煉獄杏寿郎の場合(後)
煉獄さんにサツマイモ料理をせっせとお裾分けするようになって以来、壁の向こうから頻繁に「わっしょい!」と聞こえるようになった。何事だろうかと思ってあるとき聞いてみたら、大好きなサツマイモを食べたときの口癖なのだそうだ。とりあえず煉獄さんの真下のひとは「???」だろうなと思った。

ひとつ困ったことには、サツマイモのお礼だと言って煉獄さんがちょくちょくお菓子をくれるようになってしまった。

「あのですね煉獄さん、サツマイモ料理をお裾分けするのは自分で食べるぶんを分けてるだけですし、前にあんな高級なお店に連れていってもらっちゃったお礼の意味もあるんです。お礼にお礼が返ってきちゃうと終わりがないじゃないですか」
「はっはっは!」
「困ったときそうやって流すでしょ、最近分かってきたんですからね」
「よもや!バレてしまったか!」
「やっぱり確信犯」

煉獄さんはムスッとした私の頭にその大きくて温かい手を乗せて、また静かに穏やかに笑った。

「食事に付き合ってもらった上に君が手料理を分けてくれるのだから、不釣り合いはこちらの方なんだ。迷惑でなければ受け取ってほしい」
「…その笑い方したら私が弱いって知っててやってるでしょ」

煉獄さんは例によって「はっはっは!」と笑った。そして私はいつも通り折れて、煉獄さんの手からシュークリームを受け取ってしまったのだ。
これはもう太らせて食べる気に違いない。という旨を突き付けると、煉獄さんは目を逸らして何やら生返事のような曖昧な声を出した後「それじゃあおやすみ」とご自宅へ戻っていった。

まぁ考えてみると、自炊しないのなら毎日3食がお惣菜・コンビニ・外食ということになるのだし、家庭の味というのに飢えているのかもしれない。あとサツマイモは大好物だし。だから、なるべく長くお裾分けしてね、という意味のシュークリームだろうと理解した。
お父さんありがとう。送ってくれたサツマイモは、喜んで食べてくれるひとのお腹に着々と収まっています。あと、私はダイエットします。


ある日、帰宅した直後から外でひどい雷雨が始まった。びゅうびゅうと強い風が窓に打ち付けて揺れて、雨粒の音がバチバチと叩くよう。こんな中を帰ることになっていたら大変だったろうと思いながらご飯を食べて、温かいお風呂に身体を沈めた。わしゃわしゃとシャンプーをしているタイミングでガチャガチャと鍵やドアの音がして、お隣に煉獄さんが帰ってきたらしいことが分かった。この雷雨の中を帰ってきたとなると、さぞ大変だったろう。
すぐにお隣で浴槽にお湯を張る音がし始めて、やっぱりずぶ濡れで帰ってきたらしいと察することができた。
煉獄さんの声がした。

「…あぁ、君の方も生徒は皆無事だったろうか!…ん?あぁ、風呂だ。まぁ湯舟に落とさなければ大丈夫だろう!」

狭い浴室によく反響するからか、換気扇や何かの具合でそうなるのか、いつもよりはっきりと声が聞こえた。壁を挟んでほぼ線対称の間取り上、そういえばお風呂も壁一枚隔てて隣り合っているはずだ。ふと、頭にぽんと置かれた煉獄さんの温かい手を思い出した。あとは、袖を捲った太い腕だとか、厚い胸板とか。あの煉獄さんが、壁一枚の向こうでお風呂に入ってるんだなぁ…と思うと恥ずかしくなって、続いてこれじゃぁ変態だと自分が恥ずかしくなって、ざばっと洗面器で泡を流した。
壁の向こうで何やら叫び声が上がった。煉獄さんが手を滑らせてスマホを落としたのかもしれない。彼のスマホがご無事でありますように。

お風呂から上がって洗面台に向かって髪を乾かしていると、何の前触れもなく突然真っ暗になってしまった。ドライヤーも完全に沈黙した。え、ブレーカー落ちた?と手探りでリビングからスマホを取ってきて、ライトを頼りに何とかブレーカーを確認するも、落ちてない。停電。
頭からサッと血の気が引いてその場にうずくまった。
自慢ではないけれど停電は大の苦手だ。得意という人に会ったことはないけれども。小さい頃に停電の中1時間ひとりで過ごしたときから、過剰に怖い。すぐに復旧すると思うことができない。ひとまずスマホ画面の灯りを見て心を落ち着けたけれど、こんなことをしてたらすぐに充電が切れちゃう。
どうしようどうしようどうしよう、とパニック手前になってるところへ、こんこんとドアを叩く音があった。なに、だれ、とパニック寸前の状態ではそれすら怖くて動けずにいると、もう一度ノックする音があった。そっか、停電してるとインターホンすら鳴らないのね、と妙に冷静になった。

手探りで玄関に辿り着いて鍵を開け、ドアを細く開けるとびゅううっと風がなだれ込んできた。押し戻されそうになりながらドアを押すと隙間に黒い影が覗いた。見ると、その影は煉獄さんだった。




「楽しい部屋でなくてすまないが座ってくれ!」
「すみません、お邪魔します…」

煉獄さんは急な停電で私を心配して様子を見にきてくれたのだった。私の動揺ぶりを見て部屋に招いてくれて、それで初めて煉獄さんのご自宅にお邪魔している。
停電でほとんど何も見えないけれど、煉獄さんが手を引いてくれて行き着いた先はソファであるらしかった。いつの間にか雨の降り方はいくぶん和らいで、開け放たれたカーテンから室内よりむしろ明るい外の弱い光が入ってきていた。窓際に本棚があるのが、薄っすら分かった。

「じき復旧するだろう!何か話でもしていようか」
「煉獄さん、あの図版…今ありますか?前に忘れかけてたやつ」
「あるぞ!見てみるか?」
「見たいです」

煉獄さんが迷いのない足取りで本棚まで行って、以前に見たあの大きな図版を持って帰ってきた。隣に座った煉獄さんが膝の上に図版を広げ、スマホライトで照らすと、暗い部屋の中に色とりどりの写真がぽっかりと浮かび上がった。私は横からそれを覗き込んで、煉獄さんがひとつひとつの写真を指してそれにまつわる人物だとか出来事を面白く教えてくれるのに夢中で聞き入った。
煉獄さんの明るい声を聞いていると、その歴史が頭の中に映画になって流れるような心地がして、風雨の音も停電の不安もいつしかどこか遠くへ行ってしまっていた。

「私も煉獄さんが先生だったらよかったなぁ」

解説の合間にぽつりと呟いた声は、意外にくっきりと輪郭を持って煉獄さんの膝の上に落ちた。暗い中でひとつの図版を覗き込んでいるうち、いつの間にか私は煉獄さんの肩に頬をくっつけて寄りかかるような格好になっていて、触れている肩がぴくっと震えるのを感じた。

「…君が教え子だと困ってしまうが、お望みとあらばそうだな、生活指導といこうか」

煉獄さんの声が突然低くなり、膝の上の図版はぱたんと閉じて脇へ置かれた。私は咄嗟に煉獄さんから身体を離して表情を見ようとしたのだけれど、直前までスマホライトに照らされたページばかり見ていた目はちっとも煉獄さんの表情を捉えてくれない。ただ声の印象は、少し怒っているような気がする。
煉獄さんは座ったまま私の側を向いて、その温かくて大きな手で私の肩を掴んだ。

「誘ったのは俺だが、風呂上りの無防備な姿で男の部屋に上がるのは感心しない」
「ご、ごめんなさい…」
「男の腕に身体を寄せて、どういうことになると思っている?悪い子だ、ミズキ」

私の目は徐々に暗闇に慣れて、煉獄さんの輪郭をぼんやりと捉え始めていた。ただ、まだ表情を見ることはかなわない。
ただ、煉獄さんの少し怒ったような、それでいて熱っぽい声を聞く限り、『先生』の顔をしているとはどうも思えなかった。掴まれた肩が熱い。顔も熱い。耳の中で心臓が鳴っているかのようにどくんどくんとうるさい。
私はいま、お風呂上りに男の人の部屋へ来てしまった警戒心の無さを叱られているのだろうか。それとも、あるいは、

「…先生は、悪い子だから私がきらい?」

先生のテリトリーの中へ、招き入れられようとしているのだろうか。

暗順応しつつあった視界が再び真っ暗になってしまったのは、煉獄さんの胸に抱き締められたからだった。煉獄さんは何も言わなかったし、相変わらず暗くて何も見えなかったけれど、温かい胸に押し当てた耳が拾う心音が何より雄弁に、私のことが好きだと言ってくれている気がした。


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