青い雨の後@
私が恵くんに初めて会った時彼は小学生で、ランドセルと背中の広さがあまり違わないような小柄な子だった。乳歯もいくつか残っていたはずだ。
きりりとした目は深く青く、とても利発そうな子というのが第一印象。
ただ、利発そうなその目は大人への不信感を含んでいて、悲しく思ったことを覚えている。
五条さんが何故私を恵くんと津美紀ちゃんに引き合わせてくれたのかは、直接聞いたことがない。
実際問題として数年の内に初潮を迎える年頃だった津美紀ちゃんのサポートが出来て良かったという思いはあるけれど、それは結果論。
とにかく私は幼い姉弟のお世話をさせてもらって心を癒され、親子と言うには足りないにしても親密な関係を築けたと思っている。
恵くんは利発な色をした目をそのままに、ぐんと背が高くなって呪術師としても実力をつけて、高専に入学した。術師を辞めるか悩み始める前の私よりも、既に高い位置に立っている。
それでも恵くんはランドセルと背中が同じ大きさだった頃と変わらず私に心を開いて、任務送迎の車では助手席に座ってくれるし、職員寮の私の部屋に遊びに来てくれる。
呪霊討伐を終えた恵くんが内側から帳を上げて戻ってきた。
「お疲れさま。怪我は?」
「ないです」
自慢げでもなく淡々と恵くんは言う。
幼い頃から恵くんを鍛えてきたのは他でもない五条さんなのだから、当然2級呪霊では相手にもならない。
「遅くなっちゃったね。ご飯どこかに寄る?」
現在18時50分、これから高専に戻ってご飯を食べようと思うと少し遅い。
恵くんが一瞬、目を逸らして言い淀むような仕草をした。
「…ミズキさんの作ったもの食べたいです」
これを断れる人っているでしょうか?いません少なくとも私の中には。
外食は取りやめ、スーパーを経由して高専に戻った。
高専の職員寮、私の部屋には頻繁に訪れる恵くんの分の食器も置いてあるし、コンロが一口しかない簡易キッチンだけど恵くんは食事の準備を手伝ってくれる。テキパキと生姜焼き定食を拵えて、小さなダイニングを囲んだ。
任務の話、虎杖くんや野薔薇ちゃんの話、最近読んだ本の話、恵くんは口数の多い方ではないけど、尋ねれば丁寧に答えてくれる。
自分が高専に入って以後はもしかしたら実の親よりもたくさん食事を共にしてきたかもしれない。
恵くんは綺麗な箸使いで生姜焼きを平らげ、空っぽになった食器をシンクへ運んだ。
食後にコーヒーを淹れてくれるのが毎回の流れで、やっぱり多少時間が押しても帰ってきて良かった…と、恵くんの後ろ姿を見ながら私もご飯を食べ終えた。
時刻は21時を回った頃。
「コレ、何ですか」
コーヒーも飲み終わって、2人分のマグカップを私が洗っていた時に、恵くんが言った。「んー?」と半端な返事をしながらマグカップを水切り籠に伏せ、手を拭いて振り返ると納得。恵くんは私が棚に放置した薄いアルバムを見ていた。頻繁に訪れる恵くんは部屋に新しいものが増えるとすぐに気が付くのだ。
「お見合い写真だよ」
「ハァ?」
実家の親から送られてきたそれ。写真の人はどちらかと言うと素朴で優しげな顔をしていた。
「見合いするんですか。まだ若いし必要ないでしょ」
「親は心配してるみたい。私、脚がこんなだけどそれでもいいって言ってくれてるらしいよ」
高専在学中に脚を負傷した。硝子さんに治療してもらって日常生活に支障はないものの、術師は続けられないと判断して補助監督になった。右脚の膝上にはその時の傷が薄っすら残っている。
「…それでもいいって、何だ、クソ」
恵くんが、らしくなく悪態を吐いた。
俯く彼を「どうしたの」と覗き込んだ途端にぐるりと視界が回ってベッドの上、恵くんが私に覆い被さっていた。マットレスに私の肩を押し付ける手は大きい。恵くんって、こんなに大きかった?だって少し前まで中学生で、その前は小学生で、ランドセルを背負っていたのに。
「恵く、」
「俺は、脚のことを『それでもいい』なんて言うクソ野郎にアンタを渡す気なんかない!ふざけんな!」
恵くんがこんなに大きな声を出すのなんて初めてで、間近に怒鳴られて恐ろしささえ感じてしまう。だけど相手は恵くんで、言う内容だって考えてみたら私への気遣いなのだ。引き攣らないように気を付けて、笑った。
「心配してくれてるの?ありがとう、ちゃんと冷静に考えるよ」
自分の身の振り方、親や恵くんの心配、相手の優しそうな目が本物であるか。周りに迷惑を掛けないように、冷静に考えていかなきゃいけない。
恵くんが歯痒そうに「違う」と低く唸った。
「俺はミズキさんが好きです。ガキの頃からずっと。アンタが見合いなんかしたら相手に何するか自分で分かんねぇ」
好き。
もちろん私も、恵くんや津美紀ちゃんのことが大好きだけど、それとは違うのだろうか。
そう考えていると恵くんに先手を打たれた。
「アンタのことだから家族愛とか何とか言い訳考えてんでしょうけど、違いますから。俺はミズキさんの服の下が見たいし抱きたいと思ってますよ」
ボッと、顔に火がついたような気がした。
いつから、だろう。あんなに小さくて可愛かった恵くんが。
恵くんが肩から手を退けて、私の頬に触れた。顔が熱くて堪らないと思っていたのに、恵くんの指は私の頬より熱い気がする。
「18になったら告白するつもりだった。それまでミズキさんに男が出来ないようにせっせと害虫駆除してた俺が馬鹿みたいだ」
「恵くん、待…って、18歳って…その時私、いくつだと思ってるの」
「29ですけど何か」
「『何か』じゃなくって…その、」
立派にアラサーだ。呪術師として半端な実力しかなくて、怪我でそれも続けられなくて補助監督に転向して、結婚もしないまま若さも無くした私。
対して、望んだ生き方とは言えないものの呪術師としての実力を備えて、若く、とてもとても美しい恵くん。
不釣り合いも甚だしいし、そもそも私達は親子みたいなものだ。もしくは叔母と甥、あるいは従姉弟同士。
「年齢差、11も違うんだよ?それに私は保護者みたいなもので…」
「俺はアンタのこと保護者だなんて思ったことは一度もない。年齢差なら知ってますよ引き算出来るんで、でそれが何だって話です」
ぴしゃりと壁を立てるように言い切られて私は黙るしかなかった。恵くんから保護者と思われていなかったことは少なからずショックだったし、恵くんが、女の子に向けるような恋焦がれる目で私を見ることに戸惑ってしまう。嘘だって言ってほしい。パッと手を離して『冗談ですよ、本気にしました?』って言って。恵くんがそんな冗談を言うわけがないって、良く知っているはずなのに。
私のみっともない言い逃れみたいな希望に反して、恵くんが「キスしていいですか」と迫った。
顔を逸らした。
恵くんの前髪が私の目尻を擽る距離、呼吸の聞こえる距離で、恵くんのかすかな声が叱るように私を呼んだ。
「だめ、だよ…恵くん退いて」
「嫌です。少なくともアンタが見合い辞めるって約束するまで」
「しない、断るから、退いて」
「じゃ次は俺のこと男として見るまで」
「恵くん」
今度は私が、叱るような声で呼んだ。精一杯の虚勢だった。色々な動揺がまるで治まってくれなくて、自分の感情も正しい対処も何も分からない。
恵くんはまだ退いてくれない。それどころか私のこめかみにそっと額を押し当てて静かに目を閉じた。恵くんの目元を直接見たのではないけど、頬骨の辺りに恵くんの睫毛の下がる感触があった。
「…アンタが、五条先生のこと好きなのは知ってます」
思わず、身体を強張らせてしまった。
どうして、誰にも言ったことは無かったのに。
「…見てりゃ分かる。俺と初めて会った時にはもう好きだったでしょ」
図星だ。あんなに小さな恵くんに見抜かれていたなんて。
声を発しようとすると喉が震えた。
「………い、わないで」
「…」
「お願い、…五条さんには言わないで」
目から涙が出て鼻梁を横切り流れていった。恵くんが至近距離にいるから目を隠すことも出来ずに、情けなくも私は恵くんの下でしくしくと泣いた。
五条さんが好き。
だけど言えない。一生言わないと決めている。人が聞いたら一笑するような高望み。それにこの恋を打ち明ければ、恵くんと津美紀ちゃんのお世話を引き受けた裏に下心があったと宣言するみたいなものだ。不甲斐ない私の宝物、温かい想い出を汚すことになる。
「…言いませんよ」
恵くんが私の上から退いた。急にひゅうと寒いような気がした。
「アンタが嫌がることをしたいわけじゃない」
恵くんはもう大人だ。精神的に、少なくとも私より。
恵くんが私の背中の下に手を差し入れて起こした。
「でもそれならせめて俺の気持ちも、…受け入れるかは別として、受け止めてくれたっていいでしょ」
ベッドの上、恵くんが私を抱き締める。私の涙が恵くんの服に染みる。小さかった恵くんはいつの間にか、男の人になっていた。
私は彼に会った日から、何者にもなっていない。
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ネタポストより
『五条さん伏黒くん夢主の△話(中略)あきらめそこないみたいな円満な感じにはなかなかならずでもなんだかんだで大好きだし大切だし認めてる』
な話をお送りします。
拗らせ男好きな人は集合お願いします。