花緑青
※ほんのり百合要素あり
「えっなに、写真?」とミズキは声を上げた。
扉を開けてみると硝子が携帯を開いて構えていたからである。
「んーん、動画」
「『なら良かった』とはなんないでしょ…急にどうしたの?とりあえず入って」
「ミズキの成長の記録を残そうと思って」
「私赤ちゃんなの?」
ミズキの部屋に踏み入って、硝子はカラカラと笑った。携帯は閉じない。
「何か飲む?」
「や、いい。それよりミズキ可愛い格好してんね」
「あぁこれ?」とミズキは自分の部屋着を見下ろして、少し照れ臭そうに笑った。
「この前買ったの。いつも真っ黒だもん、たまには綺麗な色のもの着たいよね」
「いいんじゃない?」
薄紫色のカーディガンとショートパンツ、白いキャミソール。柔らかくふわふわとして優しく、頼りない。呪術師の黒服とは真逆である。
「ところでさ本当にどうしたの?こんなの動画として見所なさすぎない?」
「気まぐれ。残しとくのもいいかなって思っただけだよ」
「ふぅん…?」
ミズキは釈然としないながら、追求するのをやめた。硝子のことだから悪用はしないだろうと踏んでのことだった。そもそも悪用の仕方も思いつかないような無意味な動画である。
硝子は勝手知ったる様子で定位置のベッドに腰掛けた。ミズキがその隣、これも定位置である。
それから次の休みの予定だとか行ってみたい店の話が少しあって、ある時硝子が「そういえばミズキ」と切り出した。
「好みのタイプ聞いといていい?」
「いや脈絡」
「いいじゃん青春の1ページ寄越しな」
「青春って取り立てるものですかね…」
いつもと随分振る舞いの違う硝子のことを、ミズキは少々本気で心配した。普段の硝子なら無意味な動画を撮ったりしないし、藪から棒に好みのタイプを尋ねたりもしない。いつも脈絡のない行動で周囲を驚かせるのは、彼女らの身近では灰原辺りである。
ミズキは硝子に向かってズイと乗り出した。
「じゃ硝子先に言って。そういえば聞いたことないかも」
「私は…そうだな、キリッと辛口が好み」
「青春はノンアルなんだよな法律上は」
青春の1ページにアルコールを掲載することは、法律で禁じられているはずである。ただ、ミズキに本気で咎める意思などなかった。同級生4人が夏油の部屋に集まってゲームに興じる時も、コーラやオレンジジュースの代わりにつるつると酒を飲むのが家入硝子なのだから。
硝子は相変わらずミズキに携帯のカメラを向けている。
「それよりほら吐け、擽ってやったら言い易い?」
「え、ちょ待っははっやだやだやだ、ぁっ」
ミズキが戸惑っている間に硝子の手が脇腹に伸び、実に的確にミズキのことを擽り始めた。ミズキはベッドに笑い転げ、身を捩って硝子の手から逃れようとして失敗に終わった。涙目で息の切れた頃になって硝子は手を止め、「で?」と催促をする。
「お…鬼……」
「もっかい笑いたい?」
「言う言う、ちょっとタイム」
ミズキは寝転んだまま、みぞおちに手を当てて息を整えた。それから硝子とは反対側に顔を傾けてひとつ溜息をつく。
「…て言うか、硝子知ってるじゃん。前に話した」
「まぁね」
「あ、諦めて新しい恋しなよみたいな話?」
「それもアリだと思うけど」
ミズキは反対側に倒していた顔を硝子の方に戻して、目をぱちくりとした。
「何か意外。硝子、五条はやめとけってずっと言ってたのに」
「今も基本姿勢はソレだけどね」
「珍しく歯切れ悪いね…本当に平気?メンタルが参ってるとか無いよね?」
「ないない。親友の幸せを願ってるだけだって」
硝子が肩を竦めて見せた。ミズキは硝子の表情の中に注意深く不調を探して、見付からず、ふっと優しく笑った。
「ありがと、大好き」
「…当然」
携帯を持たない方の硝子の手が、ミズキの髪をさわさわと撫でた。ミズキは居心地良さそうに目を細める。ひとしきり撫でさせた後で、ミズキがふと目を伏せた。
「…自分でもね、そろそろ諦めようと思ってるの」
「へぇ、何かキッカケ?」
「ううん、何もない。五条は私のことそういう対象にしそうにないし、告白して気まずくなる方が嫌だなって」
「可能性ゼロって風には見えないけど」
「ないよ。だって顔見ればドンクサ・ザコ・ブサイクだよ?あーもー何で好きになったかな、自分で謎」
「それな」
天井を仰いでミズキは両目に手を当てた。硝子が一度引っ込めた手をミズキの頭に戻し、また優しく撫で始める。
「ミズキ」
「ん」
「ミズキは鈍臭くない。雑魚でもない。努力してるの知ってるしね」
「…ん」
「それに可愛いよ」
「泣かせにくんのやめて」
「可愛い」
ミズキの口元が下唇を噛み、かすかに震えた。
ミズキは目を押し込むように手を強く押し当ててから離し、少し眠そうな目で硝子を見た。
「ね、それまだ撮ってる?」
ミズキが硝子の携帯を指差し、硝子は肯定をする。
「じゃあさ、私がきっぱり諦めるまで消さないでよ。それで諦めがついたら一緒に動画見て笑って。『この頃の私本当バカ』って笑い飛ばすの」
ミズキは硝子の手の下で悪戯っぽく笑って見せた。瞬きの回数、眼球の動き、口元の微細な震え、硝子にはミズキの言う『笑い飛ばす』というのがまだ遠い話になりそうだというのがよく分かった。
その時、コンコンとドアをノックする音が響いた。ミズキの目が自室のドアに向いたけれど、音源はそちらではないように思われた。彼女がむくりとベッドの上で身体を起こした。
「悟、いるかい?」
「バ…ッ」
ミズキの目がまん丸になって硝子の手元を見た。音は明らかに携帯からで、ミズキがはくはくと口を戦慄かせる間に目にみるみる涙が溜まり、彼女はベッドから飛び降りると部屋を飛び出していった。
がらんとした部屋に硝子の舌打ちが響いた。
「五条」
「悪い、アイツは?」
「出てった。薄着。お前本当殺す」
「…後でちゃんと謝る」
「いいから追え馬鹿」
五条の方でバタバタと慌ただしい音がして、ドアを開けて夏油を罵る声の途中で通話が切れた。
ひとりになった部屋で、硝子はベッドに倒れ込んだ。つい先程までミズキのいた場所のシーツをぎゅっと握る。
五条に協力したことが正しかったのか、硝子には分からなかった。少なくとも今ミズキは傷付いている。それでも、こうせずにはいられなかった。
ーーー私のことそういう対象にしそうにないし、告白して気まずくなる方が嫌だなって…
「わかるよ」と硝子は呟いて、顔をうずめるように下を向いた。
携帯も財布も持たずに飛び出してきてしまって、部屋着では校舎に入るのも憚られ、ミズキは闇雲に走って走って走っていつの間にか木立の中へ入っていた。春がきているとはいえ林の空気はひやりとしている。
目に入る範囲でひときわ大きな木の根本に、彼女は蹲った。適当なサンダルで走ってきたせいで足に小傷ができているようで、脈拍に合わせてじんじんと痛んだ。
「見っけ」
ミズキの頭上から五条の声が降った。ミズキは顔を上げなかった。
「…帰って」
「謝りに来たんだっての」
「謝られたら許さなきゃ、いけないじゃない。やだよ」
「じゃ隣いい?」
「それも嫌」
嫌と言われたのに、五条はミズキの隣に腰を下ろした。自分の着てきたパーカーを彼女の背中に被せ、払い除けられるかとしばし観察して、ひとまず受け入れられたらしいことに安堵して手を下ろしたのだった。
「その…悪かった、マジで。今までお前に言ってきたこと全部…ブスとかザコとか、本気じゃねぇし」
「それは別に、いいよ。どうして硝子にこんな、ことさせるの…さすがに笑えない」
五条はがしがしと頭を掻いて、顔を伏せたままのミズキを見た。蹲って腕で囲んだ暗く狭い空間の中で、涙を押さえ付ける呼吸がなされている。
「…俺が頼んだ。お前の好み、聞き出してくれって」
「知ってどう、するの。そんなの」
「……、………告白、しようとした」
数秒間、ミズキの呼吸が滞った。
さわさわと木の葉が擦れている。
「…今まで、悪かった。ミズキ見ると何言やいいか分からなくて嘘ばっか言ってた。ドンクサもザコもブサイクも本当は思ってない」
「…本気じゃないのは知ってる。他人に本気でそれ言う人を、好きにはならないよ」
「ん」
「でも傷付かないわけじゃ、ないの」
「…うん」
五条のことを何故好きになったのか、ミズキは自分の中で腑に落ちる思いがした。基本的に不遜で憎まれ口を挨拶にしているような男だけれど、懐に入れた相手には存外優しく、どこまで許されるか探りながら甘えたりもする。ミズキへの罵倒が本気でないことは、彼女も周囲も分かっていた。『段差に気を付けて』が言えなくて『転ぶなよドンクサ』が口を突いて出る男なのだ。
ごしごしと目元を拭ってから、ミズキが顔を上げた。
「五条のばーか」
「はい」
「小学生と思春期をいっぺんに拗らせてる」
「ご尤も」
「硝子に謝れ」
「高級酒持参でお詫びに伺います」
ミズキが小さく笑った。その目元はまだ濡れていて、表情の整合性が取れていない感じのする笑い方だった。
五条は彼女に掛けたパーカーの袖を持ち上げて、濡れた目元に当てた。ミズキは一瞬肩を跳ねさせたけれど、大人しくその袖を受け入れた。
「…よごれるよ」
「いーよ」
「あと五条、寒そう」
「あっためて」
「調子乗んな」
「ごめんなさい」
今までの幼稚な悪口は何だったのかというほど、五条がしおらしくなっている。ミズキは可笑しくなってしまって、ぐっと勢いをつけて立ち上がると身体を気持ち良く伸ばした。
「戻ろっか。パーカー洗って返すね」
ミズキがごそごそと余る袖に腕を通す傍ら、五条は一度立ち上がったのに彼女に背中を向けてしゃがみ直した。
「…乗れ。おぶってく」
ミズキが面食らっていると五条はムスッとした横顔で彼女を急かし、おずおずと乗った体重ごとゆっくり立ち上がった。細かな傷がいくつかついた白い足が五条の腿の横に垂れ下がり、彼はミズキのサンダルに指を引っ掛けて腰の後ろに回した。
「何か…急に優しいね」
「っ俺だってなぁ!……クソッ…悪かったよ…」
「責めてるわけじゃないってば」
ミズキがくるくると笑う。
近くの木の上でチチチと鳥の鳴く声がした。
「…俺だって、好きな奴には優しくする」
「…っそ、か、ありがと…」
五条がゆっくり足を運んでいく小さな音と緩やかな揺れが続いていく。
ミズキは、足に小さな傷があるだけなのだから揺れを気遣う必要はないと伝えるべきだとは思いながら、それで早く寮に帰り着いてしまうのが何だか少し惜しいような気がして黙っていた。
五条はわざとゆっくり歩いているのをいつ指摘されるか肝を冷やしながら、どうにかこの時間を引き伸ばせないかと頭を回すばかりだった。
ミズキが五条の広い背中に寄り掛かった。
「ねぇ五条」
「、…んー」
「帰ったら、一緒に硝子に謝ってね」
「…お前は謝ることなくね?」
「硝子、傷付いた顔してた。硝子のこと大好きだもん、ちゃんと謝るよ」
五条はゆっくりと歩き続けている。
その中でふと「…俺がさ、」と口を開いた。
「俺が硝子みたいに優しくしたら、俺にもあんな風に甘えてくれる?」
『あんな風』と言われて、五条に硝子との会話を聞かれていた(否、見られていた)ことを忘れつつあったミズキは少々決まりの悪い思いをした。しかし考えてみるとこれは、結構いじらしい質問ではないかと思い至る。五条にとってはそれだけ、ミズキと硝子の戯れ合いが羨ましかったのだ。
「…本当に優しくなったら、たぶん」
「! おう」
五条は落ち着かない様子で、ミズキを支える腕を慎重に組み直した。ミズキは彼に悟られないようにそっと笑って、もう許していることはあと少しだけ黙っていようと思ったのだった。
扉を叩く音。
「…硝子、中にいるのかい」
夏油がミズキの部屋に向かって呼び掛けた。「いない」と中から硝子の声がした。
扉を開けると硝子がベッドに横たわっていた。顔をシーツに隠すようにして。
「悟に怒鳴られたよ。私、相当間の悪いことをしちゃったみたいだね」
「…最悪だよ馬鹿」
「悪かったよ」
夏油の声が近寄っても硝子は顔を上げなかった。
顔を隠す髪の奥から「夏油」と小さな声がした。
「煙草。どうせ持ってんでしょ」
「…マイルドセブンじゃないけど」
「いい。寄越せ」
硝子がごろんと仰向けになった。目元は腕で隠したまま。夏油は彼女の口に煙草を一本与えて火を点けてやった。静かに煙が上がる。
夏油は静かに窓を開けた。レースのカーテンが膨らんで、少しひんやりとした空気が流れ込んだ。
硝子は煙草を積極的にふかすこともなく、ただ細く煙の登るままにさせて、しばらくただ横たわっていた。
硝子に背を向けて窓の外を眺めていた夏油が、ある時振り向いて硝子を呼んだ。
「そろそろ煙草、消そうか。悟がミズキを背負って帰ってきたよ」
硝子はやっと目を覆っていた腕を退けて、眩しそうな薮睨みになった。「灰皿」と口から煙草を慎重に外しながら言うけれど、夏油も持っていなかった。
「仕方ないね」と彼は言って、火のついた部分を摘むように硝子から煙草を取り上げ、手持ちの呪霊の口にぽいと放り込んだ。
「さすが手の皮が厚いな」
「面の皮みたいに言わないでもらえるかい」
「…ありがと」
「どういたしまして。笑えそう?」
「慣れてる」
そこへ廊下から軽い足音が駆けてきて、続いてミズキが硝子を呼びながら扉を開け放った。部屋の主はそのままベッドに座る硝子に飛び付いて、結局わんわん泣きながら「大好き」と「ごめんね」を繰り返した。
硝子は最初こそ少し驚いた顔をしていたけれど、すぐに優しく表情を緩めてミズキを抱き返してやった。
そこへ遅れて五条が顔を出し、『どうだ』と言わんばかりの硝子と目が合って、悔しいけれども悪態を吐くわけにもいかず、不貞腐れた猫のような顔になった。
「ミズキ」
「ん…なに硝子」
「ごめんね、やっぱまだ渡さない」
「? なにが?」
***
ネタポストより
『主人公と硝子さんと歌姫さんが女子会開いて、硝子さんがこっそりムービーか通話機能ひらいてて、主人公の好きなタイプを聞き出して五条さんに送る話(五条さんが主人公ちゃんを好きで、硝子さんに頼み込んでたりとか)』
すみません女子会じゃなくなりました!ネタ提供ありがとうございます。
『花緑青』は色の名前で、ヨルシカの楽曲でしばしば涙の比喩に使われています。