手探りのよすがに


いつも自分が通る道のすぐ隣に見えない道があるだなんて、考えたこともなかった。

悟くんと付き合うようになって、最初は職業不詳・年齢不詳だなぁと思う程度だったけど、最近になって彼が職業を呪術師だと教えてくれた。いつも飄々としている悟くんが緊張を隠していることは分かるのに、教えてもらってもまだ私は呪術師というものにピンときていない。
悟くんに「霊媒師みたいなもの…?占いとか?」と尋ねてみると、ちょっと違うらしい。

「そういう術式もあるけど、僕は違うかな」
「ジュツシキ…昨日見た医療ドラマにその言葉出てきた」
「えっとね遠ざかった」

分からなさすぎて手探りが不発に終わる。
悟くんが綺麗な長い人差し指をピッと立てた。

「見たことないと分かんないよね。行こうか、職場見学」

ネット上で気になってるソファの現物を家具屋さんに見に行くみたいなノリ。
悟くんはすぐに電話をかけて、「伊地知ィ明日高専に1人見学の子連れてくから」と言うだけ言ってすぐに切ってしまった。

そうして翌日、私は東京都立呪術高等専門学校の敷居を跨いだ。年季の入った石畳や石垣と、たくさんの寺社仏閣が並んでいるのに、『専門学校』らしい。悟くんに手を引かれて歩く間もきょろきょろ周りを見回していたら、「建物はほとんどハリボテだよ」と悟くんが教えてくれた。

「ハリボテなの?こんなにたくさん?」
「結界の入り口を隠すためのダミーなんだよ」

返事は「ふぅん…?」が精一杯。私にとっては呪術も結界もファンタジー用語で、目の前の悟くんが急に知らない人のように思えてしまった。
もしも今、悟くんが繋いだ手をパッと離してしまったら、私はどうなるんだろう。恐ろしくなって、気付かれない程度に手をきゅっと握り直した。


昨日悟くんが電話をしていたイジチさんという人は『見学の子』という言い方から私を入学あるいは編入希望の学生だと思っていたようで、どう見ても成人している私が悟くんと手を繋いでいるのを見て随分驚いていた。入学・編入のための書類を用意してくれていて、悪いことをしてしまった。

「ごめんなさい、お手間を」
「いえ、いえ、こちらこそすみませんでした」
「学生の見学なら学長に言うっつの。伊地知、来客証」

イジチさんから来客証をもらって首に掛ける。

「資料室に入るから。邪魔すんなよ」
「承知しました。そういえばソウマさんは窓の方ですか?」

窓?

「んーん、非術師」

ひじゅつし?

「えっっっ」

………この来客証、受け取って良かったやつ??



悟くんに案内された資料室には、古い紙のにおいが満ちていた。鉄製のラックにひたすら同じバインダーが並んでいて、背表紙には随分古いものから順に、現在に至るまで連綿と続く年月がテプラで貼られている。

「ねぇ悟くん、私本当にここに来て良かったの…?イジチさん焦ってたよ」
「僕が連れてきたんだから気にしなくていーの」

悟くんは一番新しいバインダーを抜き取って適当にぱらぱらとめくって、私に見せてくれた。

「僕が担当した件の報告書。大体そんな感じのことを日々やってると思ってくれたらいいよ」

受け取ったバインダーはずっしりと重く、報告書の内容は私には衝撃的だった。呪霊というお化け、その等級、人的被害、呪術師という仕事。補助監督という欄には伊地知潔高とあった。伊地知さんだ。

「…他のページは見ない方がいい?」
「好きに見ていいよ」

ぱらぱらとめくっていく。出てくるのは悟くんの名前ばかりで、同じ日付の報告書が何枚もあったりした。私と夜に落ち合ってデートをした日付も。

「これって、担当者ごとに分けてあるの?」
「ん?や…等級ごとじゃなかったっけ」

言われて、等級の欄を何件か見る。1級と特級ばかり。素直に考えて等級の高い方が危険なのだろう。『大体そんな感じのことを日々やってる』と、事もなげに悟くんは言う。それこそ、こんな任務の後で私とご飯を食べるくらいに。

「それじゃ次は、ちょっと外に出ようか」

私がひとしきり報告書を読んだところで悟くんがそう切り出して、バインダーをひょいと取って棚に戻した。それから私の手を引いて、悟くんは私を外へ連れ出してくれた。

広い場所に移って、以前言っていた悟くんの術式というのを私に見せてくれるらしい。
私を連れていく悟くんの横顔を盗み見る。その綺麗な青い目は遠いところを見据えている。

「悟」

頭上から声がしたと思った直後、黒い服の男の人が目の前の地面に降り立った。飛んできた鳥が着地したよう。その人は悟くんと同じくらい背が高く、髪も目も服も黒かった。

「総監部から呼び出しだよ。心当たりはあるだろう」

気のせいでなければ一瞬空気がピリついて、気のせいでなければ悟くんは私を背後に隠すように一本前に出た。

「心当たり?無いね」
「ふざけてないで早く行け。まずいことになる」

悟くんの肩が溜息に小さく上下して大きな手が髪を掻き乱した。それから振り返って、少し芝居がかったような困り顔で私を覗き込む。

「ミズキごめんね。昔話とかに出てくる意地悪爺さん、いるでしょ?僕あれに呼ばれちゃったから行かなきゃ」
「私がここにいるのってやっぱり良くない?もう帰るし、見たことは絶対に他言しないから…」
「違うよ、全く別件。それにミズキが帰る時は僕が絶対送ってく。すぐ戻るから、ちょっとだけ傑と待っててくれるかな」

悟くんは『傑』のところで、その男の人を顎で指した。

「夏油傑、僕の親友だよ。厳ついけど怖くないからね」

この状況で悟くんがいなくなるのはわざと迷子になるみたいに不安だったけど、私はどうにか笑った。

「分かった、待ってるね」

笑ったと思う。
悟くんはその人…夏油さんの側で何かを小声で伝え、気の進まない様子で離れていった。


悟くんを見送った後、夏油さんは私を自販機のあるところまで連れていってお金を入れ、ただ「どうぞ」と促してくれた。缶の紅茶を手にベンチに並んで座る。
どちらが先に声を発するか、何と切り出すか、無言の探り合いみたいな空気が何秒かあって、結局私が、先を取らせてもらった。

「…悟くんが呼び出されたのは、私がここにいるせいですか?」
「そうだね」

やっぱり。夏油さんが本当のことを話してくれる人で良かった。

「私が非術師だからですか?」
「そうだ」
「呪術師っていう存在を、初めて知りました。きっと厳重に隠されているんですよね」

夏油さんは頷いた。
日常のすぐ隣にあって、私には見えない世界、私はやっぱり踏み込むべきではなかった。

「…帰ります。さと…、五条さんにはもう、」

会いません、と言おうとしたのに、出来なかった。口が動かなくて。
隣の夏油さんは、背中を真っ直ぐにして座っていた姿勢から上半身の力を抜いて後ろに手を突いた。

「悟とは普段どんな風に過ごしてるんだい?」
「え…?」
「上層部は面倒なジジイの詰め合わせでね、毎度話が長いんだ。少し話す時間はあるよ」

夏油さんは遠くを見ている。
私は、買ってもらった紅茶の缶の丸い縁を指でなぞった。

「どんな…って言っても、普通です。外食したり、一緒に料理をしたり、美術館に行ったり、買い物をして、映画を観て…映画館よりもレンタルが多いです」

平凡で、変わり映えのしない、幸せな、幸せな時間だったと思う。木陰で居眠りをするような。擽り合って笑い転げるような。もうさよならになってしまうけれど。

夏油さんの横顔は遠くを見ている。

「悟はネタバレするだろう」
「そうですね。でも私はそれも楽しいです」
「私より寛容だ。私が学生の頃にシックスセンスのネタバレを食らった時は壁に穴を開けるレベルでキレたよ」

思わず笑った。夏油さんもその時のことを思い出しているのか、ククッと少し悪戯っぽく笑った。

「同じネタバレを聞きました。でも聞いてから観ると伏線がよく分かって、2回見たような気分になれますね」
「だけどね普通やるか?製作者の意図を無視しやがって、暴挙だろう」

当時の夏油さんがどれだけ腹を立てたのか、少し想像出来る気がした。その時の若い悟くんの様子も。

「君の前で、悟はよく喋るかい?」
「はい。…でも時々、貝みたいに何も言わなくなることがあります」

悟くんには充電切れみたいになることがあって、そんな時悟くんは私のお腹や胸に顔を埋めて本当に何も言わなくなってしまう。
最初にそうなった時に「どうしたの」と聞いて返事がなかったから、いつか話してくれるのを待とうと今日まで思っていた。

「そんな時悟くんが何に苦しんでいるのか、…今日ここに来て、少し答えに近付いた気がします。見えないけど壁の向こうにあるのだけ分かる、みたいな…」

私の知らない世界には知らない苦しみがきっとある。私は何の役にも立たない。

「2年前ぐらいじゃないかな」と、夏油さんが出し抜けに言った。何のことだろうと思っていると、「君が悟の恋人になったのは」と補足があって、確かにその通りだった。私が頷くと夏油さんは満足げに笑った。

「こんな職業だから、メンタルを削られるのは避けられないんだ。悟はいつも平気そうな顔をしててこっちの勝手な杞憂かもしれないけど…。私は研磨と磨耗の境目を心配してた。あいつは真面目じゃないけど無趣味な仕事人間だったからね」

夏油さんは雲の流れゆく空を眺めながら、その向こうに昔の悟くんを思い出しているみたいだった。

「それがある時からスマホをチラチラ気にしたり、休みを楽しみにして何か調べたり、どうにか任務を片付けて早く帰ろうとするようになったんだよ。見てるこっちが恥ずかしくなるぐらいさ。悟とは高専入学からの付き合いだけど、あんなになったのは初めて見たから当時驚いたよ」

夏油さんが私を見た。私は、見られたくなかった。情けない泣き顔なんて。

「それが2年前から。悟に君がいて良かった。誰が反対しようと私は君を歓迎するよ、ミズキちゃん」

警戒を張る厳しい顔でなく、学生の頃を思い出す悪戯な笑顔でもなく、夏油さんが会ってから初めて私に向けて優しく目を細めて笑った。
私は熱くてどうしようもない目を手で隠した。すぐに手のひらがびしょびしょに濡れて、それでもまだ顎先から雫が落ちていく。

その時、交通事故でも起こったのかと思うような大きな音が響いて地面が揺れた。顔を上げると、見たこともないほど怒った顔の悟くんが、立っていた。高いところから飛び降りた着地姿勢のように背中を丸めて。

「おい」

お腹の底から響くような声。

「何でミズキ泣いてんの。返答によっては殴るじゃ済まない」

瞳孔が開いて青い目が燃えるように光っている。
夏油さんが立ち上がって、私の前に一歩踏み出した。

「悟、落ち着きな。悪い話じゃないよ」
「何で、泣いてるって、聞いてんだよ」

悟くんが言葉をひとつずつテーブルに叩き付けるような言い方をした。言い終える前に悟くんは手を突き出して五指を鉤爪状に曲げ、そこに小さな台風でもあるみたいに辺りが不穏にざわめき始める。夏油さんも溜息の後で『何か』を出したみたいに手を動かして、私には見えない現象を交えた壮大な喧嘩が始まってしまった。
最中、私が止めることも出来ないで立ち竦んでいるところへ伊地知さんがやってきて、ジュグ化?した眼鏡というのを貸してくれた。それで初めて私は呪術というものを目の当たりにしたのだけれど、ちょっと凄すぎて結局理解は出来ていない。

喧嘩が始まって少しした頃に学長さんがいらっしゃって、悟くんと夏油さんに1回ずつ拳骨を落として、それでようやく、天変地異みたいな喧嘩は終わったのだった。



「だってさぁ大事な彼女をちょっと任せて戻ったら泣かされてたんだよ?この女誑し何しやがったって思うでしょ普通」
「フォローしてやった私が馬鹿だったよこの恩知らず」

私が夏油さんと話した内容を伝えても、悟くんは悪びれずに肩を竦めた。夏油さんが下瞼をピクピクさせて、今にも喧嘩が再開しそうだったから、とりあえず悟くんに横からぴったりくっついて微力ながら動きを制限してみる。でも何となく、てんとう虫が戦車を止めようと頑張ってる様が現状に近いような気がする。

「ミズキごめんね、やっぱり僕が離れたのが良くなかったんだよ」

悟くんが私の目尻に触れて、涙の跡が残っているのかもしれないところを優しく擦った。
もちろん悟くんと離れたことは不安だったけど、夏油さんと話す機会がなければ私は悟くんに別れを切り出していたかもしれない。住む世界が違いすぎて、耐えられずに。だから私は首を振って、「夏油さんと話せて良かった」と言った。

「だって見せてもらったもの全部、全然追い付けなくて…途中までもうお別れしなきゃいけないのかなって、思ってた」
「はぁぁぁ??!何ソレ別れるつもりの相手に身辺見せて回るわけないじゃん僕がさぁどんな思いで…!!」
「どんな思いで?」

何だろう。
悟くんが言い淀んだ。

「ミズキちゃん、きっと悟は君にプロポーズしたいんだよ」
「な"…っおま、それ普通言う?!馬鹿なの?!余計なこと言うなって言ったよな?!」
「学生時代に散々ネタバレした報いさ」

夏油さんがカラカラと笑った。壁に穴を開けるほどの恨みは、今までしっかり夏油さんの中に残っていたらしい。
悟くんは決まり悪そうにがしがしと髪を掻き乱して、それからポケットに手を入れ、小さな箱を取り出した。なめらかなベルベット、丸みのある蓋が貝のように開くと、宝石がキラキラと光った。

「…言っとくけどコレ本番にするつもりないから」

それは、私にも嬉しいことかもしれない。心の準備ができるから。
本番の時にはこんなに泣かずに、綺麗に笑えるように。




***

ネタポストより
五条と恋人同士の非術師の夢主、薄々感じていた五条は呪術界では特別な存在であるという思いが高専を訪れた際に確信へと変わり、自分は身を引くべきではないかと思っていたところで夏油と遭遇、夏油から夢主と出会ってからの五条の様子を聞かされ、呪術界での五条がそうであるように五条の中での自分は特別な存在であるのだと思い知るお話。

いつも通り多少の改変はありますが、ネタを拝見した時にアッこれ好きぃぃぃ!となったのでノリノリで書きました。
【好きポイント】
・もはやデフォルトのnot離反if
・夏油さんのお節介
・本人不在での会話
・本命に緊張する五条さん
・五条→→∞→←夢主
・呪具化した眼鏡(使いたかった)

ネタ提供ありがとうございました!
レシピから工程を変え好き放題トッピングしたらこうなりましたごめんなさい。

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