ミズキの髪は長く艶やかで、甘い匂いがする。実弥がミズキのことを思い出そうとして最初に頭に浮かぶのはいつも、彼の膝に機嫌よく収まってはしゃぐ後ろ姿の髪の匂いと撫でた手触りと、振り向いて見上げてくる大きな目だった。
幼い頃からミズキの髪は長く綺麗で、寿美や貞子はよくミズキの髪を凝った形に編んだりあれこれ飾りを付けて遊んでいた。
ある日学校でミズキを見たとき実弥は驚きのあまり咽せた。ミズキの髪が肩にもつかないほど短くなっていた。
普段であれば『学校では先生と呼べ』だとか『必要以上に構うな』と実弥が突っ撥ねる側だというのに、生徒の行き交う廊下でミズキの肩を掴んで振り向かせ、「お前、髪は」と気付けば言っていた。
ミズキはへらっと笑った。
「ちょっと気分転換、似合います?先生」
実弥が何も言えずにいる間にミズキは彼の手からすり抜けて駆けていった。その後ろ姿に見慣れた髪の尻尾がなく、別人のようで、実弥はしばらく呆然と眺めていた。
勿論のことその夜ミズキが不死川家に顔を出すと寿美と貞子は絶叫した。特に貞子はショックのあまり泣き出してしまい、ミズキは抱き締めて小さい背中を撫でてやりながら「ごめんね、大丈夫また伸びるよ」と笑い掛けていた。
いつもより早く帰宅していた実弥はそれを見ながら、今までであれば見えることのなかった背中や後ろ首をやけに寒々しく感じていた。
夕食の後にいつも通り数学復習会の支度が整って実弥はいつもの位置に胡座をかいたけれど、ミズキは彼の隣に座った。実弥が思わず目を丸くしてミズキを見ると、彼女は「じゃあ先生、お願いしまーす」と悪戯っぽく笑って見せた。
実弥は『どうした』と言いかけて、けれど口に出すことは出来なかった。『いつもみたいに膝に座れ』とも言えない。
ほんの少しぎこちなくいつも通りの勉強会は進み、飽くまでにこやかにミズキは帰って行った。
「なに、あれ」
ミズキが帰った途端に寿美が呟いた。
昨日ミズキは珍しく不死川家に来ず、「ミズキちゃん美容院行くって」と寿美が言っていたけれど、まさかここまでバッサリ切ってしまうとは誰も思っていなかった。
「気分転換だとよ」
「まさかそれ信じるの?」
中学生の妹に睨まれて、実弥は黙るしかなかった。
数日後の昼休み、隣の中等部に通う寿美から呼び出された実弥は珍しい事態に悪い予感を募らせながら、指定の通り中等部と高等部の間の職員駐車場へ赴いた。
実弥がその場所へ着いた時には既に寿美は来ていて、蹲って顔を伏せていた。
体調でも悪くしたかと心配して実弥が声を掛けると、顔を上げた寿美の表情は怒りに赤らんでいた。
「さね兄」
「どうした」
「ミズキちゃんの仇を討ってよ」
唐突で物騒な発言を実弥が訝しんでいると、寿美は言葉を再開した。
ミズキと同じ美容院に通う寿美は電話で問い合わせ、髪を切りに来た時のミズキの様子を知ることができたそうだ。
「ひと束だけ不自然に短くなってて、目立たないように揃えたって言ってた!短くなってたとこは切り口が汚くて、多分普通のハサミで強引に切ったんだろうって!
だから私調べたの、どこのどいつよ絶対許さないって思ったから!」
怒りのあまり息が荒くなっている寿美の肩に手を置いて、実弥は「うん、うん」と静かに聞いていた。寿美の説明に登場した名前をしっかり記憶した。
「さね兄、私絶対許さないから、許さない、許さない!」
「うん」
「私ミズキちゃんのこと大好きなの、大事なの」
「うん」
「さね兄は?」
「俺もだよ」
「知ってたけど」
「うん」
「だからお願い、仇を討ってよ」
「うん」
「兄ちゃんがどうにかしてやるからな」と言って実弥は寿美の頭をぽんぽんと撫でてやった。学校の敷地内で『兄ちゃん』という言葉を使うのは実弥には珍しく、彼が教師でなく兄の顔をしていることも、寿美が見る限り初めてだった。
実弥は腕の時計を見て寿美を中等部へ戻し、自分も高等部へ引き返した。寿美がそっと振り返って見た兄の背中からはただならぬ怒気がゆらゆらと立ち昇っていて、彼女はもう胸のすくような思いがしたのと同時に『今日高等部で死人が出ても私何も知らないって言おう』とニンマリ笑った。
まもなく午後の授業が始まる教室はどよめいた。強面で通った数学教師が戸を開けて、よく通る声で「ミズキ、来い」と発したからだ。
呼ばれた当人は勿論困惑した。普段なら彼は苗字で呼ぶか『お前』が多いし、そもそも大勢の前で呼び立てたりしなかった。ちらっと視界の端に確認した玄弥も同じく動揺している。
「で、でも、もうすぐ授業、」
「クラス担任と教科担任に許可取った、来い」
ミズキは益々困惑して、『もしかして身内に不幸でもあった?でも何で実弥が呼びにくるの』とまで勘繰り始めた。仕方なく実弥の背中に従いながら、クラスの友人が「ノート取っとくから」と声を掛けてくれたのにお礼を言って教室を出た。
実弥は売店の自販機に立ち寄って迷わず温かいミルクティーを買い、戸惑うミズキを連れて面談室まで来た。入口の札を『使用中』に切り換えて室内へ入った。
部屋には所謂応接セットと、間に合わせじみた観葉植物があるのみである。
実弥がミルクティーの缶を渡しながら「座れェ」と言っても、ミズキはソファとミルクティーと実弥を三角に視線で結ぶばかりで困っていた。
先に実弥がどっかりとソファに腰を下ろして初めて、おずおずと倣うようにミズキも向かい合った席に腰掛けた。
「えっと、さ、先生…」
「呼び易い方で構わねェよ」
ミズキは口を半端に開きかけたまま言葉を続けられなくなってしまった。公私混同するなと厳しく言っていた実弥が何故こんな行動に出るのか測りかねた。
「髪は誰に切られた?」
「…気分転換って言ったでしょ」
「まどろっこしいからバラすけどなァ、寿美が全部調べた」
「…」
「辛かったろ」
教師としてでなく兄としての視線で真っ直ぐに見られてしまい、ミズキの目に涙の膜が張った。彼女は首を振って俯いて、その拍子に涙が手の甲に落ちた。
「髪は、いいの。また伸びるし」
「良くねェだろ、傷害罪だぞ」
「昔実弥が綺麗な髪って言ってくれたから、切りたくなかっただけ」
俯いて視線が外れたのに乗じて実弥はミズキをまじまじと見つめた。実弥はソファから立ち上がってミズキの横へ周り、隣に腰を下ろした。彼女の頭を肩口へ抱き寄せて、以前よりも随分短い髪に指を通した。
「短くなっても綺麗なもんは綺麗だろォ」
「…やめてよ」
「何で」
「ずっと私、言ってるでしょ、実弥のこと好きって」
「うん」
「でも迷惑にしかならないの知ってるもん、ちゃんと突き放して」
「迷惑って言ったことあるかよ」
「キスしたいとか思ってるのよ、気持ち悪いでしょ」
「あーしてェな、していいか」
「え」とミズキが顔を上げると既に鼻先の触れる距離に実弥の顔があって、瞬きの間もなく唇が合わさって、すぐに離れていった。突然のことに驚いてミズキが涙の引っ込んだ目を瞬かせていると「もっかいしていいか」と眼前の顔が言うので、咄嗟にその唇を手で遮ってしまった。指先の唇が「何で」と不平を漏らした。
「い、いや、いやいやいや、『何で』じゃない」
「逆に何で以外の何なんだよ」
「文章がぐるぐるして…、じゃなくて、どうしちゃったの実弥」
「どォもしねェよ、隠すの今やめてるだけだ」
指で制している唇が薄く開いて指を食もうとするのを感じて、ミズキは慌てて手を引いた。手が退くと彼女の大好きな実弥の顔が目の前にあって、彼と今しがた唇同士触れたことに思い至って、そこでようやくミズキは赤面した。
「可愛い顔しやがって食っちまうぞコラ」
「…ほんと、どうしちゃったの」
「まだ分かんねェのか」
「…分かんない、から、ちゃんと言って」
「好きだ」
「…慰めとか」
「じゃねェわ阿呆。こちとら我慢大会も長ェのに無邪気にジャレてきやがって、結構辛ェんだよ」
「えっ、と、ごめん…?」
実弥はミズキの耳元から後ろへ指を差し入れて髪を持ち上げ、はらはらと下ろした。ふんわりと漂う甘い匂いに目を細めた後、その髪がもっと長かった頃のことや無理矢理に切られる様を想像して眉間に皺を寄せた。
「これでも俺は頭にきてる」
「…?」
「髪を切られてお前泣かされて、貞子も泣いて寿美は怒り狂ってる、そもそも人に刃物向けた時点で傷害罪。人としても教師としても兄貴としても男としても、どこをどう切り取っても許せる要素がねェ。必ず落とし前付けさせる」
「…」
「寿美の調べた結果をそのまま言うから、違ったら訂正しろ」
先日ミズキが告白を断った3年の男子生徒は、その後随分落ち込んだようだった。その男子生徒に想いを寄せる同じく3年の女子生徒が放課後ミズキを呼び出し、教室に備えてあった工作用のハサミで犯行に及んだ。切った髪は屋外の植え込みに隠し捨てたけれど、時間が経ってから誰かに発見されるのを恐れて加害生徒が回収し、不透明な袋に入れてゴミ捨て場へ持っていった。
女子生徒から男子生徒への片思いや、ハサミをポケットに忍ばせる様、ミズキと連れ立って歩く場面、ビニール袋に『何か』を入れてゴミ捨て場へ向かうところなど、断片的な目撃情報を繋げた結果を実弥は話したけれど、ミズキの訂正が入ることは最後までなかった。
その日の放課後3年生の男女2人が面談室へ呼び出され、女子生徒は退学と天秤に掛けた末に推薦取消を選んだ。
「寿美ちゃん、笑いすぎ」
「だってぇ、今年いちスカッとしたんだもん!」
「何か悪いことしたなぁ…」
「ミズキちゃんは悪くないよ!ね、さね兄」
「そォだないっそ悪くねェ」
「とりあえず放して実弥」
「何でだよ、前みてェに好き好き言ってみ」
「何かこう、適当にあしらわれるのに慣れてて急には…」
「えっミズキちゃん適当にあしらわれてると思ってたの!?さね兄もずっとミズキちゃん大好きなのダダ洩れだったじゃん」
「寿美ちょぉっと黙れェ」