星と魚


星みたいに美しい人だった。
星みたいに美しくて、遠い人だった。

五条くんと私の交わるはずのない人生が交差したのは、偶然だった。
高校2年当時、私は急に見えるようになった恐ろしい化け物に襲われることが何度か続いて、神経を擦り減らす日々が続いていた。そんな時に夜遅くまで学校に残った日があって、そこで運悪く一際大きな化け物に遭遇した。死ぬ、と思った。
ぬらぬらと白い化け物の手が伸びてくるのに私は腰を抜かしてぎゅっと目を瞑ることしか出来なかった。化け物の手はまだ来ない。足音と人の声が近付いてきて、私は薄っすらと目を開けた。

「こっちはラス1祓ったとこ……、ア?何でパンピーがいんの」

これが五条くん。
五条くんは携帯で誰かと通話していたのを耳から離した。私が恐る恐る顔を上げると目が合って(ただ、真っ黒なサングラス越しに、多分)五条くんの手から携帯が滑り落ちた。カツンと軽い音がして私の近くに来たそれを拾って差し出すと、私はそこで初めて自分が手のひらを擦り剥いていることに気付いた。

「あっごめんなさい、血が」
「や、ソレは別にいいけど…」

五条くんは、私が開いたまま差し出した携帯をひょいと受け取って通話を切り(電話の相手は何か言っていた)折り畳んでポケットに落とした。

「あー…アンタ、立てる?」
「、はい多分…」

擦り剥いたところを庇いながらどうにか立とうとしてモタついていると、五条くんが私の背中に手を当てた。その途端に身体がふわっと浮いて、気付けば私は五条くんに抱きかかえられていた。何が起こったのか分からずに目を白黒させる私に、五条くんは「引力と斥力の応用ね」とだけ言って歩き出した。分からせるつもりがないことしか分からなかった。
間近に寄ってサングラスの隙間から見えた目は真っ青で、その時私は全部夢なんじゃないかと本気で思った。
五条くんは多分、揺らさないように気遣ってゆっくり歩いてくれていた。安定した揺れと体温に緊張が緩んできた私はそこでようやく震えと涙が出て、命の恩人を困らせた。

これが出会い。

呪いにまつわる傷は何が起きるか分からないからと五条くんはその後も何度も顔を見せてくれて、結果的にただ擦り剥いただけだった私の手のひらがすっかり治った頃に、私から告白した。五条くんが「いーよ」と言ってくれたことは、間違いなく私の人生で1,2を争う幸運だった。

五条くんは私のことをとても大切にしてくれて、私には過ぎた恋人だった。
学生らしからぬ忙しさの中で時間を作って会いにきてくれて、言葉少なに私の他愛のない話を聞き、私を元気付けて帰っていくばかりだった。五条くんが恋人でいてくれることに浮かれていたのは最初の半年程度で、それから段々と私は、彼から与えられるものと私の差し出せるものの差に、後ろめたさを感じるようになっていった。

五条くんと、その…えっちなことも、何度もした。
私は五条くんが初めての相手で(すごい贅沢かもしれない)知識も経験も無くて、他のことと同様に何も返せないままだった。最中、右も左も分からなくなってしまう私とは対照的に五条くんはいつも歯を食いしばって、険しい、苦々しい顔をしていた。
一度、どうしても気になって尋ねてみたことがある。「五条くん、気持ちいい…?」と。
五条くんは一瞬目を丸くしてから、気まずそうに「…見りゃ分かんだろ」と言った。必要十分な答え、それでいて、明言は避けてくれていた。

五条くんは呪霊だとか呪術師のことを、あまり私に話さなかった。
ただ付き合い始めてからは会う度私の額にキスをして、「これで低級は近寄ってこねぇから」と言ってくれた。本当にパッタリとお化けを見かけることすら無くなったし、いつも澄んだ空気に包まれている心地がした。それはきりりと冴えた朝の空気みたいで、五条くんの目と似ていた。
私は頭の悪い表現しか出来ないけど、五条くんのことを『すごい人』なんだろうとは薄々感じていた。容姿が美しいとか勉強が出来るとか、そういう小さな物差しで測れない部分で。

一度、私が寝ている時に五条くんに電話がかかってきたことがある。
五条くんは私を起こさないように携帯を掴んで足早に部屋を出て、サニタリールームで抑え気味に話し始めた。苛立った声だった。不鮮明に漏れ聞こえた言葉を繋ぎ合わせると、『総会の日程なら覚えてる、何度も言うな、見合いはしない、結婚相手は自分で選ぶ』というようなことを言っていた。
後日私は、五条くんと初めて会った時の補助監督さんに、電話で五条くんのことを尋ねてみた。もしかして五条くんって、とても立場のある人なんですか、みたいな聞き方をしたと思う。
結果、五条くんのことを優しい恋人として小規模に捉えているのは私だけで、他の多くの人たちにとって五条くんは大きな大きな意味を持つ人だと分かったのだった。

別れを切り出したのは私だった。

「……理由、聞いてい?」

五条くんは落ち着いていた。

「五条くんの恋人が私だってことを、私が許せなくなったから」
「…俺の家のこととか?」
「他にも、いろいろ」

何もかも情けない。
何も返せない。
そのくせ自分のことしか考えてない。

五条くんは「そっか」と言った。

「俺のこと嫌いになったわけじゃねぇの?」

嫌いになんてなれるはずない。
私が頷くと五条くんはもう一度「そっか」と言った。

「最後、に…キスしていい?」

自分から言い出したくせに、別れをすんなり受け入れてくれたことにどこか傷付いた自覚があった。好きなんだなぁって、どこか他人事のように思った。
断るべきなのに私は頷いていて、五条くんはキスをくれた。

これが別れ。





ミズキは小さな魚みたいだ。
懐っこく僕の手のひらに擦り寄って、だけどいつの間にかするりとどこかに行ってしまう、小さな魚。

フラれた。
生まれて初めて恋と一目惚れをしたその小さくて綺麗な魚みたいな女の子に、ある日突然僕はフラれた。嫌われたわけではないらしいけど、あの子の言っていた理由は未だに腑に落ちてくれない。

大事にしてたつもりだった。
時間を作っては会いに行ったし喜んで話を聞いた。デートもセックスもたくさんした。ミズキが望めば何でも買い与え…ようとしたのは断られたけど。
無理をしてたつもりは無くて、ただ僕が会いたいから会いに行ったしミズキの話を聞く…というよりも、声を聞いてミズキを眺めるのが好きでいつもそうした。となると僕は自分の欲求を通してただけってことになるけど、需給のミスマッチが別れの原因かと思うとしっくりこない。

何を満たせばミズキが今でも僕の恋人でいてくれたのか、僕は今でも分からないでいる。

窓から聞き取りをして事前調査に行くのは補助監督の仕事で、僕がその資料を目にしたのは偶然だった。補助監督のデスクの上には他にも雑多な資料があったのに、ミズキの名前だけが浮き上がって僕の目に留まった。聞き取り対象の窓としてその名前が記載されていた。
で、僕はほとんど反射的に、この聞き取りは僕が行くからと言って補助監督から資料を強奪した。

ミズキから別れたいと切り出された時、最後にとキスさせてもらって、ありったけの呪力でマーキングした。ミズキに呪霊が寄らないようにってのは建前で、本音は最後の悪あがきだったわけだけど。
それが切れてまた呪霊を見かけるようになったんだろう、となるとミズキと別れてから何年になるんだっけ。考えて、簡単な引き算をやたら慎重にやって、解が出た。3年。
3年経ってもまだこんなに未練タラタラだって知られたら、もしかして決定的に嫌われるだろうか。



聞き取り調査の場として設定された喫茶店で先に席に着いていたミズキの後ろ姿は、入店してすぐに発見できた。名前の文字列が浮かび上がって見えたみたいに、ミズキの姿も何より先に目に飛び込んできた。ミズキはいつも背筋をしゃんと伸ばして座る。綺麗な後ろ姿が付き合ってた頃から好きだった。
少し奥まった半個室、適度に周囲と分断されてて話すには良い場所だ。

「久しぶり」

笑いかける。なるべく明るく柔和に、未練を悟られないように。でも僕を見たミズキの目は一瞬逃げ道を探した。ただその逃げ道は僕が塞いでいる。

「安心してよ、復縁迫ったりしないから」

言いながら席に着くと、ミズキはとても微妙な表情をした。そりゃ信用ならないか。思っきり嘘だしね。

「今日は目撃情報の聞き取りね。何でも注文していいよ、経費扱いだから」

勿論経費精算なんてするつもりないけど。ただ僕が、どんな少額でもミズキのためにお金を使いたいだけだ。
ミズキは首を振って、メニューも開かずホットコーヒーだけ注文した。
各々の前に差し出されたコーヒーに砂糖をザブザブ入れるのは、辞めておいた。
ミズキはテーブルの木目を眺めている。

「…呪術師の人が、こんな調査までするの?」
「んー、案件とタイミングによりけりかな。僕が今日手が空いてたから」

まぁ、これも嘘。
今日の任務は伊地知に調整させたし、新入生の演習ならともかく術師は聞き取りには出ない。
ミズキはずっと伏せがちだった目を丸くして、今日会ってから初めて僕を真っ直ぐに見た。3年前から、もっと言えば初めて会った時から変わらない、綺麗な目。僕の大好きな目だ。

「僕、って」
「あー…まぁ、変えた」
「話し方も…柔らかくなったね」
「ミズキは大人っぽくなった」
「3年分くらいね」

3年。僕はその3年分のミズキを見逃した。
落ち着いてるふりをして理解のあるふりをして余裕ぶって、別れたくないって縋り付く度胸もなくて、その結果がこれだ。
付き合ってた頃にはコーヒーが苦手だったミズキがいつから飲むようになったのか、僕は知らない。

「…ごめん、嘘吐いた」

ミズキが小さく首を傾げて『嘘』の対象を探した。

「今日は口説きに来た」

わざわざ私服で、包帯を取ってサングラスをして、ミズキに会うためにここに来た。
ミズキは悲しそうな顔をして、また目を伏せてしまった。

「…やめよ?五条くん、終わった話だよ」
「嫌だ。ミズキの言った別れたい理由だってまだ納得してない」
「言った通りの意味だよ」
「それが分かんないって言ってる。僕に愛想が尽きたなら『失せろクソ野郎』ぐらい言ってくれなきゃ諦められない」
「言えないよ…」

ミズキは痛みに耐えるみたいに眉を寄せた。

「言えないのは、ミズキが優しいから?それとも僕に少しでも情が残ってるから?」

ミズキの表情に小刻みな瞬きと口元の微妙な揺らぎ、それが何を意味するのかは分からない。
臆病な魚を狭い所に追い込むのが酷だっていうのは分かるけど、僕はどうしてももうこの子を逃したくない。

「会わなかった3年の間に綺麗になったミズキを他の男が見てたのが嫌だ。今日このまま何も言わずに次の3年も見逃すのはもっと嫌だ」

気付いたら僕は随分前のめりになっていて、ミズキがふっと顔を逸らしてしまった。謝って背凭れに戻り、コーヒーに口を付ける。苦い。

「…五条くん今日は、聞き取り調査のはずでしょ?」
「そうだね、ごめん。コレ飲んだら少し移動しようか」
「どこへ?」

実況見分。

ミズキが呪霊を目撃した場所に連れて行ってもらって本当にいたからサクッと祓った。
ミズキは呆気に取られてしばらく何も言えない様子で、やっと「…補助監督の人が、」と口にした。

「1級案件になる可能性があるって、言ってた」
「うんまぁ、1級相当だったかな」

今までミズキの前で呪術師の仕事をしたことは無かった。なるべく危険から遠ざけておきたかったから。僕にとってはこれも『大事にする』の一環だったわけだけど、ミズキは苦しそうに眉を寄せた。

「…だからなの」
「うん?」
「私…五条くんのこと、何も知らない」

焚き火から灰が舞うみたいに呪霊の残渣が散っていくのを、ミズキは真剣に見つめている。規制線の張られた薄暗い廃ビルの中は、別れた恋人に復縁を迫るにはきっと相応しくない。ひゅうひゅうと寒い。

「五条くんがすごく立場のある人だっていうのも、途中まで知らなかった。…今もまだ、多分本当には分かってない」

だけどミズキは明るい喫茶店では言わなかったことを、僕が満たせなかった何かを、今教えてくれようとしてるのかもしれない。それを満たしたら、寒そうな背中を温める許しをくれるだろうか。

「いつも私の何でもない話を聞いて元気付けて帰っていくの。疲れてても教えてくれないし、何でも買ってくれようとしたり、私、何も返せない」
「…それが、『自分で許せなくなった』ってこと?」

ミズキの後ろ姿がコクンと頷いた。

「すごく遠い、星みたいに」

許しはまだもらってないけどミズキの後ろから、寒そうな背中に僕の上着を被せた。ミズキは僕の上着にすっぽり包まれて少し驚いた後、「五条くんのにおいがする」と言って泣いた。

ミズキの声が好きで、楽しそうに話してるのを横で聞いてるのが好きだった。僕は自分が意外と寡黙だってことにミズキと付き合ってから気が付いた。ただ心地良かった。呪術界から束の間離れてただミズキの恋人でいる時間には大きな意味があった。だからどんな任務の後だろうがミズキの前で疲れた顔をしなかったのは、隠してたんじゃなくて本当に癒されてたからだ。
ミズキに触るのも大好きだった。温かくて柔らかくて甘くて優しくて、キスをすると幸せな気持ちになった。ミズキとのキスは格別だった。ミズキを抱き締めると本当に不平不満も疲れも怒りも、必要ないものは全部吹き飛ぶような気がした。寝る暇があるならミズキに会いたいと本気で思ってた。
勿論これらは全部、今も。
…というのを言葉を尽くして説明している途中で、ミズキは真っ赤になって「もういい、分かった」と言った。

寒いのを言い訳に最寄りのセーフハウスにミズキを連れ込んでソファに座らせて、僕はその足元に座っている。僕の言葉に感情を揺さぶられてるミズキを見上げるのは最高の気分。

「ねぇ分かってくれた?僕がミズキのことどれだけ好きか、本当に分かってくれてる?もう『終わった話』とか言わない?」
「言わない、から…っ」
「高専卒業したら結婚しようって本気で思ってたんだよ僕、なのにフラれちゃって一時期荒れ放題になったよね」
「ご、ごめんなさい…」
「好きだよ。書類にミズキの名前見付けて苗字変わってないって心底安心したし、指輪してないか会ってすぐ確認した」
「…五条くんと付き合った後で、他に好きな人なんてできないよ」
「ハァ?可愛過ぎキレたもう抱く」

勿論ミズキが急すぎて嫌だって言ったら我慢するつもりだった。けどミズキの反応は予想外で、「五条くんは私としても気持ち良くないよね…?」なんて言い出す始末。
何その地獄みたいな誤解??
それで、丁重に誤解を解きながら、僕にとって腰が融ける脳がバグると思ったのはミズキとのセックスが初めてで、どれだけ必要で重要か、行為を再現しながら僕の大事なお魚ちゃんに何度も何度も伝えた。最終的に泣きながら「も、いいからぁっ」って言われたのは、久しぶりの身体にズンときた。

後日、ミズキに高専を案内した。
高専にも僕の部屋があるし、セーフハウスのどれかでも高専でも好きなところを選んでもらうために。
任務帰りの傑と鉢合わせて渋々紹介すると、傑がニンマリ笑った。

「あぁ…任務中に悟が通話を切った時の、あの子かな。会わせてもらうのに随分時間がかかったね」
「余計なこと言うなよ変な前髪」
「私が何度注意しても聞かなかったのに、悟は君に振られて一人称を変えたんだよ」
「おい聞いてる?」

あ"ーコレだから紹介したくなかったんだよ、格好付かないったらない。
でもミズキは嬉しそうにして僕の手を握り返してくれた。
悪くないね。本当、悪くない。



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ネタポストより『高専五条と付き合ってたけど五条家当主の壁があり別れを告げた夢主、何年後かに再会して五条から猛烈に口説かれるお話』
ネタ提供ありがとうございました!

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