煉獄杏寿郎の場合(前)
私の住むアパートのお隣さんは、とてもとても声が大きい。決して壁が薄いだとか音が丸聞こえということはない(現に逆隣の音はあんまり聞こえない)のだけれど、壁をものともしない声量でたまに電話していらっしゃる。
そんなに頻繁でもないから迷惑というほどでもない。ただ、聞いちゃってなんだか悪いなぁと思うくらい。あと、お隣さんが角部屋で良かったとも少し思う。

ある朝、いざ出勤と玄関でパンプスに足を差し入れて一歩外廊下に踏み出た途端、見事にシンクロした動きで初めてお隣さんとエンカウントした。
初めて間近に見たお隣さんは、それはそれは美人さんだった。以前に部屋の窓から、出勤していくお隣さんの後姿を見たことがあったけれど、大きい声で挨拶された近所のおばあさんがしばらくポーっとして後姿を見送ってらしたのは、なるほどこういうことだったのか、と納得した。こんな彫刻のような美しいお顔立ちで爽やかに挨拶されれば、ポーっとなってしまうに決まっている。その凛々しい美人さんが、猛禽類のようなぎょろりと大きな目をさらに丸く大きくして私を見た。

「お、おはようございます…?」
「あぁ、おはようございます!」

驚きの勝っていた表情から一転輝くような笑顔で挨拶を返してくれた。隔てるものがないって、声量がすごい。今のでこのアパート全員への挨拶が済んだに違いない。
ふと私はお隣さんの手元を見て、「あ、」と声を上げた。

「図版、持っていかないんですか?昨日電話で…」

言い終えてから『しまった』と思った。
昨日例によってお隣さんの電話声が聞こえたのだけれど、「それでは明日、うちの図版を持って行きましょう!大きくて鞄には入らないから、紙袋にでも入れて!」とハッキリ聞こえてしまったのだ。だけど、これじゃあ、まるで盗み聞きしたみたい!
気味悪く思われたろうかと不安に思っていると、お隣さんは突然「しまった!」と叫んで部屋へバタバタと入っていって、またすぐに出てきた。

「よもやよもやだ!袋にまで入れておいて忘れてしまうとは不甲斐なし!」
「き、気付けて良かった、ですね…」
「ありがとう、君のおかげだ!この礼は必ず!」
「いえ、お気になさらず」

お隣さんの持ってきた図版は確かに大きかった。
何となくそのまま一緒に廊下を歩いてエレベーターに乗った。
そのエレベーターの中で初めてお名前を伺ったのだけれど、お隣さんは煉獄杏寿郎さんといって、高校で歴史の先生をしているとのことだった。とっても格式高いお名前だ。
あと、並んで立ってみるととても背が高い。体つきもがっしりしていて、何かスポーツでもされてるんだろうな、という感じ。

エレベーターが地階に着いてアパートの前で「それじゃあ」と軽く頭を下げて別れた後、お隣さん改め煉獄さんは自転車で私とは反対方向へすいーっと去っていった。どこまでも爽やかな好青年だった。
直後には『しまった』と思ったものの、やっぱり図版のことを口に出してよかった。
煉獄さんはお礼をすると言ってくれたけど、その辺は日本の不文律というか社交辞令だろうから、あんな美しいひとと挨拶を交わして目の保養になりました、おわり、でいいのだ。
…と、思っていたのだけれど。

「こんばんは!今朝は本当にありがとう!礼をしたいのだが都合はどうだろうか!」

スーパーに寄って帰宅して玄関ドアの前で鞄の鍵をごそごそ探っているところへ、まさかの煉獄さんが声を掛けてくださった。朝と寸分違わぬ爽やかさ、夕方のくたびれ感なんて微塵もない。
私は朝のお礼発言がまさか社交辞令じゃないとは逆にびっくりで、改めて気にしないでほしい旨をお伝えしたのだけれど、「迷惑でなければ是非に」と煉獄さんにそのお美しいお顔で眉をハの字にして微笑まれてしまえば「それならお言葉に甘えて」と絆されてしまったのだった。
いつもハキハキと凛々しい人が眉をしょぼんとさせて微笑むだなんて、貴方それは反則ですよとお伝えしたい。いつぞや煉獄さんのことをポーっと見送ったおばあさんだって、きっと私と同意見だろう。

そんなこんなで煉獄さんが連れていってくれたお店は本当に美味しかった。店構えを見た時点で庶民の私が尻込みして「煉獄さんこれ良くないです勝手にリマインダーしただけのお礼がこれって価格帯間違ってますコンビニ行きましょ?」「はっはっは!」の遣り取りがあったことはこの際流そう。お店に入っても煉獄さんは一言お任せとだけ言ってメニュー表も見せてくれなかった。お任せって美容院以外で言うひと初めて見た。

とにかく、人生で初めて踏み入った高級店で美味しい美味しい(いやもう本当に)ご飯をいただき、隣人というだけでは知る機会のなかったお互いのことをちらほら交換して帰路に就いた。
言及していなかったけれども、移動は車だった。くるま!どうしても気になって、食事中に「煉獄さんお酒だったら何がお好きですか?」と聞いてみたら「芋焼酎だな!」と即答だったから、程度は分からないけれどお酒は好きなんだろう。それなのに単なる隣人を車に乗せてあんな高級店に連れて行くだなんて、本当に、心から、お礼のための食事だったのだ。改めて、私のリマインダー1件には釣り合わない手厚いお礼だった。


手厚すぎるお礼をしていただいた負い目があって、何かこうそれとなく高低差をならすような機会はないものかと考えていたところへ、実家からたくさんサツマイモが送られてきた。
学生の頃から毎年この季節になると送られてくるもので、例年なら「お父さん作りすぎ」とお礼がてら電話で文句を言うのだけれど、今年は大変有難かった。煉獄さん、食事のときに好物はサツマイモだと仰っていたし、ものすごく丁度いい。実家から送られたサツマイモをお裾分けしたところであの高級店のご飯とイーブンになるとは到底思わないのだけれど、私の気持ち的に多少軽減される。
と、送られてきた中から見た目綺麗なものを選んで袋に入れ、ご在宅(声でわかる)の煉獄さんのインターホンを鳴らしたのだけれど。

「…恥ずかしながら、俺には全く料理の才が無いようでな。あまりに色々壊すので母や弟から家電のスイッチを押す以外のことはするなと言われている」

ラフなTシャツとスウェット姿で出迎えてくれた煉獄さんに、失礼ながら笑ってしまった。だってこんなに凛々しいライオンみたいな男の人が、しょんぼりして後ろ頭をかりかり掻きながら「だから包丁も持たせてもらえなかった」なんて。

「笑ってくれるな、情けない自覚はあるんだ」
「いえ、ごめんなさい、なんだか可愛らしくって」
「可愛くはないぞ」
「それじゃぁ調理してからお裾分けします。サツマイモご飯とか、大学芋とか、スイートポテトとか」
「それは有難い!」

途端にきらきらと目を輝かせる煉獄さんに、毎年食べきれない量が実家から送られてくるから消費を手伝ってもらえるのはこちらこそ有難いのだとお伝えして、持ってきたビニール袋を持ったまま自宅へ引き返した。
私が自宅のドアを開けるまで煉獄さんは外廊下へ顔を出していてくれて、玄関に入る前に軽く頭を下げると穏やかににっこり笑ってくれた。

「おやすみ」
「おっおやすみなさい」

ぱたんと閉まったドアの内側で靴のままうずくまった。顔が熱い。
凛々しくて溌剌としたイケメンと思ったらお料理苦手でしょぼんとしてみたり、挙句静かでゆったりした微笑みで「おやすみ」だなんて。
どきどきしてしまうよ、これは近所のおばあさんだってポーっとなってしまうよ。

玄関で動悸が治まるのを待ってから、袖を捲って台所に立った。とりあえず、サツマイモご飯からいこう。


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