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クソ寒い体育館で全体朝礼ってのは果たして本当に意味があるんだろうかと常々疑問だったもんだが、壁に背を向けて教員の列に並ぶミズキを眺めるようになってからはそう苦でもなくなった。
どうせ聞かなきゃ困るような話は流れて来ないのだからと熱心に穴が開くほど凝視していたら、ミズキが俺の視線に気付いてバレない程度にふっと微笑った。俺の真後ろの奴が「今俺ミズキちゃん先生に笑いかけられたかも」と吹聴していて、多分俺が後ろだったら殴っていた。
あとミズキが寒さに手を擦り合わせてるのに付け込んで『俺手ェ温かいですよ』みたいなこと言って(口元の動き多分)手ェ握ろうとしたいつもの現国教員、やっぱ後でコロス3回コロス。ミズキは勿論断っていた。
鮨詰めにされた体育館の中で、あの華奢な手に触ることを許されたのは俺だけだ。抱き締めていいのもキスもそれ以上(まだだがいずれ)も俺だけで、子どもみたいに泣きじゃくるのを撫でて宥めたことがあるのも、恩師の奥さんに「よろしく」と頼まれたのも、糖蜜みたいに甘い目を向けられるのも、全部俺だけだ。
そう思うと振り撒く殺気を少し抑えようという余裕も持てた。
マイクを持つ教務主任が「えー最後に」と区切った。
「育児休暇を取られていた美術の大分先生が4月から復職されます。それに伴いソウマ先生が退任されますので、皆さん感謝を込めて拍手を―――」
一瞬『ソウマ先生』とミズキが結び付かなくて呆けた。周囲からも「えー」とか何とか声が上がるのを遠くに聞きながら徐々に理解が追い付いて、今度は頭が激しく動揺した。どーいうことだよとミズキを見ると本人も動揺したような顔で、こっちを見ようとしない。
正直その朝礼がいつ終わってどうやって教室まで戻ったもんか、記憶が定かでない。ホームルームが始まると周りが担任に「ミズキちゃん先生辞めちゃうの」みたいなことを口々に囃し立てたが、全体朝礼で知った以上のことは得られなかった。
そもそもミズキは産休代理として赴任してきたんだからこの学校に定年まで勤めるとは思ってなかったが、少なくとも俺が卒業するまでは当たり前にいて、あの美術準備室に俺を受け入れてくれるだろうと安心していた。
この学校を辞める。ミズキがいなくなる。次の職場はどこになるんだろうか、今の部屋はどうなる?何で俺に何も言わない?
俺の前からミズキが消えるかもしれないと思うと、足元の地面が崩れるような気分がした。
昼休みに入った直後美術準備室に駆け込むとミズキは不在だった。こんなのは初めてで余計に焦って、鞄をその場に放って入ってきたばかりのドアから飛び出した。
当たりを付けて向かった職員室から丁度出てきたミズキは俺に気付いて、俺の剣幕に縮こまった。その腕を引っ掴んで強引に来た道を引き返すと、周りの連中が何人も振り返って耳打ちし合った。ミズキが「不死川くん」と何度か呼んだが無視して強引に歩き続けた。
元の準備室まで戻るとドアを叩き閉めて鍵を掛けた。
「どーいうことだァ?」
「…ごめんね、先輩が復職するから私、」
「そりゃもう聞いた。…行くなよ」
「実弥くん、あのね、」
「頼むから行くな」
自分が説明を求めておきながら、ミズキが口を開くと決定的で致命的なことを言われてしまう気がして、何も言わせたくなかった。ミズキを抱き締めて首筋に鼻先を埋めるといつもの甘い匂いがした。ミズキの匂いだ。この匂いを、体温を、声を、柔らかさを失うのは考えられない。懇願する声は情けないほど震えていた。
「行かないよ」
ミズキが俺の背中に手を回してとんとんと叩いた。まるで子ども相手だった。
「…でも辞めんだろ」と言い返す声も我ながら拗ねた子どもみたいだった。
「あのね、言い訳っぽくなっちゃうけど、電話もらったのが昨日の夜だったんだもん」
「…話が見えねェ」
「駅前の1階が本屋さんになってるビルがあるでしょ?あの3階の絵画教室で講師をさせてもらえることになってね」
「………ハァ?」
「この学校を辞めなきゃいけないのは本当なんだけど、引っ越さないし、毎日会えるよ」
「…」
「ごめんね、不安になったよね。絵の関連で再就職って結構狭くて、決まってから言いたかったんだけど朝礼で先に言われちゃって」
「…つまり、」
「行かないよ。あの部屋で、実弥くんといる」
ハァァァァ――――――…と腹の底から空気を全部吐いて心底安堵した。
再就職が決まってからというミズキの気持ちは理解できるし、俺の受験に気を遣うのもミズキならそうするだろう。
ミズキは脱力して凭れかかった俺の頭を撫でて「びっくりさせてごめんね」と言った。言っておくが『びっくり』とかいう次元ではない。
「…マジで死ぬかと」
「ごめんね?」
「ここで昼食えなくなんのかァ…」
「それは私も寂しいよ」
「ハァ…新年度滅失しろ」
「でもね、駅前の絵画教室の講師に年下の恋人がいても誰も文句言わないと思うの」
「最高かよ」
我ながら現金なもんだと呆れるが、そうだ、大手を振ってミズキといられる。
逆に言えば俺が卒業した後ミズキをこの学校に残すことの方が不安だ。主に現国教員的な意味で。
いやでも絵画教室にも現国教員の色違いみたいのがいないとも限らない。
「その絵画教室っての男も来んのかァ?」
「女性限定じゃないからね」
「俺は絵心ねェからなァ…弘でも行かせるか」
冗談と思ったみたいでミズキは笑ったが、俺は割と本気だった。絵心さえあれば俺が行くところだが、何せ俺は貞子からせがまれて猫を描いたら泣かれたことのある前科持ちだ。
「誰かさんが可愛いんでなァ、彼氏は気が気じゃねェ」
両手で顔を掴んで鼻先まで顔を寄せるとミズキは赤くなって、俺の肩に額を押し付けた。小さい、細い、柔らかい、温かい、可愛い、可愛い、可愛い。
「…実弥くんも浮気しないでね」
俺の胸元から聞こえた小さい声を一瞬聞き間違いかと迷ったが、ミズキの顔を覗き込むとそうじゃないらしいと分かって、そのいじらしさに口元が緩んだ。
「出来ねェよ。言っとくけどなァ、四六時中ミズキに触ることしか考えてねェぞ俺は」
俺の答えにミズキは満足したらしく目を細めて、喉を鳴らす猫みたいに笑った。
「それでいいの?受験生なのに」
「そうさせてんのはミズキ先生なんで責任取ってもらえますかねェ」
「責任ってどう取るの」
ミズキに制服着せてここでセックスがしたいとはさすがに言わないでおいた。
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