後日譚6

「指輪してるけど、結婚はまだなんでしょ?ミズキちゃんだってたまには息抜きしないと。美味しい店なんだよ、御馳走するから」
「あの、本当にお気持ちだけで。息抜きがしたいとも思っていませんから」

こんな会話をかれこれ700m分ほど繰り返している。
夕方の絵画教室が終わって「それじゃあまた来週」と言った途端に受講生のおじさまからご飯に誘っていただいて、丁重にお断りしたのだけど、帰り道を行く私の後ろから何故かお誘いが続いている。
このまま自宅に帰ると部屋まで上がっていらっしゃいそうだし、何より住所を知られるのが怖い。でも適当にうろつくのも怖い。受講生だから無碍にもできないし…。もう少しで実弥くんが帰ってくるから早くご飯の準備したいのにな。
心が迷ったまま歩いていると、足が無意識に不死川家のお花屋さんを目指していた。あっでも小さい子たちに鉢合わせて怖い思いをさせちゃったら良くない、お母様は美人だから口説かれるかも、お花屋さんに入ってもお店の迷惑になるかも…!
と、歩きながら葛藤しながらいよいよお花屋さんが近付いてきたとき、行く手に知った後ろ姿を見付けた。天の助け!
「玄弥くん!」と声を掛けると、黒いふさふさの尻尾みたいな髪を揺らして、学校から帰宅してきたところであろう玄弥くんが振り向いてくれた。
胸の前で手を合わせて『ごめんね』のポーズ、口パクで『たすけて』をすると、背後のおじさまと私を見比べて大まかな事情は察してくれたようだった。

「こっこんばんは!今学校帰り?」
「はい、ミズキさんもお疲れ様っス」

巻き込んでごめんね、と思ってるうちに背後のおじさまが追い付いて「ミズキちゃん、弟さんかな?」と。話し掛けていらっしゃるパターン!?
私の顔はちょっと引き攣っていたと思うけど、振り向いて見たおじさまの顔も負けず劣らずだった。近寄ってみるとガタイが良くって顔に傷のある玄弥くんに、おじさまは多少なり怖気づいてくれたようだった。(実際は玄弥くんとっても優しい子なんだけど!)
タイミング悪く鞄の中に着信を感じたけど、とても今電話に出られる状態じゃない。
玄弥くんは猫のように吊り上がった目元を大きく見開いて、地を這うような低い声を出した。

「兄貴の嫁さんに、何か用ッスかねぇ…」
「い、いや、ただ、食事に」
「そんなら兄貴に許可取りましょうかァ…電話するか?」
「いやっ、ごめんねミズキちゃん、また今度、」
「『今度』もねぇよ兄貴の嫁さんにちょっかい出すんじゃねぇ」

おじさまがそそくさと退散して充分離れたところで、やっと息を抜くことができた。

「玄弥くんごめんねぇー!絵画教室の生徒さんなんだけど、まっすぐ自宅に帰ったらついて来ちゃいそうでついこっちに」
「全然いいッス。ミズキさんびっ…び、美人、なんで、困ること多いだろうし」

えっうそかわいい!自分の発言に真っ赤になってしまった玄弥くんの頭をなでなでしたいけど嫌がられるかな?
実弥くんを始め、不死川家はみんな良いひとたちだ。

「あ、今のこと、実弥くんには内緒にしててね。余計な心配掛けたくないの」
「…うーん、兄ちゃん勘が鋭いからなぁ」

玄弥くんが自信なさげにかりかりと後ろ首を掻いていると、腰の辺りで着信音が鳴り始めた。ポケットからスマホを出して見ると実弥くんの名前が表示されていて、2人して肩を縮こまらせてしまった。
玄弥くんは一度唾を飲み込んで、呼吸を整えて、応答した。

「もしもし、兄ちゃん?」
「玄弥ァ、もう帰ってるか?」
「帰ってるよ」

玄弥くんの視線がちらっとすぐ近くのお花屋さんや私を捉えて、そのあと気まずそうに泳いだ。
スピーカーにしなくても周りは静かで、実弥くんの声は私にも聞こえた。

「そっちにミズキ行ってねェか?」
「えっ!?い、いやっ、なんで?」
「…いつもの時間過ぎても帰ってねェし、電話にも出ねェ」

電話って、さっきの!?慌てて鞄から端末を出して確認すると案の定実弥くんの着信だった。
玄弥くんは既に冷や汗が滴りそうになって目が泳いでいる。

「…玄弥ァ」
「なっなに、兄ちゃん」
「ミズキ、そこにいんなァ?」

あっバレた玄弥くんごめんね!

「すぐ行くから良い子で待ってろ、話は後だ」

うん怒ってるあと最後の一言玄弥くんじゃなくて私に言ったよね!
通話終了の直後私は玄弥くんに謝り倒した。本当ごめんなさい、反省してます。
としてる内に実弥くんが到着した。早すぎませんか。数学の先生なのに恐ろしく足が速くありませんか。実弥くんは到着の勢いそのまま私の至近距離まで来て「怪我ねェか」と言った(ほとんど息も乱れてない)。私が頷くと、溜息がひとつ。

「ごめんね、結局心配させちゃって」
「前提が間違ってんだよ、心配は常にしてる。だからあったこと何でも話せ」

ことの経緯をかいつまんで説明して玄弥くんにも謝ると、実弥くんは玄弥くんの頭をわしわしと撫でて「ありがとなァ玄弥」と笑った。玄弥は嬉しそうに目を細めて、あぁ最初からこうすれば良かった、と微笑ましくなった。

結局そのまま不死川家にお邪魔して、ご飯の支度を手伝いつつご相伴に預かり、小さい子たちと戯れて癒され、すっかりホワホワ気分で実弥くんと帰路についたのが9時過ぎだった。
実弥くんと夜道を歩きながらふと思い出したのは、出会ったばかりの頃のこと。私はお花屋さんのシャッターに絵を描いていて、高2の実弥くんがいつもバイト帰りに送ってくれた。そっと盗み見た実弥くんは背丈こそあの頃とあまり変わらないけれど、やっぱり大人になった。そう思って口元を緩めていると、実弥くんと目が合って、その綺麗な目元が柔らかく細められた。

「変わんねェな」
「うん?」
「会った頃のこと思い出してた」
「私もそう。でも私は変わったなぁって思ってたよ」
「どう変わった?」
「大人になったね」
「そりゃ良かった」
「私変わらない?」
「ずっと可愛い」
「…そういうこと言うんだもんなぁ」

照れて顔を伏せてしまった私の手を取って、実弥くんはマンションに隣接する公園に踏み入った。この公園で、下の子たちを連れた実弥くんの姿を私がベランダから見た。

「あのベランダで見てたのか」

実弥くんも同じことに思いを馳せていたみたいで、今はもう彼の自宅でもある部屋のベランダを見上げていた。私は「うん」と返しながら同じ窓を見た。

「本当に美しくって、描かずにいられなかったの。涙が出るくらいに」
「チビ達に感謝だなァ。おかげでミズキが俺を見付けて引っ張り上げてくれた」
「引っ張り上げた?」
「泥沼から」

どろぬま。そんな大層なことをしたかしらと首を捻ったけれど、実弥くんは窓を見上げたまま続きを教えてくれそうにはなかった。まるで、高2の実弥くんと下の子たちの絵を描く私を熱心に見つめているみたいに。
少し照れるような、それでいて自分のことなのに寂しいような、不思議な気持ちだった。
実弥くんの袖を引くと、綺麗な目が少し驚いて今の私を見てくれた。

「引っ張り上げてもらったのは私の方だよ。辛いときに傍にいてくれて、私のせいじゃないって言ってくれて、私を叱って先生の奥様に会わせてくれた」

実弥くんがいてくれなかったら、私の手を引いてくれなかったら、きっと今もまだ逃げたままだった。

「実弥くんは私の人生の中の、特別な『ごほうび』みたいなひとよ」

袖を引いていた手ですぐそばの大きな手を握ると、実弥くんの目元や口元が何か堪えるように震えて、すぐに繋いでいない方の腕が私を抱き込んだ。
温かくて心から安心できる、私の居場所。

「…今度の週末、指輪買いに行くぞ。もっとちゃんとしたやつ」
「今のままで充分なのに」
「俺が買いたい」

実弥くんの胸に向かって「ありがとう」と言うと、抱き締める腕がいっそう強くなった。

「俺も同じこと考えてたよ」


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