赤い糸と嘘 番外


「名前で、呼ばれたい切実に」

これを言われた瞬間の硝子の顔は想像に難くない。彼女は相談料として提供された、店で一番高い酒をあおった。

「私じゃなくミズキに言え、以上」

某月某日都内某所の居酒屋、夏油から硝子への恋愛相談は開始早々に打ち切られた。
しかしそれで諦める夏油ではない。何しろ本題を切り出すまでに彼の方もそれなりの量を飲酒していて、ざっくり言うと絡み酒の酔っ払いである。
夏油は街頭演説の政治家よろしくグッと拳を握った。

「それが言えたら苦労しないんだ、分かるだろう?!今の呼び方だって相当嬉しかったけど…付き合って3ヶ月以上経つしそろそろ、うん、そろそろ…!」
「自業自得って言葉知ってる?」
「私の急所だね」
「自覚があって何より」

好きな女性に照れ隠しでキツく当たって怖がられていた男、夏油傑28歳。念願叶って恋人という関係に漕ぎ着けたものの、ミズキはまだ彼のことを夏油さんと呼ぶしほんのり敬語である。

「ミズキが可愛すぎるのがいけない…あの目でじっと見られたら何も言えなくなる、嫌われたくなくて動けない」
「万札渡してすーくん呼びしてもらえ」
「そういう店みたいにしないでくれ………3万ってケチかな?」
「クズ。あ、今のはお前の話な」
「あれは…可愛かった、すごく刺さったし今でも刺さってる」

硝子はまた同じ酒を頼んだ。
夏油はだらしなく表情を緩ませて素敵な想い出に浸っている。それからはたと気付いて「違うそうじゃない」とテーブルを叩いた。

「誠心誠意接してるんだよ。もう二度とミズキのことを怖がらせたりしないし、何の不自由もさせない」
「ミズキは『介護受けてる気分』って遠慮してたけどな」
「それでもまだ距離を感じる…これ以上どうしたら名前で呼んでくれるか分からないんだ!」
「さっきから微妙に私の話聞いてないだろ。帰っていい?」
「もう一杯同じの頼むかい?」
「勝手に頼むよ」

夏油はテーブルに伏せてしまった。それを見た硝子は反射的に『面倒くさっ』と思ったのを飲み込んで、宣言通り同じ酒を追加で注文した。
残りを口に含むとつるりと舌を滑っていく酒が心地良い。
「あんたさ」とテーブルに伏す黒い頭に硝子は言った。

「一度でもミズキに伝えたの?」

回答は予想通り、くぐもった声が「ない」とだけ言った。

「迂遠な方法に大枚叩くよりミズキを7万の食事に誘えって、いつか言わなかったっけ」
「……言ったよ」

ただそれを実行する勇気が持てないという話なのだろう。夏油が二の足を踏むポイントはミズキと付き合う前後で変わっていない。
呼び方ひとつで別れ話に発展するとは考え難いし、そもそも単なる惰性という可能性もある。だから気負わず本人に軽く伝えろという正論極まりない助言を、硝子は一応してやった。酒の分は働くという彼女の信念からの行動である。あとは、夏油の望みは別にして親友のミズキには幸せになってほしいという思いから。

その時夏油の腰辺りから着信音が上がり、途端に彼は跳ね起きて応答した。
電話の相手はミズキらしく、3日ぶりに帰宅した飼い主を迎える犬のように嬉しげに話している。通話を終えると夏油はいそいそと席を立った。

「悪いね、もう出るよ。このまま私にツケて飲んでくれていいけど、硝子はどうする?」

任務終わりのミズキを迎えに行くらしい。硝子はミズキが夏油にそれをわざわざ連絡したことを意外に思ったのだけれど、聞けば夏油の要望を通した結果なのだという。以前、待ち合わせに先に着いたミズキをナンパする猿がいただとか夏油が話し始めて、真面目に聞くと長くなりそうなので硝子は生返事で流した。
連れ立って店を出ると、少しひんやりとした風がアルコールの火照りを取っていく。首の僅かな傾きだけで挨拶を済ませて別れ、硝子は帰っていった。



夏油がいきなり背後に立つと、以前なら軽く悲鳴を上げて驚いていたミズキは平気な顔で振り向いた。彼の贈った髪留めが隠れてミズキの目が現れ、正確に夏油を捉えてニッと細まる。『もう驚いたりしないのよ』とでも言うように。
夏油はうっとりと溜息をついた。

「はー好き…」
「いや挨拶」

唐突な告白にミズキが笑った。
人の行き交う駅前、駅の中からの白い光が服も髪も黒い夏油を照らしている。彼は残念そうに肩を竦めて見せた。

「おかしいな、以前なら驚いてくれてたのに」
「後ろからくるって分かってたらそんなに。もう逆に正面から歩いてきたらビックリするかも」
「じゃあ次は普通に来ようかな」

夏油が顎に手をやって真面目な顔をするのが可笑しくて、ミズキはまた笑う。夏油が自然にミズキの肩を抱いた。

「お疲れ様だったね。どこか食べに行くかい?」
「んー…あれ、夏油さんお酒のにおい」

ミズキが夏油の胸元でスンと鼻を鳴らした。

「あぁごめんね、臭うかな」
「じゃなくて、ごめんなさい誰かと飲んでたなら…」
「ミズキを迎えに来る方が大事だよ。あと相手は硝子だから安心して」

夏油の『安心して』は心からの言葉だったし悪意も他意も無かった。一晩裸で一緒に過ごしても(『汚いもん見せるな』と叱られこそすれ)絶対に男女の関係には発展し得ない仲なのだ。
ミズキが夏油のことを見ていると、彼は理由を問われたものと酌んで「少し相談事があってね」と濁した。

ミズキは曖昧に笑い、そっと夏油を押して距離を取った。

「あーえっと…、やっぱり、今日は私帰りますね。少し疲れちゃって」
「えっ」

ガツンと脳天を殴られたように一瞬震えた後、夏油は取り乱した。まずはミズキが負傷を隠していないか、違うと分かると疲労があるなら自宅へ来てほしいと言い出し、それにも難色を示されるとミズキの手を取った。

「ごめんね、あまりしつこくすべきじゃないとは思うんだけど…私が何かしてしまったかな?それなら教えてくれないか、謝るから」

ミズキは小さく首を振った。その間も彼女の目は夏油に向いておらず、重心は背中側に寄って離れていこうとしている。
2人のすぐ横を通った若い女が痴話喧嘩の気配を拾ってちらと見ていった。

夏油はあまり追い縋るのもミズキには鬱陶しいばかりだとは分かっていて、それでもここで手を離すと彼女がそのまま離れていってしまう(物理的にではなく、精神的に)気配をありありと感じていた。
彼は自分よりも一回り以上小さいミズキの手を手のひらに乗せて、弱った小鳥にするように撫でた。

「お願いだ…時間を置いて解決するなら言ってほしい。そうじゃないなら、私が何をしたらいいか教えて」

ミズキは狼狽えて、夏油の手に包まれた中で落ち着かなげに手を強張らせた。

「そんなに大きな事じゃないし、夏油さんが謝ることじゃないです。私、自分が情けなくなっちゃって…」
「君が私から離れたい理由があるなら、それは大きな事なんだよ。…ねぇ、どこかに座ろう?私を見て」

小鳥を労っていた夏油の手がミズキの頬に触れる。少しも強引ではないのに抗えず、ミズキの顔が夏油に向いた。困り果てた顔の夏油がいた。
「私」と、迷った末にミズキが小さな小さな声で言うので、夏油は屈んで彼女の口元へ耳を寄せた。

「私、夏油さんのことあんまり知らないから…」
「私のこと?」
「高専の頃とか、…相談事も」

夏油はミズキの耳の横で目を丸くして、緩む口元を手で覆った。彼女は夏油の様子に気付かないで、俯いて夏油の鎖骨辺りに額を押し当てる。上体を屈めた姿勢のまま夏油はミズキの背中に腕を回して強く抱き締めた。ミズキはまた夏油を押して逃げ出そうとしたけれど、彼は離してやらなかった。

「逃げないで」
「っもうやだ…」
「愛してるんだよ」
「これは、…私の!問題ですからっ」
「なら私の問題でもあるね。…ねぇミズキ、場所を変えよう?硝子にした相談を君にもしたい」
「…私に話せないことだから硝子ちゃんにしたんじゃないの?」

夏油はミズキのこめかみにキスをしてから身体を離し、ニコニコと機嫌良く「君についてのことなんだよ」と言った。

「さぁ、そうと決まれば急ごう。ミズキ、お腹は空いてるかい?」
「あー…帰りの新幹線で軽く食べたから、あんまり…?」
「そう?それなら明日の朝は私が作るよ。何がいいか考えておいて」
「あれ何か夏油さん家に泊まる感じになってます?」
「勿論」

夏油は切長の目を猫のように細めて、ミズキの手を引いてさっさと自宅へ戻った。それで、直前まで硝子相手にうだうだと行動しない言い訳を並べていたのと同じ人物とは思われないほどアッサリと、ミズキに本音を打ち明けたのだった。

打ち明けてみれば硝子の言った通りで、ミズキは散々前置きがあった末の用件がただ名前で呼んでほしいというものだったことに拍子抜けして、カラカラと笑った。そのせいで思春期みたいな嫉妬をしてしまった自分のことも含めて、可笑しくて仕方がなかった。

「ひどいな、そんなに笑わないでくれ。これでも本気で悩んだんだから」
「だってもう、ふ…っ馬鹿みたい私、ふふ、10代でもないのにこんな」
「そうだよ、10代で素直に告白しなかったのを心底後悔してる。学生の頃から付き合っていれば今頃結婚だって…」
「け、」
「あ、……………………ごめん一旦忘れて」
「無理がある無理がある」

夏油とミズキは2人してソファの上で、背凭れに寄り掛かったり顔を膝に向けたりしてしばらくゲラゲラ笑っていた。
涙まで滲んできた目尻をミズキが拭っていると、夏油の指が後から来て優しく水分を取ってくれた。視線が交わる。夏油と視線が合うといつも、ミズキはカチリと音がしそうに思う。強く結び付いて離れられなくなる感覚があるのだ。こんな風に夏油の目が真剣な色を帯びると、特に。

「本気だよ」
「ん、ぇ」
「伝え方は、…間抜けになってしまったけど」

ミズキは頬から目元の辺りがかぁっと熱くなって、それでも夏油の目から逃れることは出来ないで、ただ小さく下唇を噛んで彼のことを見ていた。夏油の指が彼女の唇に触れて、噛むのを窘めた。

「呼んで」
「ぇ…い、いま?」
「お願い」

夏油の涼やかな目が懇願している。しばし迷い、気恥ずかしいのを耐えて、ミズキがただぽつりと彼の名前を呼ぶと、夏油は嬉しそうに返事をした。母親に褒められた子どもみたいに。
ミズキはとうとう手で顔を覆って、夏油は構わず彼女のことを抱き締めた。それから、腕の中に向かって低く囁く。

「ねぇミズキ…いい?」

ミズキがぴくりと身体を強張らせた。夏油が自宅に誘った時点で『そう』なるだろうとは薄々感じていたけれど。ミズキは小さく頷いて、夏油が彼女を抱き上げて寝室に運ぶことを許した。

夏油はミズキを抱きながら最中何度も名前を呼ばせてその度恍惚とし、ミズキは夏油に全身を隈なく愛撫され巧みに揺さぶられながら、半ば譫言のように彼の名前を繰り返した。



行為の後、夏油はミズキの頭を腕に乗せ、柔い髪に手櫛をした。ミズキは優しく撫でる指先と人肌の温かさに心地よく微睡んでいる。
夏油がくつくつと笑い、ミズキは『どうしたの』という目で彼を見た。

「1年前の自分に今の状況を伝えたらどうなるかと思ってね。発狂するかも知れない」
「夏油術師って呼んでたころだ…」
「古傷が疼くなぁ。長らく素直になれなかったけど、学生の頃からずっと好きだったんだよ」
「わかりにくいんだもん」
「ずっと硝子に嫉妬してたけど、逆になるとこんなに嬉しいんだね」

ミズキは居心地の悪そうな顔をして、手近なところにあった夏油の腕を軽く抓った。夏油は「痛いよ、ごめん」と幸せそうにした。

「硝子とは世界で最後の男女になっても絶対に何も起こらないよ。『回りくどいことしてないでミズキを7万の食事に誘え』って呆れられてた」

ミズキは微睡みながら夏油の声を聞いていて、ふと7万という数字に引っ掛かった。

「なんの数字?」
「うん?」
「7万」

まずった。
という顔を夏油がした。そうなるとミズキの眠気も覚める。

「何に7万使ったの?私にくれた髪留め?…それだけじゃないよね」

夏油は冷や汗をかいた。誤魔化そうにも髪留めの値段は検索されれば簡単に割れる。残高には冥冥から写真を買った代金が含まれてしまうので、それは知られたくない。写真データを消せと言われるのは嫌だし、そもそも恐らく引かれる。

夏油が黙っているとミズキが彼の腕の中からむくりと起き上がった。夏油のすぐ横に手を突いて彼の上に身を乗り出す。彼女は夏油を見下ろして、やんわりと目を細めて見せた。

「すーくん、お話して」
「あっ幸せ…」

夏油が口を割ったかどうかは、彼が後日冥冥から写真を再購入したことからして明らかである。

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