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「そういえばそろそろ進路希望票?出す時期なの?」

例によって美術準備室で昼を食べていると、出し抜けに先生が言った。「何で」と斜めの返事をすれば、「別のクラスの授業でね、女の子たちが嘆いてたから」ということだった。

「不死川くんの将来の夢は?」
「適当な大学入って適当な資格取って適当に就職してチビ達の学費稼ぐ」
「感心な長男だぁ」
「先生は」
「うん?」
「高2のとき何考えてた」

先生は箸を置いて口元に指を当て、窓の外を見た。記憶の糸が窓の外にぶら下がってるみたいに。
そういえば、多く接するようになってそこそこ経つが、俺はこの人の個人的なことをまるで知らない。

「小さい頃から絵が好きでね、ちょっと見込みがあるって言われて絵の先生にお世話になって、その先生が学長をなさってる美大に入りたくって、とにかく毎日描いてた」

『そんな世界もあんのか』ってぐらいの、まるで実感の沸かない話だった。何せ俺には絵心もなければ美大に行くような金もない。
先生は「私の話は参考にならないよ」と言った。確かにそうだ。

「卒業後1年フリーターして、大学の先輩が産休に入るからって代理に誘ってもらって、無計画にここまで来ちゃった」
「…ふーん」

理不尽は自覚しつつも無性に腹が立った。吹雪の中に立って温室を覗き込んでいるような気分だった。ぐいぐい弁当を飲み込んで先生の弁当箱も急かすように回収して、すぐに準備室を出た。
丁度その日にシャッターの絵が完成して、お袋は先生に絵の代金を渡そうとして頑なに断られたと言っていた。ついでに先生はお袋に弁当の礼と以後の断りを入れたらしい。
『言っていた』、『らしい』というのは、俺がバイトから帰ったときには既に先生の姿はなく、お袋から聞いただけだったからだ。

そしてその翌日から俺は昼に準備室へ行くのを止めた。
別に元に戻っただけだ、何ともねェ、と言い訳のように心臓の中に言葉を捻じ込んだ。




「実弥、これミズキちゃんに食べてもらってね」

ある朝起きると俺と玄弥の弁当の横にリボンの結ばれた袋があった。お袋は皿を洗いながら俺を振り返った。

「…もう弁当は要らねェって言われたんだろォ」
「それはクッキーよ。昨日ことと寿美と3人で作ったの」
「そりゃ知ってる、俺が言いてェのは、」
「実弥、先生はね、小さい子どもにあの落書きを見せたくないって、すぐに消してくださったのよ。心を砕いて下絵を3種類作って、毎日遅くまで絵を描いてくださって、お代もお受け取りにならなかったの。下絵で見せてもらったの全部、花言葉も良いのを選んでくださってたわ。子どもたちを可愛がってもくださった。きちんとお礼をお伝えしなくちゃだめよ」

最近俺が先生の話題になると途端に態度を悪くすることに、お袋は勿論気付いていただろう。チビ達が「ミズキちゃん次はいつ来るの?」と口々に言うのを「絵が出来たんだからもう来ねェよ」と遮った反省もあって、俺はそのクッキーを鞄に入れたのだった。

さてしかし気まずいものは気まずい。昼休みになって美術室まで来たはいいものの、この状況で準備室に声を掛けるのには結構胆力が要る。扉が細く開いてるのに気付いて、少しの躊躇いはありつつ覗き込んだ。
先生は中にいた。窓に向かって立って、手には便箋と、青い封筒。誰かからの手紙を読むその横顔が見えた。
誰からの手紙だろうか。ダイレクトメールや事務的な封書って見た目じゃない。第一、そういう事務的なものを読む表情じゃない。よく見ると便箋は随分くたびれている。何か大切な…と思ったところで、背後で美術室の扉が開く音がした。
振り向くと、前に先生をメシに誘いに来た国語の教員が、俺を見付けて顔を引き攣らせたところだった。

「…ミズキ先生に何か用っスかねェ、呼びましょうかァ?」

『迷惑ってのが分かんねェのかよ失せろや』と表情で伝えられた自信はある。
教員は乾いた笑いを漏らしながら開けたばかりの扉を後ずさって静かに締めていった。
そのまま教員の去った方が睨み付けていると「不死川くん」と声を掛けられて今度は俺が肩を跳ねさせる番だった。そりゃそうだ、出てくるよな。
油の切れた機械よろしくぎこちなく振り向くと先生が立って、俺を見上げていた。俺を見るその大きい目は、一度メシを食う間に相手の癖や本音を見抜く目で、今俺が抱いている気まずさやら後ろめたさも見透かされてる気がした。
目を逸らした流れで先生越しに中を見ると、いつもの椅子と湯気の立つコーヒーが置いてあった。

「…良ければ、中でお昼食べる?」

俺はガキみたいに黙って頷いて、中に入った。

お袋と妹たちからだとクッキーを渡すと(ピンクのリボンがついたその包みはアホほど俺に似つかわしくない)先生は両手で受け取って、またいたく感動して見入っていた。生まれたての子ウサギでも見るような目だった。

「…またメシ食いに来てやってくれェ。チビ達が次はいつ来るんだって煩くて敵わねェ」
「…」
「…バイトの後で良けりゃ送ってくし」

先生の大きい目が俺を見ていた。その目に見られていると言葉で誤魔化した本音を掬い上げられるような気分になって、「あー…」と後ろ頭を掻いて、「俺も会いてェし」と白状した。
先生がクッキーの包みを握り直して胸に抱いた。

「ごめんなさい」

唐突に謝られて意味が分からず、一拍遅れてこれは断られたってことか?と思ってると、先生は目を伏せて言い難そうに口をおずおず動かした。

「これから受験って人に、げんなりするような情けない話しちゃった」
「…や、それぞれだし」
「本当、ごめんなさい」

先生が叱られた子供みたいにシュンとしてるのが可笑しくて笑うと、先生はキョトン顔で俺を見た。

「それ食って、またメシ食いに来て、チビ達と遊んでやってくれよ」

先生はじぃっと俺を見た後、お袋の弁当を初めて受け取ったときみたいな、剥き出しの、柔らかい笑顔を見せた。

「…うん、行きたい。ありがとう」

俺が、クラスの連中の言う『すげー美人』だとかお袋の言う『本当に綺麗な子』ってのを、心底実感したのは、この時だった。


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