青い雨の後A
ミズキさんのことを押し倒した。
それはガキの頃からずっと見たかった光景だったはずなのに、驚くほど胸糞悪かった。泣かせてしまった。
ミズキさんの中できっと俺の印象はガキの頃から変わっていなくて、手料理が食べたいと言えば何も言わずに俺の好物を作ってくれるしコーヒーを淹れただけで褒められる。尤も、それを利用して一番近い立ち位置を確保してきた自覚はあるが。
18になったら告白すると決めていた。ガキだからって理由が消滅するのを待って、本気を示すために結婚だって出来る年齢になって。それなのに、ミズキさんの部屋に厚かましい顔で上がり込んだ写真の男、部外者がフザケやがって、ミズキさんの脚を『それでもいい』なんて何様のつもりだ。目の前にいたら殴ってた。
頭に血が昇って、それまで散々我慢して無害なふりをしてきたのに、気付いたらミズキさんを押し倒していた。ベッドに押し付けた肩は細くて薄い。こんなに小さかったかと驚くほど。
今の俺が本気で押さえ付ければ、本当に、犯すことだって出来てしまう。絶対に選ばないドアを横目に見て生唾を飲んだ。
「俺は、脚のことを『それでもいい』なんて言うクソ野郎にアンタを渡す気なんかない!ふざけんな!」
好き放題に怒鳴り散らした。口が止まらなかった。俺がずっとミズキさんを好きだったこともそれが性欲を伴ってることもミズキさんが五条先生を好きなのも。全部全部吐き出した。
悪手極まりない。
ガキの頃からの『素直な良い子』を捨てて、それでもミズキさんにとって俺はまだガキ、あまつさえ押し倒したせいで無害な男ですらなくなった。
それでも、今日をやり直したらやっぱり俺はミズキさんに手を出すだろう。吐き気のする悪手、それでもそうせざるを得なかった。
ミズキさんの部屋を出て寮へ戻る道すがら、持ち出してきた見合い写真と、挟んであった釣書を見る。顔と内容を覚えて焼却炉に放り込んだ。
消えろ、クソ野郎。
「恵ィ、ミズキに何やらかしたの?」
ミズキさんとの一件から数日後、五条先生は俺を見るなりニヤついて言った。急に何だと言い返しはしたけど、五条先生が材料もなしに俺を煽ってくることは………まぁ、あるけど、今は違う。
「だってこの数日で何回伊地知と案件スイッチしてんのって。交換になった件を確認したらミズキが恵の送迎するのばっか、ミズキのこと大好きな恵ちゃんが交換申請するわけないでしょ」
その通り、ミズキさんに避けられている。俺のやったことを考えれば当然だけど、五条先生に言われるのは癪に障った。何より腹が立つのは、俺が大それた行動は起こせないだろうと高を括って胡座をかいてることだ。
本当は気になって仕方ないくせに。
「…押し倒してキスしました」
途端、五条先生が一瞬無表情になって俺を見た。真偽を確かめる目、五条先生を誤魔化せる自信は無かったけど押し通すしかない。
「…小さい頃から面倒見てくれたお姉さんに手出しするのは感心しないね」
口元だけで笑おうとしたような違和感のある顔、俺の嘘が通ったのかは分からない。それでも、五条先生を多少なり動揺させたことは間違いないらしかった。
「ちゃんと謝りますよ、ミズキさんには」
まぁ目下ミズキさんに避けられてる俺には謝るチャンスもないが。それでもこの件で、五条先生に謝ることはしない。
五条先生が何を考えて俺や津美紀とミズキさんを引き合わせたのかは、直接聞いたことがない。実際本当に有難かったってのはあるけど、そこまで考えての行動だったかと思うとどうも馴染まない。
結論、ミズキさんを高専に繋ぎ止めるための手段だったんじゃないかと俺は内心で思っている。
つまり五条先生も大概拗らせてるってことだ。
夜、部屋に戻ってメッセージアプリを開いた。
ミズキさんに謝罪の言葉を送ってしばらく画面を見張っても既読も付かない、これが最近の情けない日課。今日も諦めてスマホを放り出した。
ところが手放したばかりのスマホから受信音が鳴って、慌てて画面を見てミズキさんのアイコンに心臓が大きく波打った。
(謝らなくていいよ)
この一言だけ。真意はわからない。
俺の謝罪なんてクソの役にも立たないから『謝らなくていい』のか、怒ってないから『謝らなくていい』のか、あるいは他の意図があるのか。
とにかく俺は今この時頼りなく繋がったミズキさんとの連絡手段に縋るしかなかった。
(ごめんなさい)
(でも好きなのは本当です)
(ミズキさんが好きです)
(ガキの頃からずっと)
また既読が付かなくなった。
これ以上はさすがに迷惑(…既に、かもしれないが)だろうとまたスマホを放り出した。
窓を開けてベランダに出て、直接は見えない職員寮の方向を見る。今まで、世話をしてもらってた頃だって、毎日会ってたわけじゃない。それでも意図的に避けられたこの数日は酷く堪えた。
『恵くん』
ミズキさんの声が耳の中に聞こえたような気がした。
居ても立ってもいられなくなって部屋を飛び出して、そのままミズキさんの部屋まで走った。窓に明かりがある。階段を駆け上がって、何となくインターホンは鳴らさずドアをノックした。返事は無い。
「ミズキさん、ごめんなさい」
閉まったままのドアの前で情けなく項垂れた。
ミズキさんに聞こえてるかどうかも分からない。
「悪いことをした自覚はあります。諦める以外なら何でもする」
字面だけは謝罪だが、ミズキさんにとっては迷惑な、俺の自己満足でしかない。沈黙したままのドア前でしばらく突っ立っていて、それから頭を下げて、来た道を戻った。
建物を出て歩いてると遠く後ろでカラカラと窓の開く音がした。振り返って見ると逆光の中に細い影が1人分立っていて、表情は見えない、曖昧に手を上げた。
「おやすみ」
俺も「おやすみなさい」と返した。
心臓がふわふわする。後ろ暗い思いと浮つく感情が混ざって落ち着かない。
多分、ミズキさんは俺を許そうとしている。あの人は根っからの善人だから。そして俺は、その許しを搾取しようとしている。
昔のことを思い出した。
ミズキさんがアパートに泊まった夜、俺と津美紀に布団を掛けて、頭を撫でて、隣に寝転んだ。
「おやすみ」、さっきと同じ優しい声。
俺はその頃にはもうミズキさんが好きで、どうしても触れたくて、ミズキさんが寝入るのを待って頬に触れた。柔らかくて温かかった。その時の手の感触を、今でもありありと思い出せる。
ミズキさんは優しい善人だ。
俺は昔も今もあの人に触れたくて、ずっと手を伸ばしている。
***
宵闇さなぎで似たようなシーンを書いたかもしれません。(職員寮の窓から手を振るみたいなの)
でも伏黒くん似合うんだよなぁこういうの。