ひとつの任務を終えて藤の家で一晩過ごした杏寿郎の元へ、一羽の鴉が降りた。脚に何か小包のようなものが括り付けられており、珍しく思いながら杏寿郎は鴉の脚からそれを外した。手に取ってみると、それがミズキの日頃使う手帳であることはすぐに分かった。
ミズキがしのぶの鴉を借りて送ってきたということだろうか、それとも送り主はしのぶか、そもそも何故これを、といくつも疑問を持ちつつ、手帳に巻き付けられていた革紐を解いた。
何か手紙でも挟んであるのかと見てもそれらしいものはない。ただ、背表紙に近い位置で1枚紙が歪んで波打っている箇所があった。
ミズキがしのぶから与えられたものをぞんざいに扱うところは見たことがなく、不審に感じて、少し躊躇しつつもその部分を開いた。


杏寿郎は布団を畳むと部屋を出て家人に朝食を断って礼を伝え、急ぐからと見送りや口火も断って足早に門を出た。門を出た途端に、隼の羽が空を切るような音を残して杏寿郎の姿はその場から消えた。


「お早いお着きですね」としのぶは言った。杏寿郎が蝶屋敷の玄関扉を開けると彼女は框に座っていて、杏寿郎の顔を見ると立ち上がった。

「この女を出せ、俺が話をする!」

ミズキの手帳を持つ手には握り潰さんばかりに力が込められ、怒りに打ち震えていた。

「それはできません」
「何故だ!」
「行方が知れませんから」

しのぶが静かにそう言うと、杏寿郎の手の震えはひとまず治まった。口は真一文字に結んだまま。

「すみません、我慢できなかったもので。お館様に文を出しましたから、本日付で除隊処分になるでしょう」
「そうか」
「お上がりください」

しのぶに促されて杏寿郎は履物を脱ぎ、そのまま彼女が屋敷の奥へ歩みを進めるのに従った。

「ミズキさんは今洗濯をしてくれています。洗濯場はこのまま真っ直ぐ行って突き当たりを左、次を右です。過度に驚かせないようにお願いしますね」

「それでは」と言い残してしのぶは廊下の途中の戸に入っていった。杏寿郎は言われた道順を辿り、微かな水音を耳に拾って一度立ち止まった。

「ミズキさん」

ごく小さく抑えた声でぽつりと呼ぶと、洗濯場からカタンと硬いものを取り落とす音がして水音が止まり、人の動く気配があった。
恐る恐るという感じで戸口に出てきた顔が、杏寿郎を見た途端に強張って一歩引いた。

「忙しいところすまない、少し話せるだろうか?」

杏寿郎は穏やかにまなじりを下げ、優しく話しかけたけれど、ミズキは心臓を庇うように胸の前に手をやって、首を振った。そして一度深く頭を下げると杏寿郎の横をすり抜けて廊下を逃げた。

「待ってくれ」

勿論杏寿郎が本気で捕らえようと思えばその細い手首を掴むことなど雑作もないのだけれど、彼は努めてゆっくりとミズキの後を追った。彼女は階段を駆け上がり、いつも自分の寝起きしている部屋へ駆け込んで扉を固く閉め、その内側にへたり込んだ。
こんこん、とその扉が優しく叩かれた。

「驚かせてしまってすまない。実は貴女の身に何が起こったのか、あらましは聞いた」

扉の内側でミズキの涙の落ちる気配を杏寿郎は感じ取り、扉に正対して膝をついた。

「どうか誤解しないでもらいたいのだが、俺は貴女に同情なぞしていない。残酷な運命に見舞われても懸命に働いて生き、なお人に優しさを分け与える貴女を心から尊敬する」

かりかりと万年筆の音がした後、扉の隙間から1枚の紙が差し出された。

『お心遣いに何度救われたか分かりません。ですがもう、これ以上は甘えてばかりいられません』
「…ミズキさん、やはり顔を見せてもらえないだろうか?このままだと扉越しに愛を告白することになってしまう」

扉越しにもミズキの動揺が手に取るように分かった。

「俺はミズキさんを愛している。貴女の身に起こった不幸につけ込むようで伝えられずにいたことを悔いているところだ。顔を見てもう一度告白してもいいだろうか」

ややあって扉が薄く開き、床にへたり込んだままのミズキがそっと顔を覗かせた。
杏寿郎は優しく扉を押して開き、ミズキの手を取った。

「愛している。ただ、気負う必要はない。なんならどうか利用してくれと俺の方から請いたいくらいだ!」

ははは!といつものように杏寿郎が堂々と笑うと、ミズキは目元の涙を拭ってから胸の前で手の形を変えた。以前に杏寿郎がしのぶに意味を尋ねた手指の形だった。

「ム、それだ!その意味が知りたくてな、胡蝶に尋ねたのだが教えてもらえなかった!」

ミズキはゆっくりと2文字分唇を動かした。

「す、き、…で合っているか?」

ミズキが頷いた。

「都合よく解釈して構わないか?」

もう一度頷いた。ミズキが赤くなった顔を覆うと、2本の大きな腕がその上から丸ごと彼女を抱き締めた。

「ありがとう!俺は今とんでもなく幸せだ!」

ミズキが顔を覆っていた手をおずおずと杏寿郎の背中に回すと、彼女を抱く腕はいっそう嬉しそうに力を強くした。

「この美しい人は俺のものだと触れて回りたいのだが、生憎時間がない!また近い内に会いに来るから、いい子で待っておいで」

杏寿郎はミズキの髪に口付けをひとつ落とすと、颯爽と去っていった。
ミズキはしばらくその場から動けずにいたけれど、洗濯が途中なのを思い出してふわふわと浮いたような頭のまま洗濯場へ戻ったのだった。



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