不死川実弥の場合(前)
私の住むアパートは築年数が深く、リノベーションしてあるから普段の生活で不便を感じることはまずないけれど、ふとした瞬間に、例えば造りだとかにその古さを感じることがある。
例えばベランダ。最近は防災のために、長い長い外廊下を薄い板で区切ったようなベランダが一般的だけれど、このアパートのベランダはしっかりしたコンクリートの枠が部屋ごとに突き出しているという感じ。お隣さんとは繋がっていなくて、独立している。ただ、すごく近い。熱いコーヒーなみなみのマグカップを手渡しできちゃうくらいに近い。視界を遮るものもないから、洗濯物だって覗き込めば見えてしまう。この辺がやっぱり古さだなぁと思うところだ。

私は3階の角部屋で、唯一接するお隣の部屋は長く空室だったから(一度だけ人が入ったのだけど、すぐにまた出て行ってしまった)、視線が気になることもなく、ちょっと広めのこのベランダを部屋の延長として楽しんできた。
ただ、年度の切り替わりを目前にした今、昨日、お隣に慌ただしく荷物が運び込まれていた。ついに来た、というところなのだ。愛想よくしよう。ベランダで気まずくなっちゃうのは嫌だから。

お隣に入居の気配があった翌日、朝からよく晴れて、これはもうお布団を干さなきゃ損というくらいの日和。意気揚々と窓を開けてお布団を抱えてベランダに一歩踏み出したら、鏡かと思う完璧なタイミングで布団を抱えたお隣さんとそこで初めてエンカウントした。
男の人だった。無意識に女の人とばかり思っていた。

「こ、こんにちは…」

へら、と笑って挨拶すると、その人は気まずそうに(ですよね分かります)「…ドモ」と呟いて軽く頭を下げた。
お互いいそいそとお布団を干して、何かこう、交流を図れる話題はないだろうかと焦って考えて、「あの、お部屋は片付きました?」と余計なお世話が口から出たのだった。

「…いえ、まだ全然です」
「で、ですよね!ごめんなさい」
「謝ることじゃないと思いますが」
「で、すよね…あ、あのオレンジ色のひさしがあるところ、見えますか?」

私が手摺に寄って下を指さすと、その人も同じ方を覗き込んだ。

「あそこね、定食屋さんなんです。安くて美味しいですよ」
「へェ…多分今晩行きます」
「ぜひぜひ」

お隣さんの表情が少し緩んで一安心というところ。引っ越しの後で落ち着いて料理が出来るまでには、結構時間が掛かるものだから。

「助かります。コンビニ続きになるとこだった」
「朝もコンビニだったんですか?」
「電気ケトルが見付からなくてコーヒーも出来ず」
「大変でしたね…あ、あ!ちょっと待っててください、コーヒー1杯ぶんお時間あります?」

困惑した返事をするお隣さんを残してバタバタと部屋に引っ込んで、今朝魔法瓶にたっぷり作ったコーヒーをふたつのマグカップに注いでお盆に載せ、紙箱に入ったクッキーも載せた。

昨日帰宅したらドアノブには紙袋のクッキーが掛かっていて、『隣に越してきた不死川です。よろしくお願いします』とメモが添えられていた。今時こんな丁寧なことしてくれるひと、いるんだ…!というのが第一印象。メモの字もとっても綺麗で、だからこそ、これはすごーく育ちのいい女性に違いないと思っていたのだ。
一式を載せたお盆を持ってベランダに戻ると、お隣さんは律儀に待っていてくれた。

「コーヒーにしましょう!」

こちらとあちらの手摺にお盆を渡して簡易テーブル。お隣さんはクッキーを見ると少し居心地悪そうにした。

「クッキー、昨日ありがとうございました」
「…母親が選んだんです。そういう礼儀に厳しい人で」

目を逸らしてカシカシと後ろ首を掻いている。
なるほど、この可愛らしいパッケージはそういうことなのか。でもそれを律儀に隣に渡すところが、この人の育ちの良さだなぁと思う。性別を誤解していただけで、私の印象は間違ってなかったのだ。

コーヒーに口を付けながらあれこれ話をした。定食屋さん以外にも美味しい店だとか、不死川さんの部屋は一度短く人が入っただけで長く空室だったこととか。不死川さんの方がひとつ年上なのも分かって、話し方も力を抜いてくれた。

「この辺は学生が多いから、ご飯おかわり無料とか結構ありますよ。私も学生の頃からそのまま住んでるから、いいお店を思い出したらまた伝えますね」

私はお隣さんと仲良くなれそうに感じて嬉しかったのだけれど、不死川さんは少し目元の表情を厳しくした。それで私が喋り過ぎたことを謝ると、「そうじゃねェ」と少し溜息。

「…女の一人暮らしにしちゃ警戒心がなさすぎだ。俺が変な気起こしたらどうするつもりだァ?」
「不死川さんが?お引越しの挨拶に可愛いクッキーくれちゃう字の綺麗なひとなのに?」
「…それは一旦忘れろォ」
「ふふ、ごめんなさい、心配してくれてるんですもんね」
「まァ職業柄な」
「何のお仕事されてるんです?」
「警官」
「お巡りさん!お隣なんて心強いですね」
「自宅と隣は警邏しねェ」
「そうですね、自衛します!」
「おォそうしろ」

不死川さんが空になったマグカップをことんとお盆に戻したところで『じゃあまた』の雰囲気になって、それじゃあ改めて今後よろしくと挨拶を交わしてお互い部屋に引っ込んだ。
マグカップふたつをシンクに降ろしながら思い返すと、新しい隣人はとてもとても美しいひとだった。凛々しいだとか端正という言葉も似合う。お顔の大きな傷には一瞬びっくりしたけれど、お巡りさんだと聞いて納得、誰か・何かを守って負った傷なのだろう。
美しくて優しくて、でもちょっとぶっきらぼうなフリをしているその人が、この可愛い柴犬柄のマグに口を付けるのを見られたというのは、お隣さんの特権というものだ。

これからも朝はたっぷりのコーヒーを魔法瓶に詰めよう、とマグを洗いながら思った。


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