は下手くそな笑顔を見せてから医務室を出ていった。泣きそうな顔や涙で責任転嫁するのは女の常套手段、はいはい悪いのは僕ですよー、と。
硝子が忌々しげに溜息を吐いて、「用件の前に電話だけさせろ」とスマホを耳に当てた。

「あぁ伊地知?うん、確だね。完全に陽性だから夏油を動かすように申請しな。私からも口添えしとく」

また新しい案件らしい。傑を動かすとなれば特級だろうし、さっき女への適当な嫌味で言った『硝子も暇じゃない』はまぁ事実ってことだ。
電話を切った硝子が僕に椅子を勧めた。

「伊地知が医務室行けって聞かないんだよね。僕どっか悪そうに見える?」
「性根」
「辛辣ぅ」
「さぁ事実はさておき」
「冗談の間違いでしょ」
「五条、お前記憶喪失してるぞ」
「ハァ?」

ナニソレ?





医務室を出て慣れた廊下を歩きながら、硝子に言われたことをひとつずつ反芻してみた。

僕は記憶喪失している(自覚は無い)
失われた記憶はごく限られた一点に関することのみである(なら問題無くない?)
術式の使用に問題は無い(ほら問題無いじゃん)

記憶喪失とやらの範囲を特定するために硝子はあれこれ僕に質問をして、特定の結果が前述3点というわけだけど、その『ごく限られた一点』ってのが何なのか硝子は教えてくれなかった。「もし記憶を失くしてなかったら今お前、2秒も黙ってられない状況だぞ」と意味深に笑うだけだった。

「一応聞いてみるけど、記憶喪失の原因って呪い?なら僕が気付かないってオカシクない?」
「捜索中、追って知らせる」
「別に無くなったままでも困ってないけどね」
「お前の周りが困るんだよ」

ナニソレ?

とにかく僕は、自覚も支障もないまま記憶喪失しているらしい。
半端な気分だけど、まぁその内に硝子の『追って知らせる』が来るだろうし、来なければ別にそのままでもいい。何せ困ってないから。

職員室の自分の机に帰って気の進まない書類仕事に取り掛かるフリをしてると、事務員がコーヒーの入ったマグカップを机の端に置いた。
適当にお礼を言ってカップを引き寄せた時にふと気付く。カップの傍らに角砂糖の積まれた小皿があって、僕がいつも入れるぐらいの個数だ。
どうして把握されてる?伝えた覚えはない。そもそも何で僕は他人の淹れたコーヒーを当たり前に飲もうとしてる?潔癖ってわけじゃないけど、これぐらい自分でやるだろ?
釈然としなくて飲めないでいる間にコーヒーは冷めて、でもそれを飲まずに捨てるのも憚られて、いつもの個数の角砂糖を放り込んだけど溶け切らなかった。

ざりっと溶け残った砂糖の違和感は僕の中に長く残った。


マグカップを片付けた後学内を歩いてると、遠目に傑の姿を見た。傑の足は正門の方へ向いていて、そういえば医務室で硝子が伊地知に指示を出してたのを思い出した。派遣が迅速なのはそれだけ重要度と緊急度が高いってことだろう。
傑が歩く内に、その向こうにもう1人いるのが見えた。途端に苦々しいものが喉の奥から上がってくる。医務室で見たあの女だった。
傑は階段の手前で立ち止まって女に向き合い、励ますように肩に手を置いた。外面のいいアイツがいつも女に向ける作り物の笑顔じゃなく、心から心配してるかのような、相手の機微を掬い取ろうとしてるのが見て取れた。
軽く手を振って傑は女を残して出て行った。

吐き気がする。
あの女、僕に気がある風だったじゃないか。脈無しで即鞍替え?そんなビッチに気を遣う傑も傑だ。人を見る目はある方だろ、特にクズを見分ける目は。むかつくむかつくむかつくむかつくむかつく!

「君さ」

自分でも低くて威圧的な声だと思ったし腕の掴み方が強すぎたとも思った。
けどその事態に二番目に驚いてたのは僕で、僕は女の腕を掴んでしまってから『アレ、何で僕こんなイラついてんの?』ってはたと我に返ったんだ。
勿論、一番驚いたのは腕を掴まれた女だろう。小さく悲鳴が上がったから。

「傑にもモーションかけてる感じ?絵に描いたような尻軽でウケんだけど」

女は、何というか、形容し難い複雑そうな表情で僕の目をじぃっと見た後、口を固く引き結んで目を逸らした。それが余計に腹立たしかった。

「…今は、お話しすべきじゃないと思います」
「理由は?」
「傷付いてほしくないから」
「誰が、何で」
「いずれ」

女の手が、棒切れみたいに細い腕を掴んだ僕の手に触れた。
僕は何故かその小さな手に抗えず腕を解放して、女…硝子はミズキって呼んでたな…は、小さく頭を下げて走り去った。
触れた手の感触は、さっきの溶け残った砂糖みたいに僕の中に長く残った。

ひとり残されたその場で、ミズキの触れた自分の手をぼんやり眺めた。
そこで気付いた。さっきのコーヒーに感じた違和感の正体。
マグカップの残穢とそれを持ってきた事務員の呪力が合ってなかったんだ。
そしてマグカップの方は、今僕の手にあるミズキの残穢と同じ色をしていた。

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