きみのこと
※伏黒短編【こういうこと】の続編です。
伏黒が最初に違和感を覚えたのは、五条の話を聞いている時だった。
五条が任務引率の最後に講評をしていて、「恵も動きは悪くないけど、もうちょっと前に出る意識があるといいかもね」だとか、それらしいことを言った。
そもそも式神使いを近接戦に駆り立てるのはどうなんだという反感を一応飲み込んで「ハイ」と返事をした後、伏黒はふとミズキに目を留めた。彼女が、五条のことを熱心に見ていたからである。
学生が担任教師を見るのは当然のことながら、視線の熱心さたどとか、それでいて心ここにあらずの様子だとか、とにかくミズキの横顔を見た伏黒には僅かな違和感が残ったのだった。
このことがあって以後、彼女について他にも気になる点が出てきた。
ミズキは伏黒と2人で過ごしていると決まって、何かを言おうと身構え、やはり諦めて飲み込むというのを繰り返すようになった。勿論、彼女自身は伏黒にそれを悟られているとは思っていない程度の、僅かな仕草だったけれど。
野暮とは思いつつ伏黒が理由を尋ねてみると、気付かれたことに驚いた後でミズキは首を振った。「ごめんね」「何でもないの」「気にしないで」「ごめんね」とフルセットの提供を受け、それ以上の詮索も封じられてしまった。
こうなると、すっきりしない違和感を燻らせた伏黒の中で考えたくない可能性が頭をもたげた。
心変わり、別れ話、大きくはこのふたつ。
この可能性を認識した瞬間、伏黒は血の気の引く思いがした。
元は片想いのままでいいと思っていた恋である。優しい女の子だから、相応しい幸せを得るべきだと。それが恋人になって、他人に見せない表情だとか恥ずかしそうに甘えてくれる様を知った今では、彼女を自分から切り離すことが想像するだけでも耐え難く辛い。
しかも伏黒の憂慮していることが本当だとしたら、相手は五条ということになる。一応恩師というのもあるし、彼には勝てないという自覚もといコンプレックスのようなものが、伏黒にはある。
もしもミズキが、先生のことを好きになったから別れてほしいと言いたがっているのだとしたら。
伏黒は1人の自室でベッドのマットレスを強かに殴った。多少埃が立っただけで、気分は少しも晴れなかった。
数日の後、珍しく任務が入らず普通の学生のように座学で1日を終える日があった。折角だから夕飯を求めて街へ出るかと話しているところへ、任務終わりに帰校した五条が通りすがった。
虎杖と野薔薇と、いつも通りのノリで五条も夕飯の話に加わって、野薔薇は寿司、虎杖は焼肉がいいと言う。「恵とミズキは?」と五条が言う。ミズキはまた五条を見ている。やめろ見るなと伏黒が苛立つ。
「ちょっと恵聞いてるぅ?」
頭に向かって伸びてきた五条の手を伏黒は強く払い退けた。
「…俺らは抜けるんで3人で行ってください」
腹の底からの怒りを含んだ声に3人が面食らっている間に、伏黒はミズキの手を引いてその場を離れた。
ミズキが何度か彼を呼んだけれども無言のまま歩いて(ミズキは時折小走りになりながら)寮まで戻り、伏黒はミズキを彼の自室へ放り込むようにすると荒っぽくドアを閉めた。
「俺は絶対別れてやらねぇからな…!」
ほとんど怒鳴るような強い口調にミズキは驚いて部屋の中で立ち竦んでいて、それからぽつりと言葉を零した。
「伏黒くん…何言ってるの…?」
要するに誤解であった。
ミズキには伏黒と別れたい思いなど無く、五条を見ていたのは恋心からではないと言う。確認すれば10秒足らずの簡単なことで、冷静に考えてみればそもそも有り得ない話だった。伏黒は恥辱のあまり少し前の自分を呪った。
しかし、伏黒の憂慮が多少暴走気味だったことは否めないとしても、きっかけはミズキの態度にあったのだ。五条を見つめていたり、伏黒に何か言いたそうにしていたり。その真意を伏黒が尋ねると、途端にミズキは目を泳がせた。
「…な、なんでも、「ない、で通せると思うなよ」
盛大に恥をかき終えたばかりの伏黒に怖いものは無いのである。いつもなら惚れた弱みでミズキに強く言えない彼だけれど、この時の声には納得のいく回答を得るまで許さないという確固たる意志があった。
ミズキは迷って、困って、迷った末にとつとつと話し始めた。始めに「名前を、」とぽつり。
「名前をね、…あの、五条先生が」
「名前?」
「伏黒くんのこと、名前で呼ぶでしょ…?」
「?まぁ…」
伏黒を、というよりも大抵の生徒を、五条は名前で呼ぶ。
ミズキは赤らんだ頬を隠すように俯いた。
「いいなぁって、思った、だけ…」
伏黒はしばらく彼女の言葉の意味を慎重に考えてみた。何しろ早とちりで嫉妬して恋人に声を荒らげたばかりなのだ。ミズキの言う『いいなぁ』について、彼女が何を羨んでいるのか、あるいはただ微笑ましく思っているだけという可能性も含めて熟考し、最終的には一番シンプルな意味に着地した。
「………別に、呼べばいいだろ」
ミズキは伏黒のことを名前で呼びたい、らしい。
ミズキが小さく首を振った。
「でも前に…伏黒くん、自分の名前あんまり好きじゃないって」
言った。
伏黒にとって今日は何とも後悔の多い日である。
伏黒は俯いて額に手を当てた。
とりあえず彼は立たせたままだったミズキをベッドに座らせて自分も横並びになり、小さいことも含めて色々と詫びた。律儀に。
しかし謝罪していく中でひとつ気付いたのは、状況はそう悪くないということである。ミズキは伏黒と別れるつもりなどないし、心変わりもしていない。ただ伏黒のことを名前で呼びたい、それだけなのだ。
伏黒は何ともむず痒い思いになって、がしがしと少し乱暴に頭を掻いた。
「その…確かに、俺は自分の名前は好きじゃない。でも、……呼んでもらえたら、嬉しい、と思う」
「え…」
「ミズキにだったら」
初めて伏黒の声で発せられた自分の名前に、ミズキは堪らず目を逸らした。
隣り合って座る伏黒が彼女の手に触れる。
「………おい」
「はっはい!」
「俺は言ったぞ」
「………っでも、」
ミズキは首を振った。
ベッドの上でそっと握られていた手は今やしっかり掴まれて、こうなると恋人同士の優しい触れ合いというよりは捕獲されているような格好である。
伏黒がミズキにぐいと迫った。
「呼べ」
「でもやっぱり、その、」
「ミズキ」
伏黒の目が間近からミズキのことをほとんど睨むように見つめている。ただ、ミズキにはこれが伏黒の不器用な照れ隠しだということも、彼が恋人を名前で呼ぶのは相当恥ずかしかっただろうことも分かった。
心臓が忙しなく脈打って声が上擦りそうなのを堪えて、彼女は口を開いた。「め、」と最初の一文字。
「恵」
「…」
「無理強いは良くないよぉ?」
五条である。
音もなく無断で入室していた五条に伏黒は盛大にキレて追い出した。もう少しで万象とか呼び出して実力行使に及ぶほどのキレっぷりだった。ゲラゲラ笑っている五条に有効だったかどうかは別として。
五条を部屋から追い出して頑なに扉を閉ざし肩で息をする伏黒の袖を、ミズキがついついっと引いた。
「め…恵くん」
「!…っ、ぁ、あぁ」
「みんなとご飯、行こ?」
「分かっ、た」
「それで帰ったら、…また遊びにきてもいい…?」
伏黒は溢れかかった何かを飲み下すような顔をしてミズキを抱き締め、髪を撫でながら、彼女にだけ伝わるように頷いたのだった。
***
ネタポストより
『伏黒同級生夢主こういうこと続編で、恵と呼ばれたい伏黒がえっちのときにちょっと強引に名前呼びさせる話』
すみません裏要素入れられず!
1年生と五条先生がわちゃわちゃしてると涙出てくる…