入学式を終え、教室で教員の話が終わって解散となるとすぐに、少年は鞄も持たずに教室を飛び出した。周囲では今日から彼のクラスメイトになった同級生たちがあまりの剣幕に目を丸くしている。
廊下に出た彼はすぐ隣の教室に躊躇なく飛び込んで腹の底から叫んだ。

「ミズキ!!」

それはそのクラスの副担任をしている女性教員の名前だった。呼ばれた当人含め室内の全員が何事かと少年を見た。衆人環視の中を彼は前のめりに教壇へ歩み寄って、ミズキに正対した。
真ん丸に見開かれた彼女の目を、爛々と輝く少年の目が射貫くように見た。

「俺と結婚してくれ!!」

事が飲み込めない沈黙が数秒流れた後で、衆人が沸く中、ミズキは咄嗟に彼の手を取って教室を出た。出掛けに振り返って担任の男性教員に「指導室で!事情を聞きます!」と宣言してその場を足早に去った。去ったふたりの後姿が廊下の角を曲がって消えるまで、教室から大勢が身を乗り出して見物していた。



「…えっと、とにかく、一旦落ち着きましょう」

指導室の戸を閉めるとミズキは大きく息をついた。彼女は少年に椅子を勧めたけれど、彼は立ったまま真っ直ぐにミズキを見つめていた。少年の髪は黄色くぴんぴんと跳ね、毛先は炎のように赤い。猛禽類のように爛々と輝く目も、夕日のように赤い。
ミズキはその赤く輝く少年の目を直視することが出来ずに、机の人工的な木目を無意味に目で追っていた。

「あの、何て言ったらいいか…」
「ミズキ」

ミズキの俯いた横顔に彼がつかつかと詰め寄って、腕を掴み半ば強引に彼女の顔を覗き込んだ。成長期を迎える前の彼の視線の高さはミズキとほぼ水平だった。正面から見つめられてミズキの表情が僅かに揺れた。

「俺を覚えているな?」

少年の声は確信を含んでいた。みるみるミズキの目に涙が溜まって転がるように零れ落ちて、そのまま泣き崩れた彼女を彼が抱き締めて髪に頬を寄せた。
ころころと流れ続ける涙が次々に真新しい制服の肩に落ちて濡らした。ミズキの前世の記憶よりも肩幅や身幅が狭く、胸板も薄い。背の高さも違う。声にもまだ重さがなく、少年の声だ。それでも間違いなく彼は煉獄杏寿郎だった。悲鳴のような声でミズキが何度も呼ぶと、彼はその温かい手で繰り返し彼女の髪や背中を撫でた。

「見付けたぞ、約束したろう」

杏寿郎の腕の中で、ミズキが何度も頷いた。彼は腕の中の嗚咽が治まるまでずっと繰り返し宥め、何度も耳元で名前を呼び、ひとり遺してしまったことを詫び続けた。
痛々しいほどの嗚咽が徐々に治まってくるとミズキは少し身体を離し、涙でぐずぐずに崩れてしまった目元にハンカチを当てて隠した。

「…見ないでください」
「難しい相談だな、何年追い求めてきたことか!」
「私だって、そうです」
「ほら、そんなに目を擦るんじゃない。傷になってしまうぞ」

ミズキは手近なキャビネットのガラス面で薄っすら顔を確認して、おずおずと杏寿郎と視線を交えた。赤く泣き腫らした目元であろうと、彼は至極しあわせそうに、喉を鳴らす猫のように満足気に、前世の妻を見た。
杏寿郎は彼女の頬に手を添え、赤い目元を労わるようにすりすりと撫でた。

「口付けをしてもいいだろうか」
「え、だめです」
「よもや!」
「よもやじゃないです、私は教員ですよ?」
「俺の妻だ!」
「前世の妻は今教員です。前世の旦那様は学生さんでいらっしゃいます」
「あまりにも不条理だ」

本気で打ちひしがれている杏寿郎を前に、ミズキはくすくすと笑った。こんな風に素直に駄々をこねたり、しょんぼりと肩を落としたりするだなんて、前世の彼ならば想像出来なかったし、彼女が見せてほしいと望んでいたものだった。
平和な世が彼を包んでいることが、嬉しくて愛しくてたまらなかった。あと、少し微笑ましかった。
杏寿郎の方は、前世の妻と奇跡の再会を果たしたのにキスのひとつも許されないことに本気で拗ねている。

「ミズキが年上だなんて聞いていない。何故だ、どれだけ後輩たちを血眼で探したと思っている」
「私だって、杏寿郎さまはきっと年上だろうからと思って先輩ばかり探していました。範囲を広げすぎて老人ホームを覗いたことだってあるんですよ」
「俺も近所の幼稚園を見に行って通報されかけたことがある」
「なんてこと、炎柱さまが」

堪えきれずふたりで笑い合った。
年齢による体格の違いこそあれ、杏寿郎の気持ちのいい笑い方は前世からそのまま引き継がれていた。ミズキの方も笑う時に口元に添える手の形や眉の具合、肩の揺らし方まで、杏寿郎の記憶にある彼女と相違なかった。
あぁ本当に夫に、妻に、会えたのだと、ふたりともが笑いながらまた少し泣きそうになった。
「ミズキ」と呼んで杏寿郎が彼女の手を取った。

「今度こそ貴女を前世の分まで幸せにすると約束するから、卒業を待ってどうかまた俺と結婚してくれ」

ミズキはにっこりと笑って、二文字ぶん唇を動かした。

「…是非、で合っているか?」

頷いた。

「後悔しないか」

また笑って、頷いた。



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