15(終)
カレンダーをさらっと撫でるような感じで、3月はすぐに過ぎていった。つまり、ミズキは学校を去った。
春休みの終わりに俺はお袋にミズキと付き合ってることを打ち明けたのだが、いつからだと聞かれて回顧展に行った帰りと答えたら「あら、意外と遅かったのね」と言われてお袋の偉大さを思い知った。
ミズキは駅前の絵画教室に勤め始めた。せめてもの男避けに高価じゃないが指輪を渡して、それがミズキの指にぴったり落ち着いている様は見ていて気分が良かった。対になる輪っかは俺のスマホケースにぶら下がっている。
毎日学校帰りにミズキの部屋に寄って一緒に夕飯を食べ、勉強して帰る生活サイクルは意外なぐらいスンナリ馴染んだ。
学校が終わるとミズキの部屋に合鍵で入り、冷蔵庫にミズキが作り置いた夕飯を温める。ある程度まで準備が出来たらリビングで勉強しながら待っていると7時過ぎにミズキが帰ってくる。
これが、絵画教室が夕方にある日の大体の流れだった。学校帰りの子どもが多いらしい。ミズキはいつも夕飯の席で、子どもがどんなことを言って可愛かっただとか色使いが新鮮だとか、楽しそうに話してくれた。俺はそれを聞くのが好きだった。正確には、それを話すミズキの顔を見るのが。
「今日、美術の大分先生と話した」
夕飯の後で俺がそう切り出すと、ミズキは僅かに緊張したようだった。
「ミズキが元気にしてんのと先生の奥さんに会ったってんで随分喜んでたぜェ」
「…そっか」
「『娘をよろしく』ってよォ」
「むすめ!」
「回顧展にミズキの模写が混ぜてあるって言ったらすげぇウケてた」
回顧展は盛況して会期延長され、今も続いているが、未だに誰も違和感を訴えないところを見るとバレてないようだ。
「実弥くん、何だか嬉しそう」
「…そォだな、アンタが方々から可愛がられてんのは嬉しい」
「私も実弥くんが優しい顔になって嬉しい」
照れるかと思ったが予想に反してド正面から打ち返されて、結局照れたのは俺の方だった。表情を決めかねて口元を居心地悪くひん曲げた俺の頭にミズキは手を乗せて優しく撫でた。畜生、年上振りやがって。
俺は頭の上で機嫌良さそうに動く華奢な手を捕まえて引き寄せた。胸元に倒れ込んできたミズキの耳元に「なァ…今日いいか」とだけ囁くと、しばらく考えた後で疎通したようで小さく頷いてくれた。
そのようにして俺はその夜初めてミズキと身体を繋げた。正直バカになるほど気持ち良くて、今までに詰め込んだ英単語やら公式やら洗いざらい全部頭から飛んだかと思ったし、中毒を確信した。ミズキと掌を合わせて指の一本一本を交差させると、俺の中指と薬指の間に金属の輪を感じて、「寝る時も着けてんの?」と聞くと「今は着けてたかったの」と言われた辺りから、ナケナシの理性がトんだ気がする。 行為の最中に舐めたミズキの涙さえ甘かった。
行為の後初めてそのままミズキの部屋に泊まって、俺は珍しく夢を見た。普段は夢を見た覚えすらなくスッパリ忘れてる方なのに、その時は夢の中で夢を自覚してて、不思議な感覚だった。夢には親父が出てきた。考えてみれば思い出すのも久しぶりだった。
正直1年ぐらい前までは、家族を守ろうとかチビ達の学費をだとかの気持ちの裏には常に親父への嫌悪と恨みがへばりついて俺をチクチクと刺し、耐え難い悪臭を放っていて、『俺はあのクソ野郎とは違う』という意地が原動力になっている部分があった。言い換えると、常に頭のどこかには親父の影がチラついていたような気がする。
でもミズキに会って柔らかく受け入れられて、頑なだった部分が心地よく解けて、濁った感情の占めるスペースは徐々に小さくなってきていた。
夢の中に立って無言で俺を見る親父に対して、俺は言い放った。
「出てけよ、こっちはもう何とも思っちゃいねェからよ。俺ァ心が狭いんで、あんたみてェな図体のデカいのに居座られちゃ敵わねェ」
それきり親父は煙みたいにふっと消えて、空いた部分にはすぐにミズキの甘い匂いが流れ込んだ。
目を開けると初めて見る天井で、身体を起こしてそういやミズキの部屋だと思い出した。隣を見るとミズキはまだ寝てて、その剥き出しの肩に布団を引き上げてやった。
頭を撫で髪を梳いていると瞼が震えて目が開いた。
ミズキの寝ぼけた目がゆるゆる俺を見上げて、「おはよう」を交わした。
「実弥くん、何かいいことあった?」
「ん?」
「すごく嬉しそう」
「んー…あァ、確かにすげェよかったなァ」
俺の笑い方で意図を察したらしいミズキが少し怒ったふりをして「そういう意味じゃない」と言った。
大して広くもない俺の心の中は、こんな風に笑ったり怒ったふりをするミズキと、自分のことと、家族のことでもう満員だ。
「痛くねェか」と聞くとミズキは「痛くないけど抱っこして」と指輪の嵌まった手を布団から出した。満員どころか溢れた。
つーか『抱っこ』ときたよ可愛すぎか抱き締め倒すわと心の中で呟いて俺は布団に潜り込み直して、幸せのかたまりみたいに温かくて柔らかい甘い匂いを抱き締めた。
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