テラリウムの攻防


「あれ、夏油くん?」

背後から掛かったのは待ち望んだ声だったけど、それを悟られちゃいけない。なるべく自然に、少し驚いた風を装って振り向いて返事をした。多分私は「やぁ」とか言った、はずだ。
入学から今まで立ち入ったことのなかった文学部棟において、しかも圧倒的に女の子の多い講堂で、図体のでかい私は明らかに浮いてる。

「夏油くん工学部だよね?英文科の講義取るの?」

ミズキちゃんはここが文学部棟なのを確認するみたいに講堂を見回した。

「好きな建築家の作品集があるんだけど、日本語版が出てないんだ。解説を読みたくてね」
「すごい、熱心だね」
「道楽だよ」

実際、不純な動機しかない。知人のツテで英文科ならほぼ確実に履修する講義を聞き出した。つまり入試で使って以来触れてない英語を、週一でミズキちゃんに会うために履修したわけだ。
周りが私を好奇の目で見てる気配がする。

「…ミズキちゃん、図々しいお願いしてもいいかな?」
「なんなりと!」

ミズキちゃんは目を輝かせてにっこり笑った。この子のこういう善性は美点だし好きなところだけど、万人に対してこんな調子じゃ心配だな。

「よければ近くの席に座ってくれないかな。この講義、取ったはいいけど女の子ばかりで身の置き場がなくて」
「英文科がメインだからね」

ミズキちゃんはくすくす笑って、私の隣の席に座ってくれた。鞄からノートとペンケースを出す。派手じゃないけど可愛らしくて、丁寧に扱われているのが分かる道具たち。

「夏油くんの隣で居眠りしないようにしないとね」

正直隣でウトウトしてくれて全然構わない。肩にカーディガンを掛けてあげる口実になるし、シンプルに見たいし。
英文科メインの講義ならこの講堂の中にミズキちゃんの友達だとか顔見知りがたくさんいるだろう。私の彼氏面がさっさと色んな噂になって広まってくれることを願うばかりだ。

講義の内容はまぁ努力すればついていけなくもないという印象で、受験で詰め込んだ英語を頭の奥から引っ張り出した。ただやっぱりそれは片隅での作業に過ぎず、私の注意はその大半が隣に注がれていた。
窓から差す光がミズキちゃんの癖のない髪を照らしている。私と同じ黒髪に見えるけど彼女の髪は茶に近くて、照らされたところは金色に輝いて見えた。小ぢんまりした横顔の中で、髪と同じ色の睫毛が小鳥みたいに動いている。白い手がこまめに字を綴っていく。
彼女がふと私の方を見て「どうかした?」と笑ってくれた。「なんでもないよ」と答えたのは、ごめんね嘘なんだけど。
ミズキちゃんのノートを横目に見ると丁寧な文字が並んでいて、少し脱線した教授の話もノートの隅にメモしてあった。
この講義、取って良かった。心底良かった。


「夏油くんは字も綺麗だね」

あっという間に講義は終わってノートやペンケースを片付けながら、私は言おうとしていたことを先に言われた。面食らった。

「そう、かな。自分では思ったことがないけど」
「そうだよ。さらさらーって書いてるのに、読みやすくて綺麗」

何の下心も打算もなく褒めてくれてるのが分かって、本気で照れてしまった。緩むのを抑えたい口元が変に強張る。

「ミズキちゃんも綺麗だよ」
「私書くの遅くってね、いつも必死なの」

流された。とはいえ、これも無自覚のことだろう。何にしても手強い。

「この後時間はあるかな?お昼一緒にどうかなって思うんだけど」
「ぜひ!」

流れを作るには最初が肝心。でもこんな誘いに明るく応じてくれてるようじゃ駄目だ。

私は彼女の連絡先を知らない。
初めて会った場から移った店で聞こうとしたけど、ミズキちゃんは一瞬困った顔を悟に向けた。それに対して悟は薄く笑って首を振って、今度はミズキちゃんの困り顔が私に向く。「連絡先、傑には教えないで?」とか言ったに違いない。悟のことはもう一回殴ってやろうかと思ったけど、ミズキちゃんの手前辞めておいた。

「悟とはあれから連絡取ってるの?」

学食は混むからと理由を付けてファミレスのテーブルに落ち着いて、私は本題のひとつに触れた。
ミズキちゃんは見終わったメニューをテーブルの端に立てながら笑った。

「1回ご飯に誘ってもらったけど、予定が合わなくて」
「そっか」

連絡はしてる、と。

「妬けるね」
「うん?」
「何でもないよ。…ねぇ、私も何か特別が欲しいな」

ミズキちゃんが首を傾げた。あぁもう可愛いなこの子。

「悟から私には連絡先を渡さないように言われてるだろう?それって不公平だと思わない?私だって仲良くなりたいのに悲しいな」
「、ご、めん、なさい…?」

虚を突かれると謝っちゃうタイプ。悪い悟に言いくるめられないか心配だな。
ミズキちゃんは困り顔で「でも特別って、例えばどんな…?」と辺りを見回した。周囲にヒントを求めるみたいに。
私は「そうだなぁ」と考えるふりを一応しながら、答えは既に固めてあるんだけど。

「ミズキちゃん誕生日はいつ?」

日付を聞くと来月。いいね。

「じゃあその日、私にお祝いさせて」
「夏油くんが…?」
「まだそんなに仲良くないから嫌かな?」
「そんなことないっ…夏油くん優しいし、お話楽しいよ」
「良かったよ。じゃあ次の講義までにどこか予約しておくから」

ミズキちゃんはまだ飲み込みきれない感じの顔で、それでもこくんと頷いて「ありがとう」と言ってくれた。来週の講義で会うまで、たくさん戸惑って私のことを考えてくれるといい。
あぁそうだ、

「このこと悟には言わないで。いい?」
「ぁ…はい、うん、…?」
「はは、混乱してるね」

お互いにスマホを持ってて敢えて連絡先を交換せずに、日時の口約束をする。こういうのも趣があっていいかもね。
私のミックスグリルとミズキちゃんのパスタがきた。
さて、まずはお店とプレゼントだ。





無数の人間が行き交う風景の中でミズキの姿だけ浮き上がって見えた。すぐに駆け寄って(息を整えてから)「よ」って言おうとして半端に「お」みたいな声になった。
ミズキが振り向いて、視線の高さが俺の胸、上にスライドしてやっと俺を発見する。それでパッと笑った。

「五条くんだ」
「そ、五条くん」
「久しぶりだ」

そーね。
一回決死の覚悟で飯に誘って予定が合わなくて流れたからな。学部違うってこんなに難しいか?ほとんど毎日昼と夜を誰かに誘われるから皆ヒマなんだろうと思ってたけど何か違った。
まぁ、待ち合わせもしてない休みの日に街中で偶然会えたんだから±0ってとこだろう。

「そっち何してんの」
「文房具屋さん見るの好きなの」
「あー、使い切らない量の付箋とか買ってそう」
「五条くんもしかして私とすごく付き合い長い?」

付き合いてぇよバーーーカ。
俺の方の用事を聞かれたから、少しボカして「適当に服買いに」と答えておいた。

今まで、寒けりゃ厚手の服を着るしそれで暑くなれば袖を捲るとか、とにかくあまり重ね着しようと思ったことがなかった。だって面倒だし。でもそれでミズキにカーディガンを貸し損ねたわけで、あの時の傑の勝ち誇った顔は今思い出しても腹が立つ。ただ、本人を目の前にして『悔しかったのでカーディガン買いに来ました』は、何か、言えねーだろ。
でも好機を逃す手は無いよな。

「この後暇ある?選ぶの手伝って」
「ん!でも五条くん何着ても似合いそう」

ナチュラルボーン人誑しめ、呑気にニコニコしやがって。こっちは内心ド緊張してるっつーのに。

ミズキの歩く速さは前回で覚えた。俺の1歩を3分割するような歩き方。こんな小刻みでむしろ歩き難くないんだろうかと思ったけど、立ち止まった時に並んだ足を見たらびっくりするほど小さくて、それで歩幅にも納得した。合わせて歩くのも悪くない。

傑のカーディガンを着てた…と言うか着られてた時、ほとんどワンピースみたいになって袖も余りまくってた。あの時傑がどんな気分だったのかは知らねぇけど、服を貸したのが俺ならとは思ったし今も思っている。

買ったことのある店に適当に入って、一列に並んで吊り下げられたグレーのカーディガンから一番大きいサイズを手に取った。

「腕広げて」
「え、私?」
「いーから」

戸惑うミズキから鞄を取り上げて、ハンガーから外したカーディガンを肩に掛けた。袖を持ち上げて促すと首を傾げながら腕を通してくれたけど、中々手が袖口まで届かない。どうにか両手を通したら、あの時と似たような格好になった。

「うんイイ感じ」
「どの辺が??」
「全体的に」

何一つ納得してない様子で余った袖や裾を見てるミズキからカーディガンを回収してレジに置く。店員にタグを切らせてすぐに羽織ると、袖も裾も俺には丁度だった。

それで店を出たはいいけど、このまま解散は惜しい。時間的に昼飯は済んでるだろうしどうするか…と思ってたところで、通りの向こうにあの緑色の看板が見えた。

「ミズキ、昼飯は済んでるよな」
「うん」
「スタバ別腹の子は挙手」
「はい!」

いい返事。でもさぁこうも無邪気にされる内はまだまだなんだよな。

連絡先を傑には渡さないように言ったけど、そのアドバンテージを活かせてるとは現状言い難い。メシに誘ったのは企画倒れになったし、この後また誘うとしても悠長にはしてられない。傑が大人しくしてるとは思えない。

店に入るとミズキに選ばせて先に席に行かせた。会計済ませてトレイを持って2階へ。ざっと見回すと窓際のソファにミズキは座っていた。3秒、動けないで俺はミズキを見てた。
ミズキは色が白い。俺も白い方だけど、肌の柔らかそうな感じだとか爪の色形だとか、俺とミズキは全然違う。明るい窓辺でミズキは光ってるように見えた。あの子が今、俺を待ってる。今日、会えて良かった。心底良かった。

「お待た」
「五条くん」

「お金返す」「別にいい」の会話は俺に受け取る意思が無いんだからさっさと切り上げて、

「あとコレ」

テーブルにテディベアを置くと、ミズキが目を丸くした。

「どうして、」
「見てたからほしいのかと思って」
「で、でも、うけ、とれないよ、悪すぎる」
「っても返されたら俺も困るし、誕生日プレゼントとかで良くね?」

俺が自分のコーヒー(と言うより生クリーム)に口を付けてると、ミズキはその白いクマを膝に乗せて撫でた。

「…ありがとう、かわいい」

ふわ、と笑う。
可愛いのはお前なんだよ馬鹿。
生クリームの下から熱いコーヒーが口に当たった。熱いのを誤魔化して「別に」と言った。

「そういや誕生日いつ?」

俺がこれを言った途端にミズキは硬直して目を泳がせた。膝の上のクマも心なしかぎこちない。
誕生日聞かれて困る状況ってあるか?色んな可能性を考えてる内にふと糸目前髪が思い浮かんで、畜生何かもうソレとしか思えなくなった。「傑?」とミズキに投げかけてみると丸い頭がこくんと頷いた。大方俺が言ったのと同じように「悟には言わないで。いい?」とか言ったに違いない。あ゛ークッソやられた。

ミズキのことだから俺のお願いを無下にはしてないだろう。となるとどこで会ったって話になるけど、聞けば英文科の講義で『偶然』一緒になったという。好きな建築家の作品集を読みたいからとか尤もらしい優等生な言い訳してるけど、下心しかないのバレてるからなミズキ以外には。
その作品集とやらの英題を聞いて検索すれば、絶版にはなってるけど日本語版もちゃんとあるし。ミズキは疑わないから検索すらしてないだろう。

「バラすのは簡単だけどなぁ」
「?何のこと…?」
「こっちの話」

ーーー夏油くんほら、五条くんが日本語版見付けてくれたよ。
ーーー…それ、本当は知ってたんだ。ミズキと会う口実が欲しくて、ごめんね。
とかなんとか、ハイ想像余裕。同じ講義取ってる時点で期末まで週1で会うのは変わんねぇし。
現状泳がせるのがベターか…とは思いつつ、軽くイラついたのでミズキの頬っぺたをぷにぷに突いておいた。柔らけ。

「痛…くはないけど!やめてー」
「なーなー傑のせいで俺誕生日も教えてもらえねぇの。可哀想じゃない?仕方ねぇから会う度バカみたいにプレゼント渡すわ」
「仕方なくないよ?!これ以上もらえないってば」
「だって好きな子に好きになってもらいたいじゃん」

ミズキが「え」と声を詰まらせて口をはくはくさせて俺を見た。あーしくった、勢いで口が滑った。

「あー…一回聞かなかったことにしてもらえる?近い内にちゃんとやり直すから」
「ぇ、えぇ…?」
「とりあえず来月かな。それまでに俺のこと好きになってね」

にや、と笑った俺は我ながら悪人面だったろう。
来月まで俺のことばっか考えとけ。

「コーヒー飲めば?」

ミズキが俺のあげたクマを抱いたまま真っ赤になってるのは良い眺めだった。
さて、とりあえず店と何かまたプレゼントしよ。





天気のいい日、学内のカフェテリアにミズキを見付けた。あの子はいつも猫みたいに、いつの間にか居心地のいい場所を見付けて陽だまりに座っている。
近付いて声を掛けるとミズキはパッと笑顔になった。

「硝子ちゃん」

ミズキが広げていたプリントや辞書を端に寄せてくれて、私が向かいの席に着く。

「課題?」
「ううん、夏油くんの好きな建築家の作品集なんだって。コピーさせてもらったの」

ア?と言いたいのは、ミズキの手前飲み込んだ。
事情を聞き出してみると、夏油はらしくないほど積極的に動いているようだった。普段は自分から動かず擬似餌で獲物を待つタイプのくせに。

「『偶然』ねぇ?工学部が?文学部の講義取って?女子が多いから?隣に座って?」
「そうそう」
「『などと証言しており』って締め括るやつな」
「尋問受けてる」

ミズキがカラカラと笑った。駄目だコレは本気にしてない。ミズキのことだから、夏油の下心見え見えの建前をまるっと信じてるんだろう。
ミズキがA4の紙を束にしてトントンと整えた。角の揃った束からは所々猫やら花の付箋が飛び出ている。

「次に会ったら『G○○gle翻訳にブチ込めよクズ野郎』って言ってやりな」
「硝子ちゃん可愛いお口が汚いですよ」
「私は可愛いミズキの心配してんの。このままじゃ悪い夏油に丸め込まれる」
「もー絵本の狐みたいに言って」
「あぁ大体合ってる」

この善意の塊みたいな子が夏油の毒牙に掛かるって、絶対に正しくない。あんな女誑しと付き合ったら泣きを見るに決まってる。
ーーー硝子ちゃん聞いてひどいの、夏油くんが浮気してるみたい…
とかなんとか、50パターンくらい余裕で思い浮かぶ。ちなみに夏油の名前を五条に変えても文章は成立する。

「いい?五条や夏油から2人っきりで会おうとか密室に誘われても乗っちゃ駄目。ぬいぐるみとか渡されたら盗聴盗撮を警戒しな」
「え、でもお店で買ってその場でくれたんだし…」
「おーその話詳しく聞こうか」

尋問の結果、どうやら五条もらしくなく積極的に働きかけているようだった。
あのクソガキ五条が。自分から誘って奢って。見てたってだけでクマ買って渡して。何か幼子が初めて逆上がり成功したみたいな感慨あるわ。

ミズキは五条のことを話しながら、段々と言葉に詰まって顔を赤くした。私に話してない部分で五条に何か言われたんだろう。腐れ縁の輩がどんな風に女を口説くかなんて知りたくねー。

もしも夏油と五条が本気だとして、心を総入れ替えしてミズキを大切にするとしたらどうだろう。ビジュアルギフテッドなのは認める。ただその美点を補って余りある欠点が人格の破綻と女癖の悪さだったわけで………

「…やっぱ無いわ。心底無い」
「うん?何の話?」

ミズキがこてんと首を傾げた。あーもう可愛いなこの生き物。

「それよりミズキ、来月誕生日でしょ。どっかご飯行こ。何曜日だっけ」
「あ、その日夏油くんが誘ってくれててね」
「おーその話も詳しく聞こうか」

前髪め。優等生面して実は煙草吸ってんのバラしてやろうか。どうせ「悟には言わないで。いい?」とか何とか言って誘ったんだろう。
その時ミズキの背後にクズ2人を見付けて思わず「げ」と言ったのが良くなかった。ミズキが振り向いて奴等を視認して、あっちも当然気付いて寄ってくる。

「3人ともここから学部棟遠いのに、すごい偶然だね」

偶然()ね。

「ミズキ、あれらは見なかったことにしよう。逃げるのは無理っぽいから何言われても返事しない。そういう妖怪だと思えばいい」
「え、え?でも、」

私の綺麗なテラリウム。土足厳禁男子禁制、特にクズ野郎は。


***

ネタポストより『悪癖のワルツの続き』でした。
きっとこの人たち翌月のお誕生日には4人でお店に行ってまた3人がテーブル下で蹴り合います。
リクエストありがとうございました!

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